世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
電子ロックが静かな作動音を鳴らし、分厚い防音扉が重々しく閉ざされる。外界のあらゆるノイズ──車の走行音や、遠くで鳴り響くサイレン、人々の喧騒──が、その一枚の扉によって完全に遮断された。
時刻は午後14時。
タチバナ・ケイイチは、床主市を一望できる高級高層マンションの自室へと帰還していた。玄関で靴を脱ぎ、磨き上げられた大理石の廊下を歩く彼の足取りは、羽が生えたように軽い。
「はぁ…やっぱり、我が家の空調は最高だな」
彼は首元を締め付けていたネクタイを緩め、漆黒のオーダースーツのジャケットをハンガーに掛けた。
午前中のスーパーマーケットでの「買い出し」を終え、帰り道で小室孝たちと言葉を交わしたタチバナは、その後どこへも寄り道をせず、真っ直ぐにこの静かな自室へと戻ってきていた。
かつての彼であれば、この真昼間に私服へ着替え、自宅でくつろぐことなど考えられなかった。警察官という職務は、常に時間とプレッシャーに追われるものだったからだ。
しかし今の彼を縛る規則も、ヤンデレ三人娘も存在しない。
タチバナはキッチンへ向かい、エスプレッソマシンを起動した。
挽きたての豆が放つ芳醇な香りが、静謐なリビングにふわりと広がっていく。
コーヒーが落ちるのを待つ間、彼は空中に『インベントリ』のウィンドウを展開し、半透明のパネルを指先で弾いた。
「鉄インゴット、レッドストーン、それに今日買い占めてきた大量の卵。うん、完璧だ」
スロットに整然と並ぶ素材のアイコンを眺め、タチバナは満足げに頷いた。
これだけあれば俺に絶対の忠誠を誓い、身の回りの世話から物理的な防衛までを完璧にこなしてくれる「都合のいい手駒」をクラフトするための準備が整う。
急ぐ必要はない。今日はもう労働の時間は終わりだ。あとはこの快適な部屋で、夕暮れまでソファに溶けるようにダラダラと過ごせばいい。
熱いエスプレッソが入ったマグカップを片手に、タチバナはリビングの中央に鎮座するイタリア製の最高級レザーソファに深く身を沈めた。
「アァ、たまらん」
背中を包み込むマシュマロのような弾力が、心地よい倦怠感を誘う。タチバナはリモコンを手に取り、壁掛けの百インチ大型モニターの電源を入れた。
画面には平日の昼下がり特有、のどかな情報バラエティ番組が映し出されていた。スタジオのタレントたちが、都内の美味しいスイーツ特集について大げさなリアクションを交えながら語り合っている。
タチバナはコーヒーを一口啜り、その中身のない平和な映像を、ただの環境音としてぼんやりと眺めていた。
(孝くんたちも、今頃は教室で退屈な午後の授業を受けている頃だろうな。青春ってやつは眩しいが、俺はこのクーラーの効いた部屋で、誰にも邪魔されずに惰眠を貪る大人の特権を享受させてもらうぜ)
彼がそんな優越感に浸りながら、軽く目を閉じようとした、その時だった。
『──ピロロロロン、ピロロロロン!』
突如として、テレビのスピーカーから耳障りな電子音が鳴り響いた。
タチバナは微かに眉をひそめ、薄く目を開ける。
画面に映っていたスイーツの映像が不自然に途切れ、無機質な「報道特別番組」のテロップへと切り替わった。
スタジオのカメラが切り替わり、ニュースデスクに座る男性アナウンサーの姿が映し出される。その顔は、プロの技術をもってしても隠しきれないほどに蒼白だった。
『番組の途中ですが、緊急のニュースをお伝えします。本日正午過ぎより、県内各地において大規模な暴動が発生しています。現在、警察の機動隊が鎮圧にあたっていますが、暴徒の数は増え続けており、一部の地域では深刻な被害が──』
「暴動? この真昼間にか」
タチバナはマグカップをローテーブルに置き、少しだけ身を乗り出した。
午前中、麗が「お父さんが物騒な事件で帰ってこない」と言っていたのは、このことだったのかと合点がいく。
(まったく、現役の連中は大変だな。だが、日本の警察の鎮圧能力を舐めない方がいい。数時間もすれば、放水車と催涙ガスで制圧されて終わりだ)
元・特殊凶悪犯対策課の隊長としての経験が、彼に余裕を与えていた。タチバナは、安全な観客席から「かつての同僚たちの苦労」を高みの見物と決め込もうとしていた。
画面が、上空を旋回する報道ヘリからの空撮映像へと切り替わる。
映し出されたのは、市街地の幹線道路だった。パトカーが何台も横向きに停められ、即席のバリケードが構築されている。
その向こう側には、黒山の人だかりがうごめいていた。
その時だった。タチバナの元警察官としての鋭い動体視力が、その映像の「異質さ」を即座に捉えたのは。
「ん? なんだ、あいつらの動きは」
バリケードに押し寄せる暴徒たちの動きが、絶対におかしいのだ。
普通警察の盾にぶつかる暴徒は怒号を上げプラカードを振り回し、投石などの遠距離攻撃を行う。
しかし画面に映る群衆は、まるで関節の曲がり方が間違っているかのような不自然なすり足で、ただ無言のまま警察の盾に「張り付いて」いるように見えた。
『現在、現場からの映像が入ってきています。あ、あれは、何をしているのでしょうか? 暴徒が、警察官に…』
アナウンサーの声が震え、語尾がひっくり返った。
映像が、地上にいるカメラマンのカメラへと切り替わる。
画面は激しくブレていた。カメラマン自身が何かに追われ、走りながら撮影しているのだ。
『やめろ! 離れろ!』
スピーカーから、警官の悲痛な絶叫が響き渡る。
カメラのピントが合った先、タチバナの百インチの大型モニターに、その光景が鮮明に映し出された。
機動隊の防護盾が崩された隙間。一人の若い警察官が、スーツ姿のサラリーマン風の男に押し倒されていた。
男は、警官の胸倉を掴んで殴りかかっているのではない。その顔を、警官の首筋へと深々と押し当てていたのだ。
ブチブチッという水気の多い布を引き裂くような不快な音が、マイクを通してリビングに響き渡った。
警官の首筋から、鉄の匂いを帯びた赤い飛沫が噴水のように舞い上がる。制服の襟元が瞬く間に赤黒く染まり、警官の身体が痙攣したようにビクンと跳ねた。
タチバナは、息を呑んだ。
全身の血液が、一瞬にして氷点下まで凍りついたような錯覚。
「…は?」
画面の中で、首を噛みちぎられた警官は数秒の痙攣ののち、ピクリとも動かなくなった。
明らかに生命の灯火が掻き消えた、医学的な「死」の瞬間である。
周囲の警官たちがパニックに陥り、同僚を襲ったスーツの男を警棒で滅多打ちにする。
骨の軋む鈍い音が響き、男の頭部は原形を留めないほどに歪んでいくが、それでも男は警官への捕食をやめようとしない。
『あ、あああ…!』
カメラマンの悲鳴が混じる。
タチバナの視線は、噛み殺されて地面に横たわっていた「若い警察官の骸」に釘付けになっていた。
死んだはずの警官の指先が、ピクッと動いた。
「嘘…だろ…」
タチバナの喉から、かすれた音が漏れる。
画面の中で、首の肉を大きく欠損し、確実に絶命していたはずの警官が、不自然な角度でゆっくりと立ち上がった。
その瞳の焦点は合っておらず、白濁している。彼は先ほどまで共にバリケードを守っていた隣の同僚へとゆっくりと腕を伸ばし、その肩口へと躊躇いなく牙を剥いた。
新たな悲鳴。連鎖する赤い飛沫。
カメラが横に振れると、そこには暴動などという生易しいものではなく、理性を完全に失った「物言わぬ死者」の群れが、生者の肉を求めて警察の防衛線を食い破っていく。
正真正銘の地獄絵図が広がっていた。
『逃げて! 誰か、助け──』
カメラマンの悲痛な叫び声と共に画面が激しく乱れ、アスファルトの地面が映し出されたのを最後に、映像は不快な砂嵐へと切り替わった。
リビングには、ザーッという無機質なノイズ音だけが響き渡っている。
タチバナの右手から、力が抜け落ちた。
手から滑り落ちたマグカップが、大理石の床に激突して粉々に砕け散る。熱いエスプレッソが、高級なペルシャ絨毯に黒いシミを広げていった。
タチバナは足元の惨状など気にも留めず、ただ砂嵐を映し出すモニターを凝視したままガタガタと全身を震わせていた。
前世で培った警察官としての冷徹な状況分析と、今世で得たマインクラフターとしての知識が、最悪の形で結びつく。
暴動ではない。テロでもない。
これは、噛まれた者が次々と感染して増殖していく、パンデミックだ。それも、絶対に意思疎通が不可能な、歩く死者の群れ。
彼が夢見ていた平和な日常の前提となる『外部の社会インフラ』が、たった今、音を立てて崩壊していくのを、彼は特等席で見せつけられたのだ。
タチバナは震える手で額を押さえ、ゆっくりとソファに背中を預けた。頭の中で警鐘が鳴り響く中、彼はゆっくりと肺の空気を外へ押し出す。
「すぅ…俺は何もしてない」
長く、震える呼気を吐き出した後、タチバナ・ケイイチは自分自身に言い聞かせるように、静かに呟いた。
テレビの画面は相変わらず無機質な砂嵐を映し出しており、ザーッというノイズが静まり返ったリビングに虚しく響いている。
床主市のあちこちで暴動——いや、死者が生者を喰らうパンデミックが起きているという現実は、彼の脳髄を直接揺さぶるような圧倒的な恐怖だった。
が、極限のパニックに陥りかけたタチバナの頭脳は、前世で培ったエリート警察官としての防衛本能と、今世のゲーマー的思考をフル回転させ、急速に一つの「開き直り」へと到達した。
「ふっ、慌てることはない。俺は何もしてないのだから」
そうだ。パニックになる必要なんてどこにもない。
よくよく考えてみたら、ただの人間ではなく「マインクラフター」なのだ。電気、水道、ガス、通信網。それら社会的インフラが完全に機能停止したとしても、俺の生存には一切の影響を及ぼさない。
食料も資源も、インベントリ空間と『オーバーワールド』の次元さえあれば、自己完結できる。
「つまり俺専用のオーバーワールドに戻って、この騒ぎが収まるまで引きこもっていればいいだけだ」
完璧だ。現世が地獄に変わろうとも、俺には絶対に安全な逃げ道がある。
タチバナは立ち上がり、インベントリから帰還用ゲートを起動するための素材を取り出そうとした。
──その時である。
彼の脳裏に、氷の刃のような一つの疑問が、ふっと湧いてしまった。
(待てよ? オーバーワールドとこの現実世界を繋ぐ『ネザーゲート』って…俺ちゃんと閉めたっけ? 閉めるってよりかは、破壊が正しいんだが…へ?)
背筋に、雷が落ちたような悪寒が走った。
タチバナは今日、地下の廃坑で素材を集めていた際、暗がりから湧いたゾンビの呻き声にビビり散らかし、大慌てで現実世界へと逃げ帰ってきた。
その際、パニックのあまりゲートを「開けっ放し」にしてしまった記憶がおぼろげにあった。
(ま、まさか、まさかな…? 俺のオーバーワールドから『こんにちは、ゾンビです。仲間を増やしに来ました!』なんて感じで、あっちのゾンビがこの現実世界に漏れ出した…なんて展開は、百億パーセントあり得ないだろう。いくらなんでも、そんなマンガみたいな──)
ドォォォォンッ!!
タチバナの必死の現実逃避を、物理的な破壊音が無残に打ち砕いた。
マンションの頑丈な玄関ドアが、凄まじい衝撃を受けて内側へとひしゃげたのだ。
「は…?」
タチバナが振り返る間もなく、蝶番が悲鳴を上げて吹き飛び、玄関の扉が廊下へと倒れ込んだ。
そこに現れたのは、タチバナのオーバーワールドから漏れ出した四角いゾンビ──ではなかった。高級マンションの住人だったであろう、スーツ姿の男や、エプロン姿の主婦、そして見回りのコンシェルジュたちだ。
彼らの瞳にはすでに人間の理性の光はなく、白濁した眼球を剥き出しにし、口の周りをべっとりと赤い飛沫で汚していた。
「あ、あぁぁ…」
「ヴゥゥ…」
パンデミックはすでに、この高層マンションの内部にまで完全に侵食していたのだ。
閉鎖空間であるマンションにおいて、誰か一人が感染すれば、パニックはネズミ算式に広がる。
オートロックも分厚い扉も、痛みを知らずに押し寄せる死者の群れの前では紙切れと同義だった。
「う、嘘だろ…! ここのセキュリティはどうなってんだよ!?」
タチバナは引きつった笑いを浮かべ、後ずさりした。
「あ〜その、こんにちは? 今日はいい天気ですね。どちらへお出かけで?」
現実逃避の極みのような挨拶を試みるが、血の匂いと音に引き寄せられた「奴ら」が、そんな気の利いたジョークを解するはずもない。
彼らは獲物を見つけた獣のように、一斉にタチバナに向かって腕を伸ばし、雪崩れ込んできた。
「挨拶してもダメっぽいですね。た、助けてー!!」
タチバナの理性の防波堤が、完全に粉々に打ち砕かれた。
彼は踵を返し、リビングを全速力で駆け抜けた。玄関が完全に塞がれている以上、逃げ道はバルコニーしかない。
「なんで俺がこんな目に!」
彼はバルコニーのガラス戸を蹴り開け、隣の部屋との間にある薄いパーティションを金属バットで叩き割った。
隣の部屋さらにその隣へと、ベランダ伝いに必死の逃走を続ける。
マンションの構造上、ベランダを横に逃げ続けてもいずれ行き止まりになる。下の階へ飛び降りることは自殺行為だ。
タチバナの目に、最終階層の端に設置された、屋上へと続く非常用の点検ハッチが飛び込んできた。
「くそっ、上に行くしかねえ!」
彼はハッチの梯子に飛びつき、無我夢中で這い上がった。
背後からは、窓ガラスを突き破ってバルコニーへと溢れ出してきた「奴ら」の呻き声が迫っている。
肺から酸素が強制的に絞り出されるような恐怖と息苦しさの中、タチバナは屋上のコンクリートの床へと転がり込んだ。
「ハァッ…ハァッ…! なんで屋上に来ちゃったんだもう!」
タチバナは荒い息を吐きながら、己の選択を呪った。
映画やサバイバルゲームのセオリーにおいて、逃げ場のない高所に追い詰められるのは、最も愚かで致命的なバッドエンドのフラグである。
案の定、彼が登ってきたハッチから、次々と「奴ら」が這い上がり始めた。さらに、屋上に続く別の階段室の扉も内側からの圧力でひしゃげ、無数の死者たちが溢れ出してくる。
タチバナはインベントリを開き、丸石ブロックを取り出して防壁を作ろうとした。しかし極限のパニックにより指先が震え、うまくスロットを選択できない。
「マズい囲まれる!」
四方八方から迫り来る「奴ら」。逃げ場のないコンクリートの屋上。
タチバナが死の恐怖に顔を歪め、ぎゅっと目を瞑った、その瞬間だった。
ドドドドドドドドドッ!!
上空から、空気を切り裂くような凄まじいローターの轟音が降り注いだ。
突風が吹き荒れ、屋上の砂埃が舞い上がる。タチバナが驚いて上空を見上げると、そこには漆黒に塗装された一機の軍用ヘリコプターがホバリングしていた。
機体の側面のハッチが開き、数本のファストロープが屋上へと投下される。
そこから滑り降りてきたのは、全身を複合装甲のタクティカル・アーマーで包み、表情のないフルフェイス・ヘルメットを被った兵士たちだった。
「あいつら!」
タチバナの瞳に、歓喜の光が宿る。
彼らはただの軍隊ではない。タチバナ自身がかつて、鉄と火薬と卵を合成してクラフトし、「俺の身に何かあったら、即座に救出しろ」という絶対命令を組み込んでおいた『パナソル保安部隊・汎用執行兵(P.S.F. Standard Trooper)』たちであった。
着地した汎用執行兵たちは一切の無駄な動作なく、手に持った制式アサルトライフルを構えた。
タチバナを取り囲もうとしていた「奴ら」に向かって、正確無比な射撃が開始される。
ダァァァンッ! と乾いた銃声が連続して響き渡り、火薬の閃光と共に「奴ら」の頭部が次々と粉砕されていく。
感情を持たず、恐怖を知らない彼らの動きは、圧倒的な強者のオーラを放っていた。
「ご主人様、救出に参りました」
無線越しに聞こえるノイズ混じりの機械的な音声。一人の汎用執行兵がタチバナの腰にハーネスを取り付け、上空のヘリへと引き上げる合図を送った。
ウィンッ、というウインチの巻き上げ音と共に、タチバナの身体が宙に浮く。眼下では汎用執行兵たちが一糸乱れぬ動きで「奴ら」を制圧しつつ、タチバナに続いて次々とヘリへと帰還していく。
安全なヘリのキャビンに引き上げられたタチバナは、シートに崩れ落ちるように座り込んだ。
開いたままのハッチから、眼下の床主市を見下ろす。あちこちから黒煙が上がり、平和だった街が完全に地獄へと変貌している光景が広がっていた。
それを見てタチバナの口からは恐怖ではなく、極度の安堵から来る笑い声が漏れた。
「フハハハハ! これで追ってこれまい!」
どんなに街がゾンビで溢れようと、俺にはこの無敵の軍隊がある。俺の作ったセーフティネットは完璧に機能しているのだ。
ヘリは高度を上げ、床主市の混乱を背にして、太平洋の沖合へと機首を向けた。
タチバナはふと、ヘリが向かっている方角を見て首を傾げた。
「ん? で、海に向かってるようだけど…目的地は?」
彼自身、自分の作った兵士たちがどこに「拠点」を構えているのか、完全には把握していなかったのだ。
夕闇が迫る空の下、漆黒のヘリコプターは、タチバナの疑問を乗せたまま、深い海の向こうへと飛び去っていった。
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