世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
とは作中で明言されていない。
上空を吹き抜ける風が、開け放たれたハッチから容赦なく機内へと吹き込んでくる。
ローターが空気を切り裂く重低音が響く中、タチバナ・ケイイチはキャビンのシートに深く背中を預け、荒い呼吸を必死に整えようとしていた。
漆黒に塗装された軍用ヘリコプターは、パニックに陥った床主市の混乱を背にして太平洋の沖合へと飛行を続けている。
時刻は午後を少し回った頃合い。まだ太陽は高く、眼下に広がる海面は春の陽光を反射して、眩しいほどの煌めきを放っていた。
タチバナは操縦席の背もたれ越しに、前方を向いているパイロットの後ろ姿を一瞥した。
全身を複合装甲のタクティカル・アーマーで覆い、フルフェイス・ヘルメットを被った兵士──彼自身がクラフトした『パナソル保安部隊・汎用執行兵(P.S.F. Standard Trooper)』だ。
(本当に、システムが機能するとはな)
タチバナは、まだ心臓が警鐘を鳴らし続けている胸元を抑えた。
そもそも、なぜ彼らが絶妙なタイミングでタチバナのマンションの屋上へと駆けつけたのか。タチバナ自身が、パニックのあまり通信機で救援を呼ぶ余裕すら失っていたというのに。
その答えは、彼がマインクラフターとしての能力を駆使し、この兵士たちをクラフトした際の「初期設定」にあった。
タチバナは鶏の卵、鉄ブロック、火薬、そしてレッドストーンを組み合わせて彼らを生み出す際、一つの条件式を組み込んでいたのだ。
『マスターの心拍数や発汗量が一定のストレス閾値を超え、かつ滞在地点の安全度が急降下した場合、最も近くに配備されている部隊が自動的かつ最優先で救出に向かうこと』
極度の小心者であり、痛いことや死ぬことを何よりも恐れるタチバナが、自らの命綱として編み出した「絶対的なセーフティネット」である。
マンションの屋上で「奴ら」に囲まれ、彼が心の底から「死にたくない」と絶望したその瞬間のバイタルサインをトリガーとして、このヘリコプターは基地から自動的に急行してきたのだった。
「よくやってくれた。助かったよ」
タチバナが安堵の息を漏らしながら声をかけると、操縦席の汎用執行兵は振り返ることなく、無線のノイズ音で短く肯定の意を返してきた。
彼らは個としての自我を持たず、ただ主人のためだけに存在する完璧な駒だ。
タチバナは、前世の警察官時代には決して得られなかった「絶対的な忠誠」に、深い安心感を覚えていた。ヤンデレ三人娘よりも安心できる。
ヘリコプターが陸地から十分に離れ、見渡す限りの大海原の上空に差し掛かった頃だった。
操縦席の汎用執行兵が、操縦桿を大きく前に倒すのが見えた。
「ん? おいちょっと待て…高度が下がってないか?」
タチバナが異変に気づき、身を乗り出す。
ヘリは水平飛行から一転、機首を真っ逆さまに下げ、眼下に広がる青い海面へ向かって急降下を始めたのだ。
「おい! 何やってんだ! どこに行くつもりだ!?」
タチバナの顔面から再び血の気が引き、声が上擦る。
ローターの回転音が悲鳴のように甲高く響き、視界いっぱいに海面が恐ろしい速度で迫ってきた。
「墜落する! 落ちる! ぶつかるぅぅっ!!」
タチバナはシートのハーネスを強く握りしめ、目を固く瞑って情けない絶叫を上げた。
「嫌だ! ゾンビから逃げ切ったのに海で死にたくないィィィッ!!」
凄まじい水柱が上がり、ヘリコプターは機首から海面へと激突した。
しかしタチバナが覚悟したような機体がバラバラに砕け散る衝撃も、冷たい海水がキャビンになだれ込んでくる窒息感も、一切訪れなかった。
「…あれ?」
恐る恐る目を開けたタチバナの視界に飛び込んできたのは、太陽の光が揺らめく海中を、まるで潜水艦のように滑らかに進むヘリコプターの姿だった。
開け放たれたハッチの部分には、目に見えない薄い力の膜のようなものが張られており、海水の侵入を完全に防いでいる。
操縦席の汎用執行兵も微動だにせず計器に向かい、通常通りに操縦を続けていた。
タチバナの脳内で、パニックで停止していた論理回路が再び繋がり始めた。
(そうだ。こいつらは、俺がマイクラの素材でクラフトした存在。このヘリコプターも、鉄ブロックとレッドストーンで作った『規格外の乗り物』だった)
創造主が生成したアイテムは、現実世界の物理法則を無視する。水中に潜れば乗員に呼吸効果を付与するエンチャントや、気密性を保つレッドストーンのバリアが自動的に機能するように設計していたのだ。
彼自身が前世の記憶を頼りに、「海底基地への安全な移動手段」として組み込んだ仕様そのものであった。ゲームで習いました。
「ふむ。悪くない潜水性能だ」
タチバナは、先ほどまで「死にたくない」と叫んでいた自分を無理やり脳内から抹消し、軽く咳払いをしてネクタイを締め直した。
操縦席の兵士は主人の失態など気にする素振りもないが、タチバナは一人で勝手に焦っていた自分が少し気恥ずかしくなり、気まずそうに視線を逸らした。
ヘリコプターは太陽の光が届く浅い層を抜け、やがて漆黒の深海へと潜行していく。
水圧が強まる海底、数千メートルの深淵。そこに、突如として人工的な青白い光の群れが浮かび上がった。
巨大な強化ガラスと鉄ブロック、そして彼がオーバーワールドで採掘した未知の素材によって構築された、巨大なドーム状の海底要塞。
それこそが、タチバナが己の能力の粋を集めてひたすらに建造し続けてきた拠点──『文明復興財団パナソル』の総本部であった。
彼がなぜ、このような巨大な組織と要塞を構築したのか。
前世で彼は警察官として法と秩序を守るため、文字通り命を懸けて戦った。しかし理不尽な暴力の前に、自分の命は呆気なく奪われた。
だからこそ、今世で創造の力を得た彼は誓った。「自分だけは絶対に死なない。誰にも脅かされず、安全で快適なスローライフを送るための、最強の防波堤を作る」と。
だが、ただの個人が強力な武装集団を擁していれば、いずれ国家や他組織から危険視され、排除の対象となる。軍事部の美少女アレックスのような、好戦的な存在に目をつけられるリスクもある。
そこでタチバナが考え出したのが、「文明復興財団」という壮大な大義名分を掲げることだった。
「我々は人類文明の守護者である」という美しい看板を用意し、いつでも世界の救世主として振る舞える設定を作っておく。
そうすれば、いずれ社会と接触した際にも、無用な摩擦を避けて自分を正当化できる。
もっとも現状この「文明復興財団パナソル」という組織の存在は、地上の誰一人として認知していない。
外界から完全に隔絶された深海の底に存在する、タチバナだけの完全な秘匿組織なのだ。
すべては、彼の果てしない「自己保身」から逆算された巨大なカモフラージュである。
ヘリコプターがドームのエアロックへと静かに着艦する。
水の排出作業が終わり、タチバナがハッチを降りる。
広大なエントランスホールには、彼を出迎えるために数百体もの『汎用執行兵』たちが一糸乱れぬ隊列を組んで整列していた。
足音一つ立てず、ただ絶対的な忠誠心をもって主人の帰還を迎える黒い兵士たち。
(素晴らしい。これこそが、俺の求めた絶対的な安全圏だ。外界がどうなろうと、ここを破れる者など存在しない)
タチバナが満足げに大理石の床を踏み出したその時、最前列に整列していた一体の汎用執行兵が、列を離れてタチバナの斜め後ろにピタリと付き従ってきた。
どうやら、基地内での彼の直属の護衛としてシステムが割り当てた個体のようだ。
無言で追従するその黒い影に、タチバナは一層の頼もしさを感じながら、要塞の奥へと向かって歩みを進めた。
分厚い防護扉が静かにスライドし、タチバナは背後の護衛兵と共に要塞の最深部──コマンドセンターへと足を踏み入れた。
そこは壁一面を覆う巨大なマルチモニターと高度に機能的な無数のコンソールが並ぶ、パナソルの中枢神経である。
「マスターのご帰還です。全システム、正常に稼働中」
凛とした、しかし聴く者の心を穏やかにさせる澄んだ声が響いた。
コンソールに向かっていた数十名の女性たちが一斉に立ち上がり、タチバナに向かって美しい敬礼を捧げた。
彼女たちは『作戦司令オペレーター』。タチバナが卵と素材を用いてクラフトした、情報処理と前線支援に特化した特別な個体である。
彼女たちの着用している制服は、グレーを基調としたタイトスカートと、同色のベレー帽で統一されており、清潔感と規律正しさを象徴している。しかし、その容姿は決して画一的なものではなかった。
彼女たちは知的なシルバーヘアの者、落ち着いた黒髪の者、温かみのあるブラウンヘアの者など、千差万別の美しさを持っていた。
タイトスカートから伸びる白く美しい脚線美が、無機質な計器類が並ぶ司令室に、むせ返るような華やかさを添えている。
タチバナの視線が、無意識のうちに彼女たちの美しい太ももをスッと撫でる。
先ほどまでマンションの屋上で極限の恐怖を味わっていた彼にとって、この空間に満ちた女性たちの清潔な香りと美貌は、何よりの精神安定剤であった。
その中の一人、青い髪にエメラルドの瞳を持つオペレーターが、代表してタチバナのもとへ歩み寄り、タブレット端末を差し出した。
「ご無事で何よりです、マスター。現在、地上の状況は極めて深刻なフェーズへと移行しております。ご報告を」
「あぁ、頼む」
タチバナが表情を崩さず、威厳を保ちながら司令席の重厚な椅子に腰を下ろすと、青髪のオペレーターの細くしなやかな指先がコンソールのキーボードを軽やかに叩いた。
壁面の巨大なマルチモニターに、高高度を飛ぶ監視ドローンや、ハッキングされた各国の防犯カメラが捉えたリアルタイムの映像が次々と映し出される。
タチバナが住んでいた床主市だけではない。東京、ロンドン、ニューヨーク。世界中のあらゆる大都市から黒煙が立ち上り、主要幹線道路は炎上する車で完全に塞がれ、機能不全に陥っている。
その阿鼻叫喚の街路を埋め尽くしているのは、無数の「奴ら」──歩く死者たちの群れであった。
彼がマンションのテレビで見た地獄は、決して局地的なものではなく、地球全体を覆い尽くす不可逆の厄災であったことが、様々なアングルから可視化されていた。
その惨状を凝視しながらタチバナの脳裏にふと、今朝の穏やかな桜並木の下で言葉を交わした若者たちの顔がよぎった。
(そうだ。孝くんや麗くん、永くんはどうなった?)
「大きくなったら結婚する」と、屈託のない笑顔で腕を組んでいた彼ら。この世界で享受していた「平和な日常」を象徴するような存在だった。
タチバナは胃の奥が冷たくなるのを感じながら、努めて平静なトーンを装いオペレーターに指示を出した。
「床主市の西部にある、藤美学園周辺の状況を出してくれ。それと、小室孝、宮本麗、井豪永という生徒の現在のバイタル、あるいは安否情報を検索できるか?」
「直ちに」
オペレーターが流麗な手つきでシステムにアクセスする。画面の中央に、彼らが通っているはずの藤美学園の航空映像が拡大投影された。
そこに映し出された光景に、タチバナの呼吸がピタリと止まった。
学び舎であるはずの校舎の窓からは黒煙が上がり、グラウンドは無数の「奴ら」で完全に埋め尽くされていた。
「藤美学園の通信および社会インフラは完全に沈黙。校内はすでに大規模なバイオハザード状態にあります」
オペレーターの澄んだ声が、残酷な事実を淡々と告げる。
「指定された三名の個人について、携帯端末のGPS信号および公共の監視ネットワークによるトラッキングを試みましたが、すべてロスト。安否は不明です」
「不明、か…」
タチバナは、革張りのアームレストを握りしめた。あの眩しいほどに健康的な笑顔を見せていた若者たちが、あの血に飢えた群衆の中に飲み込まれてしまったのか。
それともまだどこかで生き延びて、助けを待っているのか。現状のパナソルの情報網をもってしても、混乱の極みにある地上の個人の生死をピンポイントで特定することは不可能だった。
(たった一日…いや、今朝言葉を交わしてから、わずか数時間でこの有様か…!)
タチバナの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。平和な日常というものがこれほどまでに呆気なく、無残に砕け散るものなのか。
数時間前まで笑い合っていた彼らの生死すら分からないという現実が、このパンデミックの圧倒的な理不尽さを彼に突きつけていた。
「奴ら」は、個人の事情も、愛も、未来への約束も、一切を考慮しない。ただ平等に、無慈悲に、生者を貪り尽くすだけのシステムのバグだ。
タチバナの額から、じっとりと脂汗が滲み出す。
もし自分がマンションで呑気にエスプレッソなど飲んでいなければ。もし自分が、あの時オーバーワールドに逃げ込むという決断を躊躇っていれば。
今頃自分も、あの無数の肉塊の一つに成り果てていたに違いない。
極度の恐怖がタチバナの全身を支配し、己の脆弱さをこれでもかと突きつけてくる。
青白いモニターの光に照らされながら、タチバナは微かに震えそうになる手を必死に抑え込んでいた。
「マスター」
青髪のオペレーターが、透き通るような眼差しでタチバナを見つめた。
「外部の生存者救出、および各部隊の展開について、今後のご指示をお願いいたします。藤美学園周辺へ、即応部隊を降下させることも可能ですが」
彼女たちは優秀だ。主人の命令とあらば、直ちに部隊を再編成し、火の海と化した市街地へと降下して生存者の確保や防衛線の構築を行うだろう。
パナソルの戦力をもってすれば、藤美学園のグラウンドを制圧することなど容易い。
タチバナは、組んだ両手の上に顎を乗せ、目を閉じて深く息を吐き出した。
彼を慕うオペレーターたち。そして背後に無言で直立する護衛の汎用執行兵が、彼の次なる言葉を固唾を飲んで待っている。
(…ダメだ)
タチバナの脳内で、恐怖と自己保身のサイレンが狂ったように鳴り響いていた。
孝たちを助けたいという感傷がないわけではない。
だがこの状況で部隊を派遣し、もし「奴ら」のウイルスが部隊の装備を通じてこの深海基地にまで持ち込まれたら? もし、救助活動中に不測の事態が起き、この絶対安全圏の座標が外部に漏れたら?
少しでも自分が死の恐怖に晒される不確定要素は、完璧に排除しなければならない。
やがてタチバナはゆっくりと目を開き、重厚で威厳に満ちた声で告げた。
「時期尚早だ。ウイルスの感染経路も、敵の正確な規模も未知数な状態での部隊の無闇な展開は、我々の戦力を無駄に削り、損害を広げるだけだ。まずは、監視ドローンによる情報収集と、拠点周辺の防衛網の強化を最優先とする」
「了解いたしました」
オペレーターが美しく一礼し、すぐさま各部署への指示の伝達を開始する。タチバナの慎重かつ冷徹な判断を、彼女たちは疑うことなく「指導者としての最適な決断」として受け入れた。
タチバナの内心は、そんな高尚な戦略的思考とは全く別の次元にあった。
(外に出るかバカ! あんな死体がうじゃうじゃいる地獄になんて、部隊どころかドローンの先っちょすら近づけたくねえよ! 孝くんたちには悪いが、自力でなんとか生き延びてくれ! 俺はこの安全な深海の底で、可愛いオペレーターやメイドたちに囲まれて引きこもってやるんだからな!!)
外界の凄惨な狂騒と、水深数千メートルの深海に築かれた完全なる静寂。
絶対に安全な箱庭の玉座に深く背中を預けながら、タチバナ・ケイイチは己の果てしない恐怖と徹底した保身を固く、固く誓っていた。
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