世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
水深数千メートルの深海に構築された、絶対安全の箱庭。
文明復興財団『パナソル』の最深部に位置するコマンドセンターは、外界の血塗られた喧騒とは無縁の、冷涼で静謐な空気に満たされていた。
重厚な革張りの司令席に深く背中を預けたタチバナ・ケイイチは、壁一面を覆う巨大なマルチモニターの一角を、静かな、しかし内心では微かな緊張を伴う眼差しで見上げていた。
「青のオペレーター。軍事通信衛星、高高度滞空ドローンの光学システムをハッキング。床主市の藤美学園、その屋上に焦点を合わせろ」
「了解いたしました、マスター」
青い髪とエメラルドの瞳を持つオペレーターが、淀みない動作でコンソールのキーボードを叩く。彼女の白く細い指先が幾つかの暗号鍵を突破すると、モニターに表示されていた市街地の俯瞰映像が、凄まじい倍率でズームインされていった。
大気の揺らぎをデジタル補正で透過し、モニターに鮮明な映像が結ばれる。
映し出されたのは、茜色に染まりゆく藤美学園の屋上天文台のバルコニーだった。
そこに、三人の男女の姿があった。
今朝、桜並木の下で言葉を交わしたばかりの小室孝と宮本麗。そして、彼らの傍らのコンクリートの床に横たわり、顔にタオルを被せられた井豪永の姿。永の右手は、なぜか親指を立てたまま空に向かって掲げられている。
(やはり、永くんはダメだったか)
タオルを被せられている以上、彼がすでに生命活動を停止しているのは明らかだった。
タチバナは、画面越しに漂ってくる濃密な死の気配に、無意識のうちに己の身体を強張らせていた。
もしも自分が、前世と同じ「定命の者」としてこの理不尽な厄災に巻き込まれ、あの「奴ら」に襲われていたとしたら。その末路は、想像するだに恐ろしい。肉を引きちぎられ、臓腑を貪られる。
もしそれが映像作品ならば、間違いなくR指定を受け、画面全体に分厚いモザイク処理が施されるほどの凄惨な光景になるだろう。
(俺がマインクラフターという超常の種族に進化していて、本当に良かった…)
タチバナは、インベントリという四次元空間と、ブロックで構成される独自の物理法則を享受できる今の己の身体に、心底からの安堵を覚えた。
実は彼、マインクラフターに転生した直後、己の身体の耐性を調べるために「ものは試し」とばかりに、オーバーワールドに湧いたゾンビにわざと近づき、「ゾンビに噛まれたら、リアルに肉を噛みちぎられるのかな〜?」と、らしくもない実験を実行に移したことがあったのだ。
結果として、彼の肉体に噛み跡や欠損が残ることはなく、ウイルスに感染することもなかった。しかし、Minecraft特有の『ダメージ判定』──ハートのアイコンが削られるあの感覚──が、現実の痛覚としてダイレクトに脳髄にフィードバックされたのだ。
『痛えええええっ!? 普通にめちゃくちゃ痛いんですけど!?』と、オーバーワールドの薄暗い廃坑で涙目になりながら絶叫し、全速力で逃げ帰った情けない記憶が、タチバナの脳裏に生々しく蘇る。
死にはしないし、感染もしない。普通に痛い。痛いことと怖いことが何よりも嫌いなタチバナにとって、それは「絶対に二度と奴らには近づかない」と固く決意させるに足る、十分すぎるトラウマであった。
そんな自己完結の恐怖に身震いしていたタチバナだったが、ふと、モニターに映る孝と麗の様子がおかしいことに気がついた。
「…ん? それにしても、何やら騒がしいな。どうしたのだろうか…はにゃ?」
親友を失い、悲嘆に暮れているはずの二人が、なぜか取っ組み合いのような激しい押し問答をしているのだ。
麗は顔を真っ赤に染め、手にした槍を振りかぶって、床に横たわる永の遺体に向かって今にも無慈悲な一撃を振り下ろそうとしている。孝はそれを必死に羽交い締めにして止めていた。
タチバナは怪訝に思い、オペレーターにさらなるズームを命じようとした。しかし、彼が指示を出すよりも早く、高解像度の衛星カメラが自動的にその「騒動の中心」にフォーカスを合わせてしまった。
タオルを被せられた永の遺体。
その制服のズボン越しに、何とは言わないが、天に向かって聳え立つ、まるで命を得たかのような『規格外の摩天楼』が、画面いっぱいに大映しにされたのである。
死後硬直の悪戯か、あるいは極限状態における人体のバグか。いずれにせよ、それはあまりにも堂々とした、一切の恥じらいを持たない「雄の主張」であった。
「…っ!?」
次の瞬間、静寂に包まれていたコマンドセンターに、大激震が走った。
「ひゃああっ!?」
「な、なんてものを…!」
青白い計器の光に照らされていた作戦司令オペレーターたちが、一斉に悲鳴を上げたのだ。
ある者は両手で真っ赤になった顔を覆い隠しながらも指の隙間から画面を盗み見し、ある者は「刺激が強すぎます…!」と呟いてショートしたように白目を剥き、コンソールの上に突っ伏して気絶してしまった。
「お、おい! ちょっと待て!」
タチバナは阿鼻叫喚の地獄絵図と化した司令室を見渡し、目を白黒させた。
彼女たちは、自分が『鶏の卵』と『レッドストーン』からクラフトし、スポーンエッグでこの世界にポイッと生誕させた「製造人間」である。プログラミングされた命令に従うだけの無機質な存在であるはずだった。
それなのに、見知らぬ青年の『パオーン』を見ただけで、顔を真っ赤にして気絶するほど、純情で人間味にあふれた反応を示すなんて。
(お父さん、感動しちゃう)
タチバナは、己が生み出した「娘」たちのあまりにも可愛らしく、そして完璧な乙女のリアクションに、内心で謎の親心を爆発させ、見えない涙を拭った。
とはいえ、このままではパナソルの情報収集システムに多大な支障をきたす。タチバナは内心で『すまん、あんなものを見せてしまって…』と彼女たちにこっそりと謝罪した。
すると、タチバナの背後に直立不動で控えていた汎用執行兵が、フルフェイス・ヘルメットの奥から低く、無機質な声で呟いた。
「ほお」
「お前は感心するな!」
タチバナは思わず、声に出してツッコミを入れてしまった。
感情を排除した戦闘マシーンであるはずのトルーパーすらも感嘆させるほどの見事な反り立つモノであったのか。あるいは単なるシステムのバグなのかは定かではないが、タチバナは慌ててオペレーターに指示を出し、画面のズームアウトを行わせた。
気絶したオペレーターたちに、状態異常をリセットする万能薬である『牛乳バケツ』を振る舞い、なんとか司令室の秩序を回復させる。
コホンとタチバナは咳払いをして、再び指導者としての冷徹な仮面を被り直した。
さて、どうするべきか。画面の中では、孝と麗がなんとか落ち着きを取り戻し空を見上げている。
タチバナとしても顔見知りである彼らを救助しに行きたい気持ちは、少しだけある。
でも絶対に行きたくない。自分が安全圏から出るなんて論外だ。
もし彼らが「奴ら」に噛まれてしまったとしても、マインクラフターである自分なら、後で『弱化のポーション』と『金リンゴ』を使えば、マイクラにおける「村人ゾンビ治療」の要領で人間に戻せるだろう。
そんな人の命の重さを逸脱した「リセット思考」が、タチバナの判断を鈍らせていた。
それに、彼らを救助するために部隊を大々的に展開させれば、パナソルの存在が明るみに出てしまう。
(まだ警察やら自衛隊やら政府やらが、完全に機能不全に陥ったと確定したわけじゃない。今ここで派手に動いて、国家権力に目をつけられたら面倒なことになるのは俺だ…)
徹底した保身第一。その揺るぎない理念に基づき、タチバナは本格的な救助部隊の派遣を見送った。
「周辺の状況を探るため、隠密に特化した偵察兵を向かわせろ。対象との接触は避け、あくまで情報の収集のみに徹すること」
「了解いたしました」
回復したオペレーターが、流れるような手つきで指令を入力する。
「ついでに、学園の敷地周辺のカメラ映像をサブモニターに展開してくれ。他の生存者の動向も確認しておきたい」
「はいマスター、第4カメラに生存者と思しき影を捉えました。かなりの戦闘能力を有している模様です」
オペレーターの報告を受け、タチバナはサブモニターに視線を向けた。そこには、藤美学園の周辺──血塗られたアスファルトの上で、群がる「奴ら」を容赦なく薙ぎ払っている一人の少女の姿が映っていた。
その少女の顔をズームした瞬間、タチバナの目が驚愕に見開かれた。
「なんでアレックスがいるんだ? 学校に!?」
タチバナの口から、素っ頓狂な声が漏れた。モニターに映っていたのは、明るいオレンジ色の髪と緑色の瞳を持つ少女。
それは間違いなく、かつてタチバナをこの世界に転生させ、マインクラフターとしての能力を与えた上位存在──『統括の美少女アレックス01』と瓜二つの顔をしていたのだ。
だが、どこのアレックスだというのだ?
統括のアレックスか? いや、軍事部のアレックスか? あるいは技術開発部か?
思考を巡らせるタチバナだったが、モニターの中の「彼女」の服装を見て、さらに頭を抱えることになった。
彼女が身に纏っていたのは、アレックス特有の緑色のシャツや、軍服でも白衣でもない。どう贔屓目に見ても、筋金入りの「不良少女」の出で立ちだった。
(えっ、未確認のアレックス? 俺と同じようにマインクラフターの能力を持っているのか? いや、それとも…この次元に初めから属している『普通の女子高生』だというのか?)
タチバナは、画面の中で「オラァッ! どけや腐れ死体がァ!」とガラの悪い怒号を上げながら「奴ら」の頭を粉砕していく不良少女を、半ば呆れたように見つめた。
(…いや、そもそもアレックスの顔をした奴が『普通の女』であったことなんて、一度もないだろう)
タチバナは、小さく息を吐き出した。
世界が崩壊し狂気が蔓延する地獄の最中にあって、自分の与り知らぬイレギュラーな存在がウロウロしている。面倒なことこの上ない。
安全な深海の底からモニター越しに眺めている分には、多少の刺激的な映画を見ているようなものだ。
「まあいい。今は放っておけ。俺の平穏を脅かさない限りはな」
タチバナはそう呟くと、再びモニターの端で繰り広げられる地上の惨劇へと、興味なさげに視線を戻した。
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