四月も終わりに近づき、街の街路樹には青々とした新緑が目立つようになっていた。裏社会に染まり切っていた天那にとって、普通の学生生活を送れるかは少し不安だったが、今ではすっかりCクラスの一員として穏やかな日常に馴染んでいた。
ただ、闘技者としての腕が錆び付いたわけではない。週に二回から多くて四回、クレイシ道場で刃を研ぎ続けている天那は、入学前と遜色ないどころか、さらに凄みを増していた。
師の死後、まともな指導者がおらず才能だけで戦ってきた天那にとって、暮石の指導は実に新鮮だった。これまで勘に頼っていた間合いの押し引きや駆け引き、戦術を言語化して理解したことで、その動きはより無駄なく洗練されていったのだ。
橙色の夕日が差し込む道を、今日も天那は道場へ向けて歩いていた。傍らに伊吹の姿はない。流石に暮石に会わせると面倒なことになるのは目に見えていたからだ。
隠し事を嫌う天那は、どこか悪いことでもしているような、ムズムズとした後ろたさを抱えながら歩を進めていた。
しかし、今日に限っては、その平穏も長くは続かなかった。
「(……つけられてるな。数は一人か)」
足音と視線の違和感から、天那は背後をつける存在に気づいていた。
一般人を遥かに凌ぐ身体能力を持つ天那なら、走って撒くことなど造作もない。だが、学校という逃げ場のない環境を思えば、今日うまく逃げ切ったところで、明日以降も同じ尾行が続くだけだということは容易に想像がついた。
「(面倒だし、受けて立つか)」
背後の不快な影と正面から向き合うことを決めた天那は、あえてメインストリートを外れ、監視カメラの届かない薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。そして、路地の真ん中で堂々と仁王立ちし、追手を待つ。
「(来るなら来い。来ないならそれまでの相手だ)」
待つこと数十秒。西日の届かない静まり返った路地裏に、ゆっくりと新しい影がひとつ、姿を現した。
「お前は……龍園か?」
影の中から歩み出てきたのは、同じCクラスの生徒、龍園翔だった。
「ククッ、あの距離から俺の視線に気づくとはな。やっぱりお前を最後にして正解だったぜ」
「ふーん、なるほどな。縄張り争いも、ようやく決着がついたってわけか」
龍園が自分の前に姿を現した理由に、天那には明確な心当たりがあった。
ここ数週間で、Cクラスの雰囲気は目に見えて変化していた。授業中、かつては騒ぎ立てていた不良がかった男子たちが、伝染するように徐々に静まり返っていったのだ。まるで目に見えない何かに怯えるかのように、肩を縮こませていた。
それだけではない。クラスで武闘派と目されていた者たちまでもが、等しく何かに怯えたような視線を漂わせるようになっていた。彼らが一様に意識を向けていた先はただ一人。だからこそ、クラスの裏で何が起きているのか、天那には筒抜けだった。
──縄張り争いだ。Cクラスという檻の中で、どの雄が頂点に立つか。その荒々しい覇権争いが裏で繰り広げられていたのは明らかだった。そしてついに、その決着がついたのだろう。
「お前のその牙を折り、服従させてこそ、俺の布陣は完成する」
薄暗い路地裏に、龍園の不敵な嘲笑が響く。冷徹で鋭い視線が天那を射抜いていた。対する天那は緊張感を見せるどころか、心底面倒そうに頭を掻きむしり、鼻で笑ってみせる。
「布陣? 何と戦うつもりだよ」
「他クラスとに決まってるだろ。まぁ、お前には理解できないか。頭は悪そうだしな」
見下すような煽り文句に、天那はわざとらしく額に青筋を立ててみせた。かるく肩を揺らし、威嚇するように一歩踏み出す。
「お? なんだー? やんのかコノヤロー」
「元からそのつもりだ」
龍園は凶暴な笑みをさらに深くした。放たれる圧迫感は並の人間なら気圧されるほどのものだが、天那にしてみればライオンに吠えるチワワのようなものだ。彼女の全身からは、隠しようもない余裕が漂っていた。
「おそらくCクラス……いや、学校一の驚異的な身体能力を持つお前には、俺の切り札になってもらう」
「へえ。男ってのは大抵、俺をトロフィーみたいに扱いたがるんだけどな。女としてじゃなく戦力を求めるのか。見る目がある」
天那がニィと口元を歪め、どこか楽しげに鼻で笑った──その瞬間。
「ふッ──!」
龍園の足元で砂利が弾けた。会話の余韻すら置き去りにする、容赦のない奇襲。鋭い踏み込みで一気に間合いを潰すと、龍園の右拳が天那の顔面を穿とうと空気を切り裂く。
言葉での交渉など、はなからするつもりはない。力で叩き伏せ、分からせる。
間合いは完全に捉えた。拳が肉を穿つ感触を予感し、龍園の唇が嗜虐的な笑みに歪む。──だが次の瞬間、龍園の視界から天那の姿が消える。
「なっ──!?」
何が起きたのかすら認識できない。振り抜いた拳のわずか数センチ内側をすり抜けた天那は、すでに龍園の懐深くまで潜り込んでいた。
体重移動を完璧に利用した、無駄のない一撃。天那の鋭い膝蹴りが、龍園の溝おちへ寸分の狂いもなく突き刺さる。
「ガハッ……!?」
肺の中の酸素が一気に押し出され、龍園の瞳が苦悶に見開かれた。
追撃すら必要としない。技すらも必要はない。身体能力任せのたった一撃の膝蹴りだけで、龍園の体はくの字に折れ曲がり、そのまま地面へと叩きつけられた。
静寂が戻る。
天那は荒い息ひとつ乱さずに、足元で悶絶する龍園を見下ろしていた。
「……バケ、モノ……が…………」
「自分から仕掛けといてよく言うぜ」
呆れたように吐き捨てると、天那は決着はついたとばかりに背を向け、歩き出し──。
「……今は、勝った気でいればいい」
その声に足を止めた。龍園は無様に地面を這いながらも、その瞳から凶暴な光を失っていなかった。
「あ?」
「何度でも……四六時中、俺はお前を狙い続けてやる」
這い上がる執念と狂気。
「薬でも、人質でも……なんだって使ってやるよ。最終的に……俺が勝てばいい。何度負けようが……死にさえしなければ、最後には俺が勝つ」
だが、その執念は天那の逆鱗に触れた。天那の全身から、ゆらりと温度が消え去る。
「次? ……お前、当たり前に次があるとでも思ってんのか?」
その言葉が落ちた瞬間、世界が変貌した。
「(なんだ、これは……っ!?)」
粘つくような悪寒と、臓腑を押し潰すほどの重圧が龍園を襲う。
空気そのものが牙を剥いたかのような錯覚。天那が一歩踏み出すごとに、龍園の身体は本能的な拒絶反応を起こしていた。心臓が早鐘を打ち、荒い息が喉を焼く。全身の毛穴が開き、溢れ出す冷や汗が止まらない。
「(俺は、死ぬのか? …………これが……これが、恐怖……?)」
幾度となく困難をくぐり抜けてきた龍園の精神を、生物としての根源的な恐怖が容赦なく侵食していく。目の前の存在は、決して立ち向かってはならない絶対的な天敵だ。
「(……勝てねぇ。俺じゃ……コイツには、絶対に勝てねぇ……っ!)」
プライドも、執念も、すべてが恐怖の波に呑み込まれ、龍園が自我すら失いかけたそのとき、全身を縛りつけていた悪寒と重圧が、嘘のように一瞬で霧散した。
「まっ、こんなもんか」
拍子抜けしたような軽薄な声。天那は何事もなかったかのようにすっと視線を外すと、今度こそ龍園に興味を失った様子で背を向け、悠々と歩き出した。
後には、ただ荒い息を吐き出しながら震える龍園だけが取り残されていた。
声すら出せない。指先ひとつ動かせない。圧倒的な強者の前で、生物としての本能は屈服を叫び、彼の心は完全に折られた──そのはずだった。
「(……だめだ)」
だが、彼の狂気的な執念が、それを許さなかった。
「(ここで……ここで引いたら……俺が、俺じゃなくなっちまう。そんな気がする……!)」
死の重圧に刻み込まれた恐怖で、全身の震えは止まらない。それでも、彼の内なる歪んだ焔は消えていなかった。
「(……ただ闇雲に立ち向かうだけじゃだめだ。純粋な暴力じゃ、逆立ちしたって勝てねぇ。もう一度同じことを繰り返せば……俺の心は今度こそ完全に殺される)」
地面に顔を擦り付けたままの視界で、天那の背中が無情にも遠ざかっていく。
「(何か……何か一言。アイツの足を止め、意識を百八十度変えるような……決定的な一言がいる……っ!)」
心が折れるか踏みとどまるか、崖っぷちの瀬戸際。龍園が己の尊厳を繋ぎ止めるため、必死に思考を巡らせている間にも、天那の足音は着実に遠のいていく。
残された猶予は、ほんの数秒。
「(……Cクラス、ポイントの変動、授業態度、伊吹、驚異的な身体能力、Aクラス昇格の条件、監視カメラの数……っ!)」
頭の中で無数の単語が猛スピードで浮かんでは消えていく。ほんのわずかな数秒。だが龍園にとっては、これまでの人生で最も長く、濃密な思考の渦だった。
酸欠の脳を極限まで酷使し、天那という存在を繋ぎ止める唯一の解を導き出す。そして──龍園の掠れた喉から、一言だけが絞り出された。
「……高円寺」
ピタリと、天那の足音が止まった。
背中越しにも伝わる微妙な空気の変化。龍園はその無言の反応から自身の選択が正しかったことを確信し、途切れ途切れの呼吸を整えながら言葉を続けた。
「お前……よくあの変人に、自分から絡みに行ってるみたいじゃねぇか。……なんでだ?」
天那は訝しむような視線を向けて静かに振り返った。
「なんでって……そりゃ中学からの友達だからな」
底知れない強者の余裕を保ったまま、短く返される答え。それを聞いた龍園の歪んだ唇から、低く掠れた笑い声が漏れ出た。
「ククッ……友達、か……」
「何がおかしい」
天那の語調に、わずかな苛立ちのニュアンスが混じる。龍園は地を舐めるような姿勢のまま、ギラついた瞳をまっすぐに天那へ向けた。
「高円寺六助は……高円寺コンツェルンの御曹司だ。中学も、小学校でさえも超一流の私立を出てやがるはず。……それこそ、学費や寄付金を含めりゃ年間数百万円が飛んでいくような特権階級の学校をな」
「……それで?」
冷ややかに先を促す天那に対し、龍園は口元を歪めて続ける。
「だが、対するお前は天涯孤独の身……話によれば、どこかのジジイとやらに育てられたそうだな」
「……チッ。つまんねぇ話をしすぎたか」
失敗したと言わんばかりに天那が眉をひそめる。龍園はその反応に確信を得て、畳みかけた。
「たまたま拾ってくれたジジイが大金持ちで、お前を超一流の私立に通わせてくれた……なんてご都合展開は、そうそう起こらねぇ」
龍園は静かに佇む天那へ、逃すまいと鋭い視線を向けたまま言葉を繋ぐ。
「それに、お前のアレは普通の人間の強さじゃねぇ。強くなる必要があった苦労人か、イカれた求道者が血反吐を吐いて手に入れる強さだ。お前の雰囲気からして、どう見ても前者だろ」
龍園は荒い息を吐きながらも、嘲笑うように目を細めた。
「そんな苦労人が、高円寺のような超一流の御曹司と中学からの友達だと? ふざけんな。超一流の金持ちと貧乏人の人生なんざ、よっぽどのことがなきゃ交わらねぇんだよ」
「勝手に貧乏って断定すんな、失礼だな。……まぁ貧乏っちゃ貧乏だったけど」
軽口を叩きつつも、天那の目から軽薄さが消え、静かな圧力がその場を支配し始める。だが、龍園はもう怯まなかった。
「お前らはただの友人関係じゃねぇ。正確には友人関係に加えて、別の関係性がある……。例えば──そう、高円寺の護衛、とかな」
沈黙が、その場を重く支配した。時間にしてほんの数秒。だが、龍園にとっては数十秒にも、数分にも感じられる息詰まる静寂だった。
やがて、天那がゆっくりと口を開く。
「正直、驚いたよ。……名推理だな。探偵にでもなったらどうだ?」
「へっ……あっさりと認めちまっていいのかよ。俺が高円寺に何か仕掛けるかもしれねぇぜ?」
「そうなったら、お前が死ぬだけだ」
感情の籠もっていない天那の一言。それだけで、龍園が高円寺を標的から外すには十分すぎた。それほどまでに、龍園の身体には天那から刻まれた死の恐怖が焼き付いていた。
「……冗談だ。だが、これで俺がCクラスの頭である資格は見せたはずだ。お前に服従しろとは言わねぇ。ただ、必要な時に力を貸せ」
「そんなもの、必要になる時があるのか? ここはただの学校だぞ」
「五月一日になれば、わかるはずだ」
龍園の不敵な返答を聞き、天那の口元にふっと笑みが浮かぶ。そのままゆっくりと歩み寄ると、地を舐める龍園の目の前でしゃがみ込んだ。見下ろす瞳には、好奇心を帯びた光が宿っている。
「ただの暴力馬鹿かと思ってたけど、訂正するよ。お前は、ただの馬鹿じゃない」
天那は手を取り出すと、目の前の龍園へ無造作に差し出した。
「いいぜ、乗ってやる。服従はしないけど、必要な時には手を貸してやる。ちょうど、この学校生活にも退屈してきたところだ」
龍園は荒い息を吐きながら自力で身体を起こすと、口内に溜まった血混じりの唾を吐き捨て、天那の手を容赦なく弾き返した。
「勘違いするな……。手を取り合うつもりはねぇ。お前は俺の、手札の一枚にすぎねぇんだよ」
「ハッ、その無様な格好でよく言うよ。……楽しみにしとくぜ、五月一日」
手を弾かれても嫌な顔ひとつせず、天那は立ち上がると、今度こそ背を向けて歩き去っていく。残された龍園は膝をつき、掠れた息を漏らしながらも、遠ざかる背中をギラついた眼光で見つめながら、暗い笑みを浮かべていた。