重役室の静寂の中で、二人の男が重厚な応接机を挟んで向かい合っていた。
ひとりは、乃木グループ会長にして現拳願会会長の身である乃木英樹。そしてもうひとりは、高円寺コンツェルンを率いる代表取締役社長。いずれも、その一挙手一投足が日本経済界を揺るがすほどの絶大な影響力を持つ人物である。
高円寺はソファに深く腰掛け、煙草の煙を緩やかに燻らせながら、眉一つ動かさずに口を開いた。
「私に話があるということだが、いったい何の話かな? ただの商談というわけでもあるまい」
「白々しい。心当たりがあるだろう」
「心当たり、かね?」
あからさまに惚けてみせる高円寺に対し、乃木は組み替えた脚の上で拳を握り締め、静かに追及を続ける。
「……あの高校に手を出したな。あの学校の特殊な性質上、安易に手を出すべきではないという暗黙の了解を忘れたわけでもあるまい。いくら総理大臣と懇意にしているからと言って、自分が抱える駒──それも実の息子と闘技者を同時に送り込むなど、到底許される行為ではない」
「そうかな? むしろあなたにとってはプラスになると思うがね。政府関係者を味方につけておいて損はあるまい。感謝してほしいくらいだ」
高円寺はくすりと小さく笑うと、グラスの氷をカランと鳴らした。その余裕綽々な態度に、乃木は前傾姿勢になり、机を軽く叩く。
「それでも闘技者を使うべきではない! 貴様の個人的な事情で、拳願会を政争に巻き込むつもりか! 我々はあくまで中立であるべきだ!」
「どうあがいても、拳願会はすでに政治の中心にある。この程度のことで情勢が大きく変わるわけでも、拳願会が揺らぐわけでもあるまい。それに……あなたもどちらかと言えばこちら側だろう? 現総理を支持していたはずだ」
「……今の私は、拳願会の会長でもあるのだ。就任して間もない身で問題を起こすわけにはいかない。リスクは極力避けるべきだ」
乃木が深く溜め息をつきながら背もたれに体を預けると、高円寺は煙草を灰皿に押し付け、鋭い眼光を乃木に向けた。
「ご自分で避けていればいいさ。あなたほど優秀なら、それくらい容易いだろう。──さて、この話はもういいのではないかね? あなたとて、この話題をダシにして少しでも交渉を有利に進められればいい、程度に考えていたはずだ。さっさと本題に入ってくれたまえ」
「……ふん。相変わらず食えない奴だ」
「そちらこそ」
重厚な応接室に、束の間の短い沈黙が落ちる。机上の灰皿から立ち上る一本の煙だけが、静かに揺らめいていた。先に口を開いたのは乃木だった。組んでいた脚を解き、深くソファに腰掛け直す。
「本題と言っても、決して無関係の話ではない。……闘技者、
「ふむ。彼女に何か問題でも?」
高円寺は興味深そうに片眉を跳ね上げ、グラスを揺らした。
「彼女自身に問題はない。だが、彼女があの高校に入学したこと自体が問題なのだ。拳願会の会員や支援者の中には、彼女のファンも多い。──特に、政府関係者にはな」
「なるほど。つまり彼女には高校生として普通の生活を送らせるより、闘技者として拳願会の客寄せパンダになってほしいわけだ。子供の未来を掠め取ろうとは、随分と鬼畜な提案だ」
高円寺の皮肉にも乃木は表情ひとつ変えず、冷ややかな視線を返した。
「子供を政治の道具としてあの学校へ送り込んだ貴様に言われたくはないな」
「手厳しい」
楽しげに肩をすくめる高円寺に対し、乃木は低い声で核心へと切り込む。
「……何も無理に退学させる必要はない。貴様と私の人脈を合わせれば、特例として外での試合を認めさせることくらい──」
「──実はね」
乃木の言葉を遮るように、高円寺が穏やかに、されど鋭く声を挟んだ。
「縁に恵まれたこともあって、すでに手は打ってある」
「……なに?」
眉をひそめる乃木を前に、高円寺は満足げに笑みを深める。
「さすがの私とて、三年間も彼女の才能を眠らせておくような勿体ない真似はしないさ。ただ、そうだな。どうせならあなたにも一枚噛んでもらおうか」
そう言って高円寺が見せた笑みには、完全に対話の主導権を握った者の余裕が満ちていた。
「部活、どうすっかなぁ……」
入学して二日目。伊吹と共に部活動説明会に参加した天那は、一人で敷地内をあてもなく歩いていた。
連れ立っていた伊吹は一応運動系の部活を見学してくるらしく、説明会が終わったところで別行動となっている。一方の天那といえば、人より何倍も刺激的な世界で生きてきたせいか、学校の部活動という枠組みにどうにも興味を持てずにいた。
かといって部活にも入らず、アルバイトをするでもなければ、放課後の時間は持て余すばかりだ。何より懸念しているのは、これまで血の滲むような思いで鍛え上げてきた肉体や、研ぎ澄ませてきた己の武が鈍ってしまうことだった。
自ら望んで飛び込んだ業界ではなかったものの、積み上げてきた努力の結晶が衰えていくのを黙って見ている気には到底なれない。ゆえに、天那の思考は堂々巡りを続けていた。形式的に運動部へ所属すべきか、それとも個人でひたすら鍛錬を積み重ねるべきなのか。
「はぁ……自由な学生生活っていうのも、案外考えものなのかなー。いや、俺の感覚が完全に麻痺してるだけか」
ため息まじりに独りごち、春の風が吹き抜ける敷地内を歩いていた──その時だった。
「…………え?」
天那はあまりの衝撃に足をとめ、見開いた目を一点に釘付けにした。
「なんで……なんで、ここに……!?」
半信半疑のまま見つめる視線の先に、あまりにも見覚えがありすぎる看板が掲げられていた。そこに刻まれていた名は──。
──『クレイシ道場』。
天那は吸い寄せられるように足を進めた。引越し作業中なのか、開放された引き戸の脇には『準備中』と書かれた木札が立てかけられていたが、天那は一考だにせず敷居を跨いだ。
静かな道場内では、一人の男が大量の段ボール箱の前にしゃがみ込み、荷解きに精を出していた。その広く頼もしい背中は、天那にとってあまりにも見慣れたものだった。
「すいませんねー、まだ道場は開いてなくて──」
足音に気づいた男が、作業の手を止めずに天那に声をかける。しかし、天那はその言葉を遮り、その男の名を呼んだ。
「──暮石のオッサン! 久しぶりだな!」
「おっ、その声は……」
男がゆっくりと振り返る。頬から鼻筋を通り反対側の頬へと走る一条の細い傷跡。薄い赤紫色の髪。そこにいたのは闘技者『今井コスモ』の師匠である総合格闘家、『
「アマちゃん、久しぶり。よかった、わざわざ呼び出す手間が省けたよ」
「呼び出す手間? っていうか、なんでオッサンがここに!? もしかして道場をここに移転すんのか!?」
「いや、完全移転ってわけじゃないんだよ」
暮石は緩く首を振ると、立ち上がってパパンと手についた埃を払った。
「普段住んでる場所からも近いし、まあ週に一、二回ここで道場を開こうかと思ってね」
「マジか! ……でも、なんでわざわざこの学校の敷地内で?」
「そりゃあ、アマちゃんのためだよ」
「……俺のため?」
「君の雇い主から頼まれてね。鍛えてやってくれって」
天那の脳裏に、にやっと不敵な笑みを浮かべる高円寺コンツェルン代表の姿がふと思い浮かぶ。
「なるほどな。大方、コネでも使って自由に出入りできるように仕組んだんだろ」
「そういうこと」
「あのオッサン……何が普通の高校生活を送らせてやりたいだ。まだまだ戦わせる気満々じゃねぇか……」
そう呟く天那に暮石はふっと笑うと、真新しい床の感触を確かめるように軽く踏みしめた。板張りの清々しい踏み心地が、静かな道場内に心地よく響く。
「あと、同じ相手とばかり拳を交えてると変な癖がつくから、できる限り外の連中も出稽古として連れてくるつもりだよ」
「外の連中って?」
「君の人望もあって、コスモや大久保君、関林さんに室淵さん……ちゃんとした身分がある人なら、大体連れて来られる。アダムとか、その辺りの闘技者はさすがに無理だけど。それに、闘技者じゃなくても実力のある表の格闘家ならいくらでもいる」
暮石が口にした闘技者たちの名前に、天那の表情が一気にパッと明るくなった。なんだかんだ言いつつも、思考の根底がすっかり闘技者に浸りきっている天那にとって、それは何よりも嬉しいサプライズだった。
「やべぇ。なんかテンション上がってきた……」
「そうだ、それに……」
暮石は作業していた手を止めると、少し顔を上げて意味深に目を細めた。
「もしかしたら、『外の試合』にも出られるかもね」
「…………マジ?」
一瞬の静寂の後、天那の瞳に強い光が宿った。