あくびを噛み殺しながら耐え抜いた退屈な入学式を終え、
「ほんとはスーパーで買ったほうがいいんだけど、今日は仕方ないか……」
「ん? なんでスーパー?」
「スーパーの方がコンビニより安いだろ。……もしかして、って世間知らず?」
「あー……」
伊吹の呆れたような視線を受け、天那は気まずそうに頭をかいた。前世では少しでも節約しようと格安スーパーを巡るのが日常だったが、今世では金銭面を気にする必要のない環境で過ごしてきたため、すっかり世間の感覚が抜け落ちていたのだ。
「でも、この学校の中だけ価格が統一されてる可能性だってあるし……ってか、睡蓮じゃなくて天那でいいよ」
「誤魔化したな……。じゃあ私も澪でいいよ」
新緑の隙間から木漏れ日が降り注ぐ並木道を、二人は並んで歩いていく。風に揺れる葉の音を聞きながら、天那はどこか不思議な感覚に包まれていた。転生してからというもの、こんな風に穏やかな日常を噛み締めるのはいつ以来だろうか。
「これから三年間は一人暮らし、か……。掃除やら洗濯やら、面倒なことばっかだな」
「確かになぁ。俺、掃除苦手なんだよなー」
「……天那は料理とかできるの?」
「んー、まぁまぁできるっちゃできるぞ。よくジジイに作らされてたからな」
「マジか。勝手に仲間だと思ってたのに」
裏切られたと言わんばかりにジト目を向けていた伊吹だったが、ふと引っかかったように眉をひそめた。
「というか、ジジイって?」
「俺の育て親みたいなもんだな。物心ついた頃には一緒にいたんだよ」
「じゃあ両親は……ごめん、なんでもない。失言だった」
ハッとして口をつぐみ、気まずそうに視線を泳がせる伊吹。天那は歩調を崩さず、どこか遠くを見るような目を向けた。
「別にそんな気使わなくていいけど。いわゆる天涯孤独の身だったんだ。ただそれだけの話だよ」
天那は気負う様子もなく、まるで他人事のようにあっさりと口にする。伊吹が言葉に詰まっていると、クスッと小さく笑い、新緑の隙間から覗く空を仰いだ。
「まあ、縁に恵まれたから一人で寂しく過ごすってことは基本なかったし、特に困ったことも……いや、めちゃくちゃ困らされたりもしたけどさ。関わってきたのがおかしな奴らばかりで」
ふと思い出したように苦笑いを浮かべる天那。その表情には寂しさよりも、どこか懐かしむような温かみが宿っていた。
「まあでも、なんだかんだなんとかなってるよ」
「……いや、でもさすがに気は使うだろ」
あまりに軽やかな天那の態度に毒気を抜かれつつも、伊吹はどこか納得がいかない様子で肩をすくめた。そんな重くなりかけた雰囲気を払うように、天那がパッと前方の一角を指差した。
「あ、あったあった。あれがコンビニだ……って、なんだありゃ」
二人の視線の先──コンビニの入口は異質な光景を呈していた。自動ドア前には倒れた大型のゴミ箱。周囲の地面には、飲みかけのペットボトルや空になった弁当容器、くしゃくしゃに丸められた紙くずが一面に散乱していた。
「……最悪。何これ、汚っ」
鼻をすくめ、伊吹が露骨に顔をしかめて吐き捨てる。校内の施設とは思えない惨状に、呆れと不快感がこみ上げていた。
「ん? アイツは確か……」
だが、天那の視線はその惨状の真っ只中に佇む、ひとつの人影を捉えていた。天那の言葉につられ、伊吹も視線をずらす。
散らかったゴミの中に、ぽつんとしゃがみ込んでいる男子生徒がいた。手際よく、しかし無言でゴミを拾い集めている。その横顔を見た瞬間、天那の脳裏に今朝の光景が蘇った。登校中、満員のバスの中で一際変わった視線を向けてきた、あの男だった。
もっとも、伊吹には知ったことではなかった。汚れた足元を避け、そのまま通り過ぎようと一歩を踏み出した、その瞬間。
「──おい、大丈夫か?」
天那がごく自然な調子で声をかけた。呼びかけられた男子生徒はゴミを拾う手を止め、静かに顔を上げた。整った精悍な顔立ち。しかし、その奥にある瞳には光が乏しく、冷ややかな色を宿している。
「ああ、大丈夫だ……と言いたいところなんだが、実際には少し困ってる」
彼はカサリと音を立てて手にした空き缶を拾い上げると、足元に置いた大きなゴミ袋の中へと放り投げた。
「ゴミの量、すげぇもんな。これ、お前がやったのか?」
「いや、やったのは別の奴だ。クラスメイトでな。代わりに片付けてる」
「ふーん。代わりに片付ける必要なんてないと思うけどなー」
当たり前のように他人の尻拭いをする男子生徒と、それに素っ気なく返す天那。二人の会話を横目に、伊吹はあからさまに深い溜息をついた。
「はぁ……天那。そんな奴、ほっときなって」
「いやぁ、さすがに放っておけないだろ。手伝ってやろうぜ」
「……分かったよ。けどさ、他人が散らかしたゴミなんて、片付ける必要ないじゃん。普通は店員に任せるでしょ」
「おー、確かにそうだな」
伊吹の至極まっとうな指摘に対し、天那は頷き、男子生徒は小さく瞬きをした。どこか世間の常識からズレたような、やや乾いた声が返ってくる。
「そうか。コンビニの店員は、そういう仕事も引き受けるのか」
「当たり前でしょ。店の前がゴミまみれなんて、店側だって嫌に決まってる。もしかして、あんたも世間知らず?」
「……そうかもしれないな」
「ったく。まぁいい、ちょっと私が言ってきてやるよ」
そう言い残すと、伊吹は呆れ顔のまま自動ドアをくぐり、店内へと消えていった。残されたのは、天那と男子生徒の二人。絶好の機会だと、天那は彼に気になっていた問いをぶつけた。
「なぁ。お前さ、バスの中で俺のこと分析してただろ」
「……何のことだ?」
「誤魔化したって無駄だ。視線には敏感なんでな」
「…………」
男子生徒の口が重く閉ざされる。重苦しい沈黙の中、彼の身体の軸がわずかに低く沈み込んだ。一見すると無防備に立っているだけのように見えるが、天那の眼を誤魔化すことはできない。
つま先の角度、極限まで高められた筋肉の緊張、計算された呼吸の周期──男子生徒は天那のどんな一動をも即座に迎撃できるよう、寸分の隙もない戦闘態勢へと移行していた。
「俺とヤる気か? やめとけよ、お前じゃ勝てねぇし。それに、別に俺もヤり合う気はないからさ」
「……みたいだな」
天那の全身から一切の殺気が感じられないことを悟り、男子生徒はフッと肩の力を抜いて緊張を解いた。だが、次の瞬間──。
「でもお前……まぁまぁやるみたいだからなぁ。一応忠告はしとくか」
「忠告……? どういう──―っ!?」
言い終わるより早く、男子生徒の身体が弾かれたように後方へと飛び退いていた。天那が拳を振るったわけでも、一歩を踏み出したわけでもない。ただそこに立っているだけだ。にもかかわらず、男子生徒の全身の細胞が、思考より先に回避を命じていた。
「(…………バケモノか)」
数メートル後ろの着地点で深く踏み込み、体勢を整えた男子生徒の額から、タラリと冷や汗が伝い落ちる。天那の身から静かに溢れ出す、空間を押し潰すような重厚な死の気配。
幼少期からあらゆる過酷な教育と実戦を叩き込まれてきた彼でさえ、一度たりとも経験したことのない──全身に無数の針を突き刺されたかのような、苛烈極まるプレッシャーだった。
「(──勝てない。少なくとも、戦闘に関しては絶対に勝てない)」
一瞬にして悟った。自身の眼力による分析など遥かに超え出た次元に、天那の戦闘能力はある。どのような策を弄し、どんな手を尽くしたところで、純粋な『武』の領域においては絶対に届かない。……あくまで、直接的な戦闘能力に特化した話ではあるが。
しかし次の瞬間、空気の振動すら止めていた重圧と死の気配は、何事もなかったかのように綺麗さっぱり消え去った。
「まっ、こんなもんか。これでわかっただろ?俺や俺の周りの奴に、
「……心遣い感謝する。肝に銘じておこう」
そのまま二人の間に重苦しく気まずい空気が漂いかけた、まさにその時。タイミングよく伊吹が店員を連れてコンビニから出てきた。
事情を聞いたらしい制服姿の女性店員が、手に持った箒とちり取りで手際よく散乱していたゴミを片付けていく。そして、ほんの数分で店舗前は元通りの清潔な空間へと変わった。
「……よし、これで一件落着だな!」
天那が爽やかな達成感に満ちた笑顔を浮かべる。ほんの数分前に冷酷な死の気配を撒き散らしていた同一人物とは思えない、あまりの切り替えの早さ。
男子生徒はその凄まじい落差に「よくもまあそんな顔ができるものだ」と心中で呆れと驚愕を禁じ得なかった。だが、内心の動揺を一切表に出すことなく、ゴミを回収してくれた店員へ軽く頭を下げる。
そんな彼を見て、天那は何事もなかったかのように親しげな態度で自己紹介へと移った。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。俺は1年Cクラスの睡蓮天那だ。よろしく」
「……1年Dクラスの、綾小路清隆だ。こちらこそ、よろしく頼む」
どこか探るように言葉を詰まらせつつも、平静を装って名乗る綾小路。挨拶を終えた天那が伊吹に視線を送ると、つられて綾小路の目も彼女へと向かった。
二人からの無言の圧に押されるように、伊吹は面倒そうに肩をすくめて口を開く。
「……同じく、Cクラスの伊吹澪。よろしく」
「あぁ、こちらこそ」
短く言葉を交わしながらも、綾小路の思考は高速で回転していた。規格外の脅威──睡蓮天那という存在が、綾小路清隆の脳裏へ深く刻み込まれた瞬間だった。