入学から早くも一週間。窓からうららかな春の陽気が差し込む教室では、すでに各教科の授業が本格化していた。現在は坂上が担当する数学の時間だ。
教室内に響くのは、黒板を叩くチョークの乾いた音と、教科書をめくる微かな擦れ音。入学当初に漂っていたあのピンと張りつめた緊張感は影を潜め、早くもCクラスの生徒たちには高校生活の緩みが見え始めていた。
教室内は静まり返っているというほどではなく、あちこちで小さくひそひそ話が交わされ、ぽかぽかとした陽気に誘われて舟を漕ぎ出す者もいる。
もっとも、彼女が授業中に私語を交わすようなことはない。ただ、すでに血生臭く過酷な裏社会の空気に染まりきった彼女にとって、学生生活はあまりに平和で、そして退屈だった。
連日のように襲い来る抗いがたい眠気。ここ最近はまどろみの中に落ちてしまうことが増えている。今もまさにそうだ。天那は机に肘をつき、手首に頬を預けた体勢のまま、小さく規則正しい寝息を立ててかすかに揺れていた。
これは夢だ。俺は今、夢をみている。
視界を汚す赤色の血と、鼻を突く凄惨な鉄臭さ。倒れ伏したジジイの胸元が、途切れ途切れの呼吸に合わせて力なく上下していた。
「……天那か」
「ジジイっ! な、なんだよその怪我! 誰にやられた!?」
「ふっ……情けない姿を、見せてしまったな……」
「早く……早く手当てしねぇとっ!」
「無駄じゃ。己の生の終わりくらい……老いた儂でも、容易にわかる……」
震える手でどれだけ血を止めようとしても、指の隙間から熱い命が溢れ出していく。これは夢だ。ただの最悪な夢だ。現実じゃない。だから、辛くはない。
「終わり、なんて言うなよ……ジジイ……」
「ふっ……お前のそんな顔を見るのは、久しぶりだな……。お前が五歳になったとき……あの時から、なぜかお前は……急に明るくなった……」
「っ、その話は今関係ねぇだろ……!」
脳裏に焼き付いた最後の思い出であり、最初の悲劇。薄れゆく意識を繋ぎ止めるように、ジジイの瞳がじっと俺を見つめていた。
「天那よ……。お前は、強く……なった。これからは……一人でも、生きていけるだろう」
「ふざけんなっ! 一人でなんて、生きていけねぇよ…………まだ、まだ俺にはジジイが必要だ………」
溢れ出る血に染まった師の胸にしがみつき、叫ぶ俺の頭に、骨張った大きな手がそっと置かれた。
血の気のない冷たい掌だが、伝わってくる温もりはかつて拳の握り方を教えてくれた時のままだ。ジジイはまるで聞き分けのない子供を宥めるかのように、弱々しく、けれど諭すような眼差しで俺を見つめ返してくる。
「……よいか天那。流水岩砕拳は、護るための拳だ。……決して、己の欲を満たすために、振るうものではない……」
「わかってる……わかってるよ! 復讐なんてすんじゃねぇってことだろ!?」
「うむ……それで、いい……。天那よ……最後に、お前に伝えることがある。お前の、両親についての、ことだ……」
「俺の親はジジイだろっ!」
叫ぶ俺の声に応えるように、ジジイの口元が微かに緩む。深くなった目尻の皺が、愛おしそうに俺の姿を刻みつけていた。
「ふっ……嬉しいことを言ってくれるわ……。だが、お前の人生に深く関わることだ……。伝える、必要がある……」
掠れる声を振り絞り、ジジイの残された力がその瞳に宿る。
「よいか。お前の親の名は──―」
「んがっ……」
「あ、やっと起きた」
突如引き戻された現実の感覚に、天那は小さく喉を鳴らして体を起こした。
ガラス越しに陽光が差し込む教室内。黒板に目をやると、びっしりと書かれた白チョークの数式は坂上の授業がすでに終盤へ差し掛かっていることを告げていた。残された時間は、あと十分ほど。どうやら二十分は深い微睡みの中に落ちていたらしい。
ふと横に目をやれば、隣の席の伊吹が「まったく……」と言わんばかりの呆れ顔でこちらを見ていた。どうやら彼女の中で、天那はすっかり手のかかる問題児として定着してしまったようだ。
じわじわと頭の霧が晴れていく中で、天那は視線を巡らせてCクラスの様子を探る。
机の下でこっそりスマホをいじる者や、自分と同じように重い首を揺らして舟を漕いでいる者。そんな弛んだ光景を目にして、天那は胸の内で小さく安堵した。自分だけが不真面目なわけではないと確かめるような、典型的で甘い考え方だ。
──だが、その安らかな空気の中に、微かな違和感を覚えた。
いつもなら授業中であっても隣と軽口を叩き合っている石崎が、気味が悪いくらい静かだった。いや、石崎だけではない。数人の生徒が肩を強張らせ、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「(んー……これは、恐怖か?)」
天那の感覚が、彼らの肌から伝わる微かな怯えを捉えた。まるで背後から肉食獣に見下ろされているかのように、誰もが後方の席を恐る恐る気にしながら、息をひそめている。
その歪な緊張感の源に、天那には心当たりがあった。
「(あー、確かアイツ……龍園、だっけ? アイツの仕業だな)」
教室の最後列で、常に剣呑な威圧感を纏っている男──龍園翔。彼が時折こちらへ刺すような鋭い視線を向けてきていることにも、天那はとっくに気づいていた。もっとも、関わるだけ時間の無駄だとすべて無視しているが。
そうして教室内に渦巻く様々な惑乱の気配を探っていると、チャイムの音が響き渡り、授業の終わりを告げた。天那が手元を見下ろせば、そこには心許ない空白の目立つノート。空しいことに、途中からほとんど書き写せていなかった。
急いで黒板に残された白い文字を追い、文字を走らせ始める。紙の上でペン先が焦ったように滑る音が響く中、不意に上からのしかかるような影が落ちた。伊吹が面倒そうに席を立ち、天那の机の端を軽く叩く。
「天那、後でノート見せてやるから、さっさと移動しよ」
「移動? どこに?」
ペンを止めて見上げると、伊吹は「……ったく」と呆れたように息を吐き、頭を横に振った。
「更衣室だよ。次の授業、水泳だろ?」
「あっ、そうか! 今日水泳か! 完全に忘れてた!」
天那が声を上げたのと時を同じくして、教室のそこかしこで椅子を引く賑やかな音が鳴り響いた。石崎をはじめ、先ほどまで死んだように静まり返っていた男子生徒たちが、分かりやすくそわそわと色めき立ち始める。
プールそのものへの歓喜などではない。女子の水着姿を拝めるという一点だけに鼻の下を伸ばしているのは、誰の目から見ても明らかだった。そして言うまでもなく、彼らの熱い視線と期待を最も集めているのは、天那であった。
衣類の擦れる音と賑やかな会話が充満する女子更衣室。室内では、指定のスクール水着へと着替えるCクラスの女子たちが身を寄せていた。無論、その渦中には天那の姿もある。
天那がふいにシャツのボタンを外し、滑らせるように脱ぎ捨てた瞬間──室内の空気がぴたりと固まり、女子たちの視線が一斉に彼女へと集中した。
普段は遠巻きにして関わりを避けている真鍋を筆頭に、全く天那と関わりのない女子までもが、隠しきれない好奇心を瞳に宿し、食い入るように天那の身体を凝視している。
彼女たちの目当ては、普段から制服の上からでも存在感を主張していた豊満な胸と尻が、水着にどう収まるのかという野次馬的な興味だった。しかし次の瞬間、女子たちの視線を釘付けにし、言葉を失わせたのは全く別の部位だった。
天那のしなやかなウエストに刻まれた、見事なまでに引き締まった腹筋。
「うわ、腹筋すごっ……」
誰からともなく、小さく感嘆の声が漏れる。伊吹も口には出さないものの、その無駄のない肉体美に密かに目を見張っていた。それと同時に、この異質な身体つきに対する疑念が胸をよぎる。
当の天那は周囲の動揺など意にも介さず、マイペースに着替えを進めていた。すると、すぐ近くで着替えていた真鍋が、己のウエストを覆い隠すように固く腕を組み、苦々しい表情で天那に詰め寄った。
「……なによそれ。アンタ、何したらそうなるわけ?」
天那の圧倒的な造形美を前に、真鍋の顔は微かに引きつっていた。それでもなお強気に絡んでいくのは、膨れ上がる嫉妬やプライド、そしてクラス内でのスクールカーストを守ろうとする、必死な抵抗の現れだった。
「何って……まぁ、自然に?」
「自然にって、自然にそうはならないでしょ……」
「そうか? でも、いつの間にかこうなってたし……何か変だった?」
天那は自分の腹筋をさっと見下ろし、不思議そうに眉を寄せる。その無自覚な態度が、真鍋のプライドをさらに逆撫でした。
「変っていうか……女子でそんな身体、おかしいでしょ。男子が見たら引くんじゃないの?」
真鍋は唇の端を吊り上げ、皮肉交じりに天那を牽制する。
「んー、別に男に見せるためにこうなったわけじゃないしなー。それに、男なんて放っておいても勝手に寄ってくるもんだし、丁度いいだろ」
スクール水着の肩ひもをポンと指で弾きながら、天那は微塵も揺らぐことなく淡々と言い放った。その揺るぎない自信と余裕に、真鍋の顔が瞬く間に赤く染まっていく。
「……っ! 勝手に寄ってくるのはアンタだけでしょっ!」
悔しさと羞恥に打ち震えながら、誰にも聞こえないように小声で吐き捨てる真鍋。天那は真鍋の嫌味を意に介さず、いや、嫌味とすら認識していない様子で爽やかに伊吹へ振り向いた。
「澪、着替え終わった? なんかいざとなると楽しみになってきてさ! 早く行こうぜ!」
「おっけー。私も準備できた」
天那は軽い足取りで更衣室を後にする。後を追う伊吹は、真鍋の横をすれ違いざま、耳元へ冷ややかに一言だけ落とした。
「眼中にないってさ」
「……は?」
呆然とする真鍋を置き去りにし、伊吹もドアの向こうへ消えていく。残された真鍋は悔しさに肩を震わせ、ギシッと拳を強く握りしめた。その心には、いつかあの鼻につく女に痛い目を見せてやるという暗い情念が渦巻いていた。
──しかし、それから数十分後。
50メートル自由形で、男子すら置き去りにする驚異的な記録を叩き出した天那の泳ぎを目の当たりにし、真鍋は「絶対にあの女には手を出さない」と固く心に誓うのだった。