拳願絶命トーナメント一回戦、第十一仕合。
『
闘技場の中央、いかなる隙もない構えを崩さぬ黒木。その圧倒的な威圧感を前に、天那は弾けるような踏み込みで地を蹴った。
だが、武を極めし男の胸元へ真っ直ぐ飛び込むなど、自ら死地に足を突っ込むようなもの。急接近の渦中、天那の足運びが変幻自在の軌道を描き、黒木の視界を揺さぶる。
──『瞬身功』。
水が流れるごとき滑らかなフットワークから繰り出される、視覚を惑わす幻惑の緩急。右からの強襲と見せかけ、次の瞬間には左側へと滑り込んでいた。
間髪入れずに突き出される、天那の鋭い右拳。
──『流水岩砕拳』。
流水岩砕拳は受けに特化した拳法なり。されど、ただ防ぐのみにあらず。あらゆる攻撃を流し去る柔軟さと、岩をも穿つ苛烈な打撃──それこそが、この拳法の真髄であった。
しかし、その一撃すら黒木玄斎の領域には届かない。
「──温いわ」
重厚な声とともに、黒木の左手が容易く天那の拳を払う。完全に衝撃を殺され、完璧にいなされる打撃。だが、それすらも天那にとっては想定の範囲内であった。
拳が払われた反動をそのまま回転力に変え、天那は下から黒木へ向けて左脚を跳ね上げる。
それでも、黒木玄斎には届かない。
黒木は視線一つ動かさず、迫り来る天那の左脚へ容赦なく右手を突き出した。
──『魔槍』。
貫手の一撃が、天那の脚肉を容易く穿つ──誰もがそう確信した、次の瞬間。天那の左脚が、あり得ない軌道で黒木の腕を滑った。
──『流水岩砕拳』。
「──ぬ!?」
「(来ると思ったぜ……『魔槍』がよっ!)」
流水岩砕拳は拳法である。しかし、流し受ける術は、手のみならず脚においても完遂される。
「天那のやつ、脚で魔槍を受け流しおった!?」
「……脚でも使えるのか。やべぇなあの技」
観戦していた大久保直也が思わず身を乗り出して叫び、十鬼蛇王馬もその眼光を鋭く光らせる。『拳法』という言葉に囚われ、手技のみを警戒していた黒木の胸中に、ほんの刹那生まれた驚愕。
天那が狙っていた本命──それこそが、この僅かな隙であった。
受け流した『魔槍』の威力を全身の捻りで殺さずに受け継ぎ、そのまま右拳へと収束させる。激流の如き一撃で巨岩さえも打ち砕くその拳が、黒木の胸元へと突き刺さる──はずだった。
「っ!?」
突如として回転する視界。遅れて右足に走ったのは、骨を砕かれたかと錯覚するほどの激痛と衝撃であった。天那は自身が足元をすくわれ、体勢を崩されたのだと瞬時に理解する。
宙に浮いた天那の視界に映ったのは、静かに軸足を戻す黒木の姿。その攻撃の正体は──ただの足払い。
何の変哲もない下段への蹴り。だが、武を極めし男の一撃は、それ単体で致命の破壊力を秘めていた。
「──この黒木、魔槍だけにあらず」
あまりにも重々しい一言が、天那の胸を射抜く。
魔槍へのカウンターを狙っていた天那は、当然魔槍を警戒していた。いや、警戒しすぎていた。しかし、黒木玄斎という男の真の脅威は、魔槍そのものではない。
鍛え抜かれた無数の技、それを最も効果的な局面で繰り出す冷徹な判断力、そしてそれらを完璧に実行せしめる極限の武。それこそが、黒木玄斎の真髄。
魔槍に意識を割かれていた天那にとって、ただの足払いはあまりにも重い痛恨の一撃となった。
魔槍を受け流すために左脚を跳ね上げていた天那は、唯一地を捉えていた右足を刈られ、完全に空中で体勢を崩される。その致命的な隙を、黒木が見逃すはずもなかった。
──正拳三連撃。
「~~~っ!?」
肺の中の空気が力任せに押し出され、声にすらならない悲鳴が漏れる。無防備な体躯に叩き込まれた重砲のごとき拳打は、天那の体を数メートル後方まで吹き飛ばし、無情にも闘技場の床へとうつ伏せに叩きつけた。
折れた肋骨が胸腔を刺し、息すらまともに吸えない。視界は急速に暗転し、意識の糸がぷつりと切れかかっていた。
「いかなる状況であろうと対応する。それこそが武だ。愚かな小娘よ、お前は勝ち筋を追いすぎた」
遠のく意識と混濁した視界の端で、背を向け出口へと歩みを進める黒木玄斎の背中が見えた。
「(くそ。次は……勝ってやる……。次こそは…………)」
消えゆく意識の底でそう決意を固めかけた、その瞬間。天那の脳裏に、突如として前世の最期の光景が閃光のようにフラッシュバックした。
激しい金属音と、身を裂くような衝撃。自動車事故によって、あっけなく途切れた前世の命。その記憶が蘇った途端、いま抱いた決意に対して猛烈な疑問が駆け巡る。
「(……次?)」
次は勝つ、という誓い。それは敗北を受け入れ、前を向くための正しい思考のはずだった。 だが、一度唐突に人生を断ち切られた過去を持つ天那にとって、その思考はあまりにも生ぬるい甘えに思えたのだ。
「(……本当に次なんてあるのか? 簡単に次があるなんて思っていいのか?)」
全力で戦い、敗れ、反省して次回に活かす。言葉にすれば美しく、建設的だ。しかし、人はいつ死ぬか分からない。明日の保証などどこにもないことを、自分は身をもって知っていたはずではないか。
──人生は、いつ途切れるか分からない。次なんて甘っちょろいものを待っている暇なんて、この一瞬のどこにもないのだ。
「待て……よ…………」
混濁する意識の中、気が付けば血に濡れた唇から声が絞り出されていた。
ピタリ、と黒木の足が止まる。静かに振り返った達人の視線に応えるように、そこには一人の武人が立っていた。
まともに構えることすらできず、膝はガタガタと震え、焦点すら定まりきっていない。それでも──彼女は、地を力強く踏みしめて立っていた。
「まだ……まだ決着は……ついてねぇぞ…………」
荒い息とともに吐き出されたその一言に、満員の闘技場が静寂に包まれる。これまで彼女をただの女としてしか見ていなかった一部の観客たちも、呑み込まれたように息を呑んだ。
全身から溢れ出る圧倒的な気迫と、死線に踏みとどまる狂おしいほどの覚悟。誰もがその姿に、一人の闘技者としての矜持を見出していた。
「……これ以上、何を求める。小娘よ」
黒木の問いは冷徹でありながら、どこか敗者への敬意を孕んでいた。その問いに対し、天那は微かな迷いすら見せず、歪んだ唇で鋭くと言い放つ。
「──勝利を」
「……見事」
黒木の瞳に、静かだが確かな熱が灯る。
「その覚悟、しかと見届けた」
無駄を一切削ぎ落とした踏み込み。次の瞬間、一つの重い打撃音が闘技場に虚しく響き渡った。ゆっくりと崩れ落ちる天那の体。 数秒の静寂の後、正気に戻った審判の叫びが場内を切り裂いた。
「勝負ありっ! 勝者――黒木玄斎っ!!」
歓声が爆発する闘技場、その中央。ただ一人堂々と立ち続けていたのは、『魔槍』黒木玄斎。倒れ伏す天那を見下ろし、黒木は背を向ける。
「──また会おう。睡蓮天那、若き闘技者よ」
その声には、死力を尽くして挑んできた一人の武人への、深い敬意が込められていた。