世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
すべてが終わってしまった日。
空を赤黒く染め上げる夕暮れの光を浴びながら、小室孝はコンクリートの冷たい壁に背中を預け、どうしてこうなったのだろうと空を見つめていた。
吹き抜ける風はいつもの春の甘い香りではなく、鉄の匂いと腐臭を纏っている。
足元には無残に散らばった血の跡。遠くからは街中をパニックに陥れている怒号と、理性を失った「奴ら」の不気味な呻き声が途切れることなく響いてきている。
平和で少し退屈でそれでも愛おしかった日常は、たった数時間で崩れ去ってしまった。
孝は荒い呼吸を落ち着かせながら、今日という日に起きた怒涛の出来事を、一つ一つ脳内で整理しようと試みた。
始まりは、校門だった。
婚約者である宮本麗との「結婚を前提としたお付き合い」という、周囲も公認の甘く平穏な学園生活。その日だまりのような日常は、校門に現れた一人の不審者によって唐突に引き裂かれた。
対応に出た体育教師が腕を噛みちぎられ、凄惨な死を遂げたかと思えば、次の瞬間には同僚の教師たちに牙を剥いたのだ。
異常事態を本能で察知した孝はすぐさま教室へと駆け戻り、麗と親友である井豪永の腕を引いて強引に廊下へと飛び出した。
校内放送から流れる悲痛な断末魔。生徒同士が喰い殺し合う地獄絵図。パニックに陥る校舎の中で、孝は掃除用具入れのモップの柄を膝でへし折り、鋭利な木杭を作って即席の武器とした。
空手有段者である永と背中を合わせ、愛する麗を守りながら彼らは迫り来る「奴ら」を退け、必死の思いでこの屋上へと逃げ込んできたのだ。
しかし、真の悲劇は安全地帯に辿り着いたその直後に訪れた。
激しい逃走劇の最中、永の腕には「奴ら」に噛まれた致命的な傷が刻まれていたのだ。
未知のウイルスが急速に永の命を蝕み、彼の瞳からすうっと光が消えていく。
『映画通りってことさ。噛まれるだけで、もうダメなんだ。俺が、俺であるうちに…殺してくれ』
親友からの懇願。麗が泣き叫んで止める中、孝は自らの理性のタガを無理やり外し、手にした金属バットを渾身の力で振り下ろした。
骨が軋む、何かが決定的に砕け散る鈍い音。バットから両腕に伝わったその重く生々しい感触は、孝の心に消えない十字架として深く刻み込まれた。
親友を失い、さらにそれをもう一人の幼馴染が手にかけるという残酷な現実に、麗は泣き崩れた。
『どうして!? どうしてェ! ひっぐ…ッ』
絶望に支配された屋上で、孝は行き場のない悲しみに暮れる麗を強く抱きしめた。
薄い制服の布地越しに伝わる彼女の震えと、規則正しく脈打つ生命の鼓動。彼女の熱を帯びた涙が孝の胸元を濡らす中、彼は心の中で強く誓ったのだ。
俺がお前を絶対に守り抜く、と。
「ふぅ」
孝は深く重い息を吐き出し、現実へと意識を戻した。
少し離れたコンクリートの床の上に、変わり果てた親友──井豪永の遺体が横たわっている。
孝は血に濡れた彼の顔を直視することができず、自らの手で彼にタオルを被せていた。
なぜか永の右手だけが死後硬直のせいか、空に向かって親指を立てる『サムズアップ』のポーズをキメたまま固まっている。
(お前って奴は、本当に最後まで変な奴だったな)
孝は親指を突き上げたままの親友の遺体を見つめ、苦笑した。
井豪永という男は成績優秀で空手の段位も持ち、誰に対しても気さくで面倒見の良い、まさに非の打ち所のない好青年だった。孝にとっては、自分には勿体ないくらいに出来のいい親友だった。
少しばかり知識をひけらかす癖や、妙なところで映画の知識を熱く語り出す変な部分はあったが、それも含めて彼の魅力だったのだ。
孝は数分前の「ある出来事」を思い出し、冷や汗を拭った。
(あ、危なかった…ッ)
永の遺体を安置し、タオルを被せた直後のことだ。
極限のサバイバルと死の恐怖。未知のウイルスによる、人体の異常な反応が引き起こした生理現象なのか。あるいは、単なる重力と死後硬直の悪戯なのか。
永の制服のズボン越しに、なぜか『ある部分』が、天を衝くほどの勢いで堂々と聳え立っていたのだ。
それを見逃さなかった麗の反応は、凄まじかった。
悲しみに暮れていたはずの彼女の顔が瞬く間に沸騰したように真っ赤に染まったかと思うと、彼女は手にしていた槍を逆手に握り直し、聳え立つその『突起物』めがけて、無慈悲に粉砕の一撃を振り下ろそうとしたのである。
『ちょっと麗!? 何してんだよ!』
『だって! こんな時に不謹慎よっ!! 永のバカ!!』
『や、やめてあげて! 彼のライフはもうゼロよ!! これ以上尊厳を破壊するのはやめて!!』
孝が身を呈して麗を羽交い締めにし、なんとかその凶行を食い止めたのだ。
悲しみと極限のストレスが、彼女の理性の回路を一時的に焼き切ってしまったのだろう。もしあのまま止められなければ、永は死してなお、男として最も恐ろしい物理的破壊の憂き目に遭うところだった。
なんとか踏みとどまってくれてよかったと、孝は今更ながらに深い安堵の息を漏らした。
「孝。私たち、これからどうするの?」
泣き疲れて目を赤く腫らした麗が、孝の隣に身を寄せ、不安げな声で尋ねてきた。彼女の華奢な肩が微かに震え、薄いブラウス越しに伝わる温もりが、孝に自分が生きていることを実感させる。
「分からない。でも、ここにずっと留まっているわけにはいかない」
孝と麗が言葉を交わした、その時だった。彼らの頭上を、空気を切り裂くような重低音と共に、数機の編隊が通り過ぎていった。
自衛隊の迷彩塗装が施された、UH-1輸送ヘリコプターとブラックホークの群れだ。
「自衛隊…! 助けに来てくれたの!?」
麗が希望に満ちた声を上げ、身を乗り出す。しかし、ヘリの編隊は学園の屋上に降りる素振りすら見せず、ただ一直線に空の彼方へと飛び去っていってしまった。
「…行っちゃった。どうして…?」
麗が崩れ落ちそうになるのを、孝は肩を抱いて支えた。
「永が言ってたよな。『何かしらの特別な任務』が与えられているはずだって」
パンデミックの発生直後、永は冷静に状況を分析していた。自衛隊が動いているということは、政府がこの事態を把握している証拠だ。
彼らが市民の救助ではなく移動を優先しているということは、別の重要な拠点防衛か。あるいは、治安出動のための部隊集結に向かっている可能性が高い。
本当のことは分からない。だが、確かな事実が一つだけある。床主市の付近に、自衛隊の駐屯地は存在しないのだ。
つまり彼らのような一般の高校生を、わざわざピンポイントで助けに来てくれる可能性は、絶望的なまでに低いということだった。
「僕たちだけで、なんとかするしかないんだ」
孝が自分自身に言い聞かせるように言うと、麗も力なく頷いた。
「…タチバナさん、どうしているかな」
麗がふと、ぽつりと呟いた。
登校中に桜並木の下で言葉を交わした、近所に住むあの頼れる大人の姿が孝の脳裏にも浮かんだ。
いつも完璧なスーツを着こなし、涼やかな笑顔で「孝くんが守ってくれるだろう?」と言ってくれたタチバナ・ケイイチ。
元警察官のエリートであり、どこか底知れない余裕を持っていた彼なら、きっとこの地獄のような状況でも、うまく立ち回って安全な場所に避難しているに違いない。
「あの人なら、絶対に大丈夫さ。だから俺たちも、生き延びてまた会うんだ」
孝は麗の手を強く握りしめ、これからどうやってこの学園を脱出するか、真剣に相談を始めようとした。
──その時だった。
『うらめしや〜』
「…え?」
孝の背筋を、物理的な氷の刃で撫でられたような強烈な悪寒が駆け抜けた。
気のせいだろうか。いや、そんなはずはない。
すぐ背後から、声が聞こえたのだ。先ほど、自分がこの手で頭を砕き、生命の灯火を完全に消し去ったはずの、井豪永の声だった。
(幻聴か…? いよいよ、ストレスが限界を超えたか?)
孝はギクリと固まったまま動けずにいたが、事態は彼一人の幻聴では済まなかった。
「あ、ああ…っ」
孝の目の前にいる麗の様子が、明らかにおかしかったのだ。
彼女の視線は孝の顔ではなく、孝の背後──声がした方向──へと完全に釘付けになっている。
大きく見開かれた瞳からは滝のように涙が溢れ出し、彼女の華奢な身体は極寒の雪原に放り出されたかのようにガタガタと震えていた。
恐怖と混乱が許容量を超え、彼女の顔には引き攣った笑みすら浮かんでいる。
(嘘だろ…?)
少年は──小室孝は自らの脳内で警鐘が鳴り響く中、残酷な現実を理解してしまった。
錆びついた機械のように、ギギギ…と孝はゆっくりと首を後ろへ回した。
振り向いた先。
それは存在した。
コンクリートの床にはタオルを被せられ、右手の親指を立てたままの永の遺体が確かに転がっている。
その遺体の上空、数十センチの空間。薄っすらと半透明に透け、足元のない状態で空中にフワフワと浮遊している、見慣れた学ラン姿の青年。
井豪永の「幽霊」が、そこにいたのだ。
しかもご丁寧に両手をだらりと前に垂らし、いかにもステレオタイプな『うらめしや~』のポーズをキメているではないか。
「っ!!」
肺から酸素が完全に消え失せたような、圧倒的な沈黙が屋上を支配する。
数秒の思考停止の後、孝と麗の理性の防波堤が木端微塵に決壊した。
「「ば、化けて出たァァァ!?」」
『言い方ひどくない??』
少年と少女は恐怖のあまり互いの身体に強くしがみつき、夕闇の空に向かって今日一番の悲鳴を上げながら絶叫した。
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