世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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一ヶ月の投稿デス。


観測者の葛藤

 深海数千メートル。太陽の光が一切届かぬ暗黒の底に、人工の光で満たされた空間があった。

 

 文明復興財団パナソル本部、コマンドセンター。数十面のモニターが青白く輝き、オペレーターたちの指が静かにキーボードを叩く音だけが響く。その最奥、重厚な革張りの司令席に、タチバナ・ケイイチは深く身を沈めていた。

 

「司令官、小室孝と毒島冴子の両名、本隊より分断されました。現在、別ルートを高城邸方向へ進行中です」

 

 青髪にエメラルドの瞳を持つオペレーターが、落ち着いた声で報告する。タチバナはコーヒーカップを口元に運びながら、視線だけでモニターの端に表示されたドローン映像を捉えた。

 

 

「そうか。ご苦労」

 

 

 短く返す。声は涼しく、威厳に満ちている。最高指導者としての完璧な仮面。しかし──その仮面の下で、タチバナの脳内は阿鼻叫喚の渦を巻いていた。

 

 

(え、ちょっと待って。あの二人だけでしょ? 高城邸までまだ結構な距離あるよね? 大丈夫なの? いや、俺は何もしてないけど! 俺は何もしてないから!)

 

 

 心の中で叫びながら、コーヒーを啜る。手が、微妙に震えていた。

 

 

「司令官。カップが揺れていますが、何か?」

 

 

 オペレーターの一人が、心配そうに声をかける。タチバナはすかさずカップを置き、涼やかな笑みを浮かべた。

 

 

「気のせいだ。それより、映像をメインスクリーンに。観測を続けよう」

(気のせいじゃないんだよなこれ。怖いんだよ。だってあの二人、今めちゃくちゃ危険なところにいるじゃん。俺だったら絶対嫌だよこんなの。丸石で壁作って引きこもるわ。ていうか、なんで俺はこんなところで他人の心配してるんだ? 俺は安全なんだぞ? ここは地球上で一番安全な場所なんだぞ?)

 

 

 モニターに映し出された公園。孝が噴水に車をくくりつけ、エンジンを全開にする。甲高いクラクションとエンジン音が夜の街に響き渡り、周囲の「奴ら」が一斉にそちらへと引き寄せられていく。

 

 

「ほう…音で釣るか。なるほどな、頭は回るじゃないか」

 

 

 タチバナは素直に感心した。前世の警察官としての目が、孝の判断を評価する。囮として機能する車両を囮に使い、その隙に本隊と合流する。シンプルだが、極限状態でそれを実行に移せる胆力は、並の高校生のものではない。

 

 

「小室さんの作戦、見事ですね」とオペレーターが呟く。

「ああ、若さだな。俺には真似できん」

 

 

 タチバナは渋い顔で返した。そしてすぐに、内心で全力で否定する。

 

 

(いやいやいや、俺だったら絶対やらないぞあんなの。音で釣るってことは、その音に俺も近づかれるってことだろ? 怖すぎる。絶対やだ。ていうか、よくそんなの思いつくよな。俺なら即座に丸石で壁作って引きこもるわ。それが正解だろ。なぁ?)

 

 

 モニターの中では、陽動作戦が成功し、孝と冴子が高城邸方向へ走り出していた。タチバナはほっと息を吐きかけた──その瞬間。

 

 

「司令官、別方向から『奴ら』の群れが接近しています!」

「うわ、こっち来た!」

 

 

 タチバナは思わずモニターに身を乗り出していた。オペレーターたちが一瞬、ぎょっとしたように彼を見る。

 

 

「こほん。状況を報告しろ」

「は、はい。小室さんたちの背後、約二百メートル。数は二十体前後かと」

「…そうか。彼らなら何とかするだろう」

(何とかするって、どうやって!? 二十体だぞ!? 二人しかいないんだぞ!? いや、毒島くんは強いけど! でも二十体は多いって! ていうか、なんで俺はこんなにハラハラしてるんだ!? 俺は関係ないだろ!?)

 

 

 日が沈み、孝と冴子は神社に辿り着いた。ドローン映像は暗視モードに切り替わり、境内の社に籠る二人の姿を捉える。

 

 

「あのさぁ。一応言っておくけど、俺は何も見てないからな。うん、何も見てない。健全な観測だ」

 

 

 タチバナは誰にともなく呟いた。オペレーターの一人が「映像を拡大しますか?」と尋ねる。

 

 

「いや、拡大すんな! いいから! 健全に見ろ! 健全に!」

 

 

 思わず声が裏返った。オペレーターたちがきょとんとした顔で彼を見る。

 

 

「司令官、何か問題でも?」

「問題はない。何も問題はない。ただ、その健全な観測を徹底しろということだ。うん」

(え、何してんの? まさか…いやいやいや、小室くんには麗くんがいるんだぞ! 毒島くんもわかってるはずだろ! でもあの状況で二人きりって……いや、俺は知らん! 俺は何も知らん! ていうか、なんで俺はこんなに気にしてるんだ!? 関係ないだろ!?)

 

 

 モニターの前で、タチバナは「見ちゃいけない、見ちゃいけない」と呟きながら、指の隙間からチラチラと映像を覗いていた。

 

 

「司令官、お疲れですか? 顔色が優れないようですが」

「牛乳、持ってきてくれ」

 

 

 オペレーターが首を傾げながらも、冷たい牛乳の入ったグラスを差し出す。タチバナはそれを一気に飲み干した。状態異常をリセットするためではない。精神を落ち着けるためだ。

 

 

「ふぅ。よし、観測を続けよう」

 

 

 夜も更けた頃。社の中で、冴子が孝に何かを語り始めていた。音声はドローンでは拾えない。だが、映像だけでも、その表情の変化は明らかだった。

 

 普段の凛とした武人の顔から、どこか弱々しい、少女のような表情へ。何かを告白している。過去の、心の奥底に隠していた何かを。

 

 タチバナは、いつの間にかモニターに身を乗り出していた。先ほどまでのコメディじみた動揺は、どこにもない。

 

 

「何か、大事な話をしてるな」

 

 

 ぽつりと呟く。声は静かだった。

 

 

「これは俺が口を挟むもんじゃない」

 

 

 オペレーターたちも、その声のトーンに気づいてか、黙ってモニターを見つめている。社の中では、孝が何かを言い返している。冴子が顔を上げる。その表情が、少しだけ、楽になったように見えた。

 

 タチバナは、珍しく真剣な表情でモニターを見つめていた。

 

 

「毒島くんも、いろいろ抱えてるんだろうな。ああいう強い奴ほど、内側に闇を飼ってるもんだ」

 

 

 前世の警察官時代。彼は何人もの「強い人間」を見てきた。表向きは完璧で、揺るぎない意志を持つように見える者ほど、その内側には深い闇を抱えている。そして、その闇を誰かに打ち明けられた時、人は初めて救われる。

 

 

「小室くんが、それを受け止められるかどうかだな」

 

 

 タチバナは静かに言った。その声には、普段の自分本位な響きはない。ただ、一人の人間としての、静かな祈りにも似た響きがあった。

 

 しかし──その直後。

 

 

「司令官。毒島さんが…笑っています。何か、吹っ切れたような」

「…そうか。なら、大丈夫だな」

 

 

 タチバナはゆっくりと椅子の背にもたれた。そして、小さく息を吐く。

 

 

「…ふぅ。よかった」

 

 

 その一言は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 

 

(心配したわけじゃない。俺はただ、観測していただけだ。そうだ、観測だ。俺の仕事は常に観測。余計なリスクは一切背負わない。それが俺の、大いなる保身と平穏のための絶対正義なのだからな)

 

 

 夜が明けた。

 

 深海の底に昼夜の区別はない。だが、コマンドセンターの大型モニターに映し出される地上の映像は、確かに朝の光に包まれていた。夜の闇が薄れ、灰色がかった空が徐々に白みを帯びていく。

 

 廃墟と化した街並みが、その輪郭をはっきりと現していく。

 

 タチバナは、いつの間にか司令席でうたた寝をしていた。牛乳のグラスはとっくに空になり、机の端に転がっている。オペレーターの一人が静かに近づき、新しいコーヒーを置こうとした、その時だった。

 

 

「司令官。小室孝と毒島冴子、高城邸に到着しました」

 

 

 その声に、タチバナはびくりと肩を震わせて目を覚ました。一瞬、何が起きたか分からないといった様子で周囲を見回し、それからモニターに視線を移す。

 

 高城邸の正門前、私兵たちに囲まれながら、孝と冴子が立っている。二人の姿に目立った外傷はない。疲労の色は濃いが、歩く足取りは確かだ。やがて門の奥から麗たち本隊が駆け寄ってくるのが見えた。

 

 麗が孝に抱きつく。冴子はその様子を一歩引いた位置から、静かに見守っている。

 

 

「到着したか」

 

 

 タチバナは呟いた。声は掠れていた。何度も何度も頷きながら、彼はモニターを見つめ続ける。

 

 

「よし。よし」

 

 

 同じ言葉を繰り返す。オペレーターの一人が、そっと新しいコーヒーを机に置いた。

 

 

「司令官。随分とご心配されていたようですね」

 

 

 タチバナははっとしたように顔を上げた。それから、いつもの涼やかな笑みを浮かべる。

 

 

「心配なんてしてない。ただ、観測していただけだ。俺の仕事は常に観測だ」

(心配、してたのかな。俺)

 

 

 心の中で自問する。だが、すぐにその問いを打ち消した。

 

 

(いや、違う。俺はただ、状況を把握していただけだ。パナソルの最高指導者として、地上の動向を監視するのは当然の責務。別に、あの二人の安否を個人的に気にしていたわけじゃない。うん。そうだ。そうに決まっている)

 

 

 タチバナはコーヒーを一口啜った。温かい液体が喉を通り、じんわりと身体に染み渡る。その温かさに、ようやく肩の力が抜けた。

 

 

「ふぅ…これで俺の平穏なスローライフに影響はない。よかったよかった」

 

 

 誰にともなく呟く。オペレーターたちは、あえて何も言わない。彼らは優秀だった。司令官の「外面」と「内心」のギャップを、薄々察している。だが、それを指摘するような野暮な部下は一人もいない。それが、タチバナが彼らを信頼している理由の一つでもあった。

 

 

「もしあの二人が死んでたら、俺の心が少しだけ痛んだかもしれないからな」

 

 

 タチバナは付け加えた。少しだけ、という言葉を強調して。

 

 

「少しだけ、な」

 

 

 オペレーターの一人が、小さく笑った気配がした。タチバナは気づかないふりをした。

 

 そして、モニターから視線を外す。高城邸の映像を端に寄せ、別のカメラへと切り替える。床主東署方面の映像が映し出された。警察署の周辺には、まだ「奴ら」の群れが蠢いている。

 

 その数は以前より確実に減っていた。自衛隊か、あるいは別の生存者グループが排除したのか。いずれにせよ、あの辺りも、もうすぐ何かが動く。そんな予感があった。

 

 

「さて、次の観測は…お、床主東署の方面か。ふむ、あの辺りもそろそろ騒がしくなりそうだな」

 

 他人事のように呟いて、タチバナは椅子の背にもたれた。すっかりいつもの調子に戻っている。

 

 

 それから、しばらくの間。コマンドセンターには穏やかな空気が流れていた。地上では依然として地獄が続いている。

 

 だが、この深海の底には、その喧騒は届かない。オペレーターたちは淡々と職務をこなし、タチバナは時折モニターを眺めながら、コーヒーを啜っている。

 

 

「司令官はいつも冷静ですね」

 

 

 ふと、一人のオペレーターが呟いた。青髪の、エメラルドの瞳を持つ少女だった。タチバナはカップを置き、穏やかな笑みを浮かべる。

 

 

「冷静でなければ、この立場は務まらんよ」

(全然冷静じゃないけどな! 内心めちゃくちゃ怖いし! さっきだって、小室くんたちが心配で心配で、胃が痛くなりそうだったんだぞ! でも、それを顔に出したら終わりだろ! 最高指導者としての威厳が! 俺の安全な生活が!)

 

 

 心の中では絶叫しながら、外面は完璧な微笑みを保つ。この二重生活にも、そろそろ慣れてきた。慣れたくない自分もいるが。

 

 

「司令官の判断は常に的確です。私たちは、そのおかげで安心して働けます」

 

 

 別のオペレーターが、そう言って微笑んだ。タチバナは一瞬、言葉に詰まった。

 

 

(判断なんてしてない。見てるだけだ。俺は何もしてない。何もしてないんだ。でも、そう言ってもらえるのは、ちょっとだけ、嬉しい)

 

 

「そうか。それは何よりだ」

 

 

 短く返すのが精一杯だった。その声には普段よりもほんの少しだけ、温かみが混じっていた。

 

 

「司令官、コーヒーお代わりはいかがですか?」

「ああ、頼む。あ、牛乳も一緒に」

「かしこまりました」

 

 

 オペレーターが丁寧に一礼して、その場を離れる。タチバナはその背中を見送りながら、ふと思った。

 

 

(俺は、この子たちに支えられているんだな)

 

 

 鉄とレッドストーンと卵から生まれた、自分が創造した存在。だが、彼女たちはただの「駒」ではない。少なくとも、タチバナにとっては。彼女たちがいるから、この広大な深海の底でも、孤独を感じない。

 

 彼女たちがいるから、怖い夜も、こうして乗り越えられる。

 

 

(…なんてな。感傷的になりすぎだ。俺らしくない)

 

 

 タチバナは小さく首を振って、その考えを打ち消した。そして、運ばれてきた新しいコーヒーと牛乳を受け取る。牛乳を一口含んで、少しだけ、ほっとした。

 

 

「今日も、平和だな」

 

 

 誰にともなく呟く。モニターの向こうでは、まだ世界が終わりかけている。だが、この司令室だけは、今日も変わらず平和だった。

 

 タチバナは、ほんの少しだけ、モニターの端に映る高城邸の映像に視線を送った。そこには、もう孝たちの姿はない。

 

 代わりに、私兵たちが警戒にあたっている。その光景を確認して、彼は静かに目を閉じた。

 

(生き残れよ、若者たち。俺はここで、お前たちの戦いを、見守っているからな)

(時が来ればパナソルは動き出す。それまでは生き残ってくれないと困る! パナソルが人類を救うんだからな!)

 

 心の中でそう叫んで、タチバナは満足げに頷いた。そうだ、俺は何もしていないのではない。最終的な救済の準備をしているのだ。 今はまだその時ではない。

 

 いずれこのパナソルが、この荒廃した世界に秩序を取り戻す。そのためにも、地上の生存者たちには、もう少しだけ踏ん張ってもらわねばならない。彼らが生き延びてくれなければ、俺の「人類救済」という大義名分も絵に描いた餅だ。

 

 孝たちには感謝こそすれ、恨まれる筋合いはない。まあ、俺が動かないせいで多少は死にかけているわけだが、そこはほら、最終的に助かるんだから問題ない。うん。問題ない。

 

 

(…本当に、問題ないのか?)

 

 

 ふと、そんな声が心の奥から聞こえた気がした。タチバナはそれを、コーヒーを啜る音でかき消した。

 

 今は、考える時ではない。考えるのは、もっと安全な場所で、もっと美味いものを食べながらでいい。そう自分に言い聞かせて、彼はモニターから視線を外した。

 

 

「司令官。床主東署方面の監視映像、別角度からも展開しますか?」

「ああ、頼む。そうだな、ついでに周辺の生存者反応も拾っておけ。誰がどこにいるのか、正確に把握しておきたい」

「かしこまりました」

 

 

 オペレーターが指示を復唱し、コンソールに向き直る。その手際の良さに、タチバナは満足げに目を細めた。

 

 

(優秀な部下を持つのも、悪くない。いや、最高だな。これなら俺が多少サボっても、組織は回る。完璧だ)

 

 

 深海の底で、今日もまた、観測者の一日が静かに過ぎていく。地上では死と絶望が渦巻いているというのに、この司令室だけは、まるで別世界のように穏やかだった。

 

 タチバナは椅子に深く身を沈め、温かいコーヒーの香りを楽しみながら、ゆっくりと目を閉じた。

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