ヒーローアカデミアの喰種   作:きりっと果実

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第1話『この世の不利益は全て当人の能力不足』

 

 

僕がこの世界に産まれ直してから、思い出せる中で1番古い記憶は母さんの作るカレーの匂いだった。

 

日曜の夕方だった。台所から包丁の音がして、母さんの鼻歌が聞こえる。

 

玄関の鍵が回る音。

仕事帰りの父がスーツも脱がないうちに僕を抱き上げて、天井すれすれまで持ち上げる。

 

「研〜!ただいま!」

 

父の肩越しに鍋の湯気が見えた。

 

「あなた!研に構うよりお皿を出してください!」

 

どこにでもある、普通の幸せな家庭だ。

 

──ぼくひとりを除いて。

 

 

僕には前の人生の記憶がある。

 

日本という国で普通に生まれて、普通に働いて…そして死んだ男の記憶だ。

特に何かを成した覚えはない。

強いて言えば漫画が好きだった。

特徴といえばそれくらいの、その程度の男だ。

 

この記憶を思い出したのは、恐らく物心ついた頃。

 

誰かに打ち明けたことはない。

三歳の子供が前世を語り出したって妄想と思われておしまいだ。

これから先も打ち明けないと思う。

頭がおかしくなったと思われるのはさすがに嫌だから。

 

だから僕は普通の子供として普通に生きた。

 

ふ ふふん ふん、と母の鼻歌に下手な歌を重ねて、父の膝で同じ絵本を何度もせがんで、年相応に笑って 年相応に泣いた。

 

不思議なもので、最初は演技のつもりだったけれどどうも魂は器に馴染むらしく、やがて演技も必要ないくらいには普通の子供になっていた。

思考速度や知識量はともかく…転んで膝を擦りむけば勝手に涙が出たし、父のたかいたかいは心から楽しかった。

 

ただ ひとつだけ。

どうしても馴染めないものがあった。

 

()だ。

 

気の弱そうな、優しそうな顔。

そして()()()という名前。

 

容姿は随分と幼いが、前世で読んだ漫画の主人公と顔も名前も同じだった。

 

 

『東京喰種』

 

──人を喰らう化け物と人との狭間で引き裂かれていく青年の物語。

 

物語の途中のことだ。

彼は攫われ、椅子に縛られる。

指を落とされて、生えるまで待ったら、また落とされる。

気を失わないようひたすら千から七をひきつづけて……

やがて黒かった髪は真っ白に染まって……

 

最初に気づいた夜は到底眠れなかった。

 

ここは喰種の世界なのかと…心底震えた。

 

でも幸いなことに予想とは違い、この世界に喰種はいなかった。

代わりにあるのは『個性』という超能力のような力だ。

 

人口の八割が生まれつき超常の力を持つ世界。

テレビでは今日もヒーローが空を飛び、商店街の壁には笑顔のヒーローのポスターが色褪せている。

 

僕の知る前世のどの漫画とも違う、知らない世界だった。

僕が知らない世界で、僕の顔と名前だけがあの漫画から切り取られてきたみたいだった。

 

ただの偶然だ。と思うことにした。

 

喰種のいない世界でだったら、金木研はただの名前だ。

悲劇の主人公なんかじゃない。

 

父はにやけた顔で僕の頭を撫でてよく言った。

 

「研の個性はきっとすごいぞ〜!何せ父さんと母さんの子だからなぁ」

 

それを聞いた母が笑う。

 

「うふふ、でもあなたの個性地味じゃないですか」

 

「コラ、地味って言うな。堅実と言え堅実と!」

 

父の個性は 皮膚を硬い殻に変えるだけの角質化だった。

 

腕や背中が鈍い色の殻に覆われる。

それだけだ。

 

飛べもしないし、光りもしない。

それにそれほど硬くもならない。

ちょっと強い魚の鱗程度らしい。

実際役に立ったところを僕はたった一度しか見たことがない。

それでも父は自慢げだった。

 

「いいか研?個性ってのは派手さじゃない。使いどころだ」

「その使い所が少ないから地味なんでしょう?」

「堅実と言え!」

 

 

 

 

 

ぼくがそのたった一度を見たのは台風の夜だった。

風で飛んできた何かが窓を割って、破片が居間まで散った。

危機を感じて目をつぶったが、気付けば父の腕が僕と母を抱え込んでいた。

 

硬い殻に覆われた大きな腕だった。

破片はぜんぶ、大きな腕で弾いていた。

 

「ほらな?研、言った通り使いどころだろ?」

 

ニヤリと得意げに笑う父の腕をぼくはいつまでも触っていた。

例え地味でも誰かを守れる個性がこの世にはあるのだとあの夜に知った。

 

 

母の個性は食べた分だけ傷の治りが早くなり、体を動かすエネルギーになるというものだった。

だから母はご飯をよく食べた。父より何倍も食べてもけろりとしていた。

包丁で指を切ってもごはんを一膳おかわりすれば翌朝には跡も残らない。

 

「こんなの燃費が悪いだけよ?」と母は笑っていた。

 

ヒーローには程遠い、小さな力がふたつ。

それでもこの家の中でならその二つで十分すぎるほどだった。

父も母も、口では自分の個性にしばしば文句を言っていたりしたが、ぼくの個性がどんなものになるのか楽しみにしていたようだった。

 

 

風呂上がりに父の膝で絵本を読んでもらうのが ぼくの日課だった。

同じ本を何度もせがんだ。

当然中身なんてとっくに覚えていた。

ただ大好きな父の声で聞きたかっただけだ。

 

ある夜、父は絵本を閉じて言った。

 

「研の名前の字はな、研ぎ澄ますの研だ」

 

「とぎすます……」

 

「何かひとつでいい。自分の芯をまっすぐ研いでいけるように。そう思って母さんと二人で決めた」

 

前世の記憶があるぼくはその名前の一致にずっと内心で身構えていた。

あぁ、ぼくはなんて馬鹿なんだ。

この名前はあの漫画から来たんじゃない。

父さんたちから贈られたんだ。

 

そんな事に気付くのに、人生2周目の癖して随分と時間がかかった。

 

 

休みの日は三人で近所の公園に行ったりもした。

父さんの肩車はそれはもう高かった。世界で一番高い場所だと思えるほど。

何せ身長が190もある父さんだ。楽しいけど高すぎるし普通に怖い。

 

滑り台の上から手を振れば母が笑顔でカメラを構えて父が大袈裟に腕を振り返す。

 

ありふれた家族だった。

ありふれていることがどれほど得難いか。

一度死んだぼくだけが知っていた。

だから僕は…たぶん、誰よりもこの日常に執着していた。

 

 

冬になると父は保育園の帰りに時々寄り道をした。

コンビニの肉まんを半分こして湯気で手を温めながら歩く。

少し熱いけれど冬の寒さにはそれが心地いい。

 

「母さんには内緒な?夕飯前だから怒られちまう」

「うん、ないしょ!」

 

指切りをした。

父の小指は太くて、ぼくの小指は小さくて頼りなかった。

 

夕飯の席で母が「あら…今日はあんまり食べないの?」と首を傾げるたび、父とぼくは目を合わせないようにした。

 

ばれていないと思っていたのはたぶんぼくと父だけだ。

そういう夜が、そういう休日が、そういう寄り道が、ずっと続くと思っていた。

 

そう、思っていたのに。

 



 

土砂降りの雨の日だった。

 

ぼくが保育園で友達と遊んで待っていると、迎えに来たのは母ではなくスーツの女の人だった。

それが役所の人だと知ったのは随分と後になってからだ。

 

女の人に連れられるがままでいると、病院の廊下に母がいた。

 

ぼくを見て、何か言おうとして、口を閉じてただぼくを強く抱きしめた。

母の髪からは青臭い雨の匂いがした。

 

父が事故で死んだ。

 

特に誰が悪いという話でもなかったらしい。

信号とトラックと濡れた路面。

それだけの組み合わせで、優しい父は帰らぬ人になった。

 

通夜の空気を覚えている。

線香の香りと折り畳み椅子の冷たさも。

 

棺の小さな窓をどうしてもぼくは覗けなかった。

 

母はぼくの手を握ったまま最後まで泣かなかった。

 

ぼくは泣いた。声が枯れるほど泣きわめいた。

 

前世を数えれば親族の葬式なんて初めてでも無いのに。

三歳の体は勝手にしゃくり上げて止まらなかった。

 

母はぼくの背中を叩き続けた。一定のリズムでずっと。

あの手を思い出すたびに思う。

母の手は僕を慰めてくれたのに、母を慰める手はどこにもなかったのだと。

 

***

 

父のいない生活は静かに始まった。

 

朝、目が覚めると台所に母がいる。以前と変わりなく。

ただ食卓の椅子がひとつ使われなくなった。

でも、母はしばらくその椅子を片付けなかった。

ぼくも何も言わなかった。ぼくだって片付けて欲しくなかったから。

四十九日が過ぎた頃、母は僕を自転車の後ろに乗せて言った。

 

「研…お母さんと二人で頑張ろうね」

「うん」

「……ごめんなさい。頑張ろうねなんて…子供に言うことじゃないわよね」

「母さん…頑張るよ、ぼくも頑張る!」

 

表情は見えなかったが、母は前を向いたまま少しだけ笑ったみたいだった。

 

それでもペダルを踏む背中は小さく震えていた。

 

ぼくはその背中に頬をつけて目を閉じた。

 

ただ安心したくて。ただ安心して欲しくて。

 

四歳になる前の子供のぼくにできることなんて、それくらいしかなかったんだ。

 

***

 

四歳になってもぼくに個性は出なかった。

 

焦燥感を隠せない母に連れられ、病院で足の小指のレントゲンを撮った。

 

「…うぅん、小指の関節はひとつですねぇ」

 

医者はフィルムを光にかざして 首を傾げた。

 

「骨格を見るに個性をお持ちのはずなんですが……まあ、遅咲きの子もいますから。気長に待ちましょう」

 

遅咲き。

 

母はただその言葉に縋っていた。

 

きっといつか出るわ。研の個性はすごいってお父さんも言ってたでしょう?

 

と。

 

その頃の生活はそれでも悪くなかったのだと思う。

 

仕事を増やさなくてもお金は足りていたし、夕飯には湯気があって日曜には二人で商店街のコロッケを買った。

 

揚げたてを紙袋越しに持ってはふはふ言いながら歩いて帰る。

 

「…お父さんの分も買っちゃったから」

 

母はよくそう言って三つ目のコロッケを僕にくれた。

まだ踏ん切りはついてないんだと思う。

余ったコロッケは仏壇に供えてから結局ぼくが食べていた。

 

始まりは悲しいうっかりだったけど、それがいつの間にか二人の決まりになっていた。

 

誕生日には小さなケーキが出た。

ろうそくを吹き消すたびに母は同じことを聞いた。

 

「研、何をお願いしたの?」

 

「ひみつだよ!言ったらかなわなくなっちゃうでしょ?」

 

「ふふ、そっか…そうよね」

 

実を言うと願いなんて毎年同じだった。

 

母さんが無理をしませんように。

 

個性なんて一生来ませんように。

 

……結局どっちも叶わなかったんだから願い事を聞き届ける神様なんて居ないんだろうな。

 

 

ある日、母の鞄から一冊の本がのぞいていた。

 

『遅咲きの子の個性を伸ばす』

 

母はぼくの視線に気づくと慌ててそれを鞄の奥に押し込んだ。

 

「…っ!ちがうの、ちがうのよ、これは、その…」

「…ぼく、なにも見てないよ」

「……うん…ごめんね、私が」

「やめてよ!ぼくは、母さんがいればいいんだから…」

「うん…うん……」

 

 

その夜のカレーはいつもより少しだけ甘かった。

好きなじゃがいもがごろっと入っていて美味しかったのを覚えている。

ご飯の時間は好きだ。

母さんが幸せそうな顔でぼくを見てくれるから。

 

 

それから五歳が過ぎた。六歳が過ぎた。

小学校に上がっても、僕の身には何も起きなかった。

同級生たちは次々と個性を披露した。

指先から水を出す子。髪が伸びる子。地面から少しだけ浮く子。

 

僕は……何も出なかった。

特徴らしい特徴といえば風邪をひかなかったり、傷の治りが少し早いこと。

 

「お母さん譲りだね」で終わる程度のことは、この世界では個性とは呼ばれなかった。

 

僕自身気に留めないふりをした。

 

いや……本当は薄々わかっていたのだと思う。ただ考えたくなかったんだ。

個性が来ないことより、来てしまうことのほうがずっと怖かったから。

あの漫画の彼と同じ顔をした僕に宿る力なんて…ひとつしか思い浮かばない。

だから「無個性」と呼ばれるたび 心のどこかで安堵していた。

 

──その安堵の分だけ母が磨り減っていたことに僕は気づかなかった。

 

 

父の多大な保険金は家のローンと、それからの生活に少しずつ溶けていった。

母はパートを二つ掛け持ちしだして、帰りは日に日に遅くなった。

 

「ごめんね」が母の口癖になったのはいつからだったろう。

 

夕飯がレトルトになった日。

授業参観に来られなかった日。

運動会の弁当がコンビニのおにぎりだった日。

家に帰ってもメモ書きと千円札だけの日。

 

何に謝っているのか、僕は聞かなかった。

謝って欲しくなんてなかった。

聞くのが怖かった。

 

母さんの茶碗はいつの間にか僕のより小さい物になっていた。

食べた分だけ動ける個性だ。

食べなければただ人一倍燃費の悪い体が残るだけ。

それをわかっていたのに僕の茶碗に山盛りをよそう母の手を僕は一度も止められなかった。

食べなきゃ、母さんは人一倍疲れやすいただの人なのに。

母さんは昔よりずっとずっと大変なのに。

 

 

学校では上履きが隠れる程度のことは日常茶飯事だった。

無個性というのはこの世界ではそういう扱いなんだから仕方が無い。

僕は平気だった。

中身は大人なのだから、子供のやることに傷つく道理がない。

そう思い込むことにしていた。

だんだんと、平気なふりだけが上手くなっていく。

 

当然母には言わなかった。

だって、心配なんかかけたくない。

僕のせいで大変な思いをしているのに……

 

それでも一度、学校から家に連絡がいったことがある。

 

帰り道母は自転車を押しながら、ずっと前を向いたまま言った。

 

「ごめん……ごめんね。お母さんが…普通に産んであげられなくて」

 

違う!!

 

ぼくはそう言うべきだった。

母さんのせいじゃない!個性なんてなくても母さんがいれば───

 

そう言えば良かったのに。

ぼくは笑っただけだった。

 

「ううん、平気だよ」

 

笑えば安心すると思ってたんだ。

嘘の笑い方ばかり上手くなった僕らは、皮肉にも親子でよく似ていた。

 

六年生の春、一度だけ母が授業参観に来たことがある。

 

仕事を抜けてきたのだろう。教室の後ろで母は化粧でも隠しきれない顔色のまま…それでもぼくと目が合うと嬉しそうに手を振った。

 

ぼくも当然振り返した。小さく、恥ずかしそうに。

 

帰り道に母は言った。

 

「研は作文が上手ねぇ。お父さんに似たのかしら?」

「ううん、きっと母さんに似たんだよ」

「ふふっ、なぁに?それ」

 

久しぶりに母さんの嘘じゃない笑い方を見た気がした。

あれが母と歩いた最後の参観日だった。

 

そういえば一度だけ母が熱を出して寝込んだことがある。

母さんのために、僕は見様見真似でおかゆを作った。

お米の芯が残って少し焦げた。

見事に失敗してしまった。

 

「おいしい!研は凄いわね」

 

それでも母さんは三口ほど食べてそう言った。

そんなの嘘だとすぐわかるくらいの出来だったのに。

 

三口じゃ母さんにはちっとも足りないのに。

 

母さんの個性は食べた分しか働かないのに。

 

大事なご飯を、ぼくは失敗したのに。

 

「研は風邪をひかないから助かるわ…上手に産んであげられたのはそこだけかしらね」

 

そこだけじゃないよ。

 

父さんが居なくなっても僕が幸せなのはぜんぶ、全部母さんのおかげなんだよ。

 

言いたかった言葉はいつも喉の奥で渋滞して、出てくるのは「早く寝てね」だけだった。

 

母は次の朝には仕事へ行った。

休むという選択肢は、母にはとっくに無いらしい。

 

 

僕が中学に上がる頃、母さんは別人みたいに痩せていた。

夜中に台所の床に座り込んでいるのを何度か見た。

灯りもつけずに、冷蔵庫の低い唸りだけがする暗がりで。

 

「……母さん?」

 

声をかけると母は振り向いて笑うのだ。

 

「大丈夫。ちょっと涼んでただけ」

 

本当に涼みたいなら寝室で充分じゃないか。

僕とおそろいの上手な……下手な嘘だった。

前世の記憶がある僕は、中身だけなら大人のはずの僕はそれでもその嘘を暴かなかった。

だって、なんて言ったらいいのか、分からないじゃないか。

母さんはこんなに責任を感じてるのに。

全部僕のせいなのに。

 

明日話そう。今度の休みに。テストが終わったら。

中間が終わったら。期末が終わったら。三者面談が終わったら。

そうやって「いつか」を数えて 先送りにして……

 

***

 

何の変哲もない火曜日だった。

玄関の鍵が開きっぱなしだった。

 

「ただいま〜」

 

返事はなかった。

 

「……母さん?」

 

いつもなら直ぐに元気の無い声で「おかえりなさい」とかえってくるのに。

珍しく寝ているのかもしれない。

だとしたらいい兆候だ。

日頃働きすぎなんだから少しは休んで沢山食べないと。

 

廊下の先では台所の灯りだけがついていて換気扇が回りっぱなしだった。

 

「(母さんにしては珍しいな。いつもちゃんと切るのに……)」

 

やっぱり疲れてるんだなと、そう思った。

 

歩いていった先、廊下の奥の寝室の戸が半分開いていた。

 

「…あれ?ちょっと母さん!扉はちゃんと閉めないと、エアコ…ん、…あ」

 

ギィ……ギィ……

 

目線の先に母の脚がゆれていた。

よく働いて筋肉のついた、頼りになる脚だ。

少し上に目線をあげてみると母さんの顔があった。

 

酷く疲れ切っていて

 

虚ろな、

 

目が、

 

 

ゴトッ

 

 

鞄が肩から滑り落ちた。

エアコンの風が吹く音がやけに遠い。

 

ああ、降ろしてあげなくちゃ

だって、きっとくるしいから

 

 

ド サ ッ

 

 

僕の膝が勝手に折れて僕は母のそばに座り込んだ。

 

 

『研!危ないから机に乗っちゃダメよ!』

 

 

かあさん

 

 

『どうしたの?…あら!上手ね、お父さんと私?すっごく嬉しい!』

 

 

なんで?

 

 

『いやよ、どうして…こんな……私たちを置いていかないで……』

 

 

ぼくは、ただ

 

 

『ごめんなさい……私、普通に産んであげられなくて…ごめん、ごめんね……』

 

 

かあさんと、いっしょに

 

 

声が、出なかった。

手を伸ばして、母に触れる寸前で止まった。

触れたら本当になってしまう気がした。

全部本当になってしまったら、僕は、きっと、

 

 

──その時だった。

 

とても、いい匂いがした。

 

甘い匂いだ。

 

今まで嗅いだどんな料理よりも深く、暖かく、胃の底を直接撫でるような……

 

ぐ ぅ

 

腹が鳴った。

 

理解するのに数秒の時間を要した。

理解した瞬間僕は口を押さえて廊下へ這い、胃の中のものを全部吐いた。

吐いても吐いても、この感情は消えなかった。

母を前にして、僕はあの匂いを美味しそうだと思った。

その事実だけはどうしても吐き出せなかった。

 

お腹が空いた

 

母さんだぞ!?

 

喰わなければ

 

僕の!母さんなんだぞ!!

 

なんて美味しそうなんだ

 

違う!違う!!違うちがうちガうチガうチガウ!!!!

 

頭の中で誰かが叫んでいる。僕の声だ。僕の声のはずだ。

 

気づけば僕は玄関を飛び出していた。

 

靴は片方しか履いていなかった。

石を踏んで虫を踏んで、血だらけの足で夜の街を走った。

どこをどう走ったのかわからない。

止まったら、考えなきゃいけなくなる。

信号も車のライトも全部が滲んでいた。

 

河川敷の草むらに倒れ込んだところでようやく足が止まった。

 

心臓がうるさい。息をするたびに喉が痛む。

 

僕は逃げた。

 

母さんを家に置いて、僕は自分の本性から逃げてきたのだ。

 

落ち着くにつれて呼吸が荒くなっていく。

 

状況を理解してしまって、どんどんと。

 

やがて僕は意識を失い、

 

───そして世界が裏返った。

 

 

 

 

 

視界が白と黒の市松模様に塗り潰される。

 

知らない部屋。冷たい椅子。手首に食い込む拘束。

 

『さあ 千から七を引いていけ』

 

どこかで声がした。

 

今世で聞いたことのないはずの知っている声だった。

 

……九百九十三

 

指先に金属の冷たさ、それから……音。

 

九百八十六。

 

痛い。痛い痛い痛い!

 

これは誰の痛みだ!?

 

僕は椅子になんか縛られていない!

 

ここは河川敷で、僕は金木研で

 

九百七十九。

 

そうだ、僕は金木研で……違う。

 

あれは漫画だ。

 

あの白髪は僕じゃない。

 

じゃあこの記憶は誰のもの……?

 

コーヒーの味。古本の匂い。雨の音。鉄骨。眼帯の白。

 

知らない!

 

知っている。

 

僕のじゃない!

 

僕のだ。

 

 

九百七十二。

 

やめてくれ。

 

九百六十五。

 

母さん。

 

なんで、僕ばっかり──────

 

『本当は分かってるんでしょう?』

 

…なんで……?ちがう、あなたは偽物だ

だって、いるわけが無い

 

『たとえ私が偽物でも幻でも虚構でも、あなたが滑稽で情けない以外の意味がある?』

 

……誰も助けてくれない

僕は、こんなにくるしいのに……

 

『この世の不利益は全て当人の能力不足』

 

…そんなの嘘だ!

 

『母親に慰められてばっかりで、ちっとも慰めなかったのは誰?』

 

だって、僕は、

 

『分かってたくせにずっと助けられてばっかりだったのは?』

 

違う、僕はいつか、いつか母さんを支えられるようになろうと

 

『じゃあ、それはいつ?死体の目の前で?遺灰の目の前で?お墓の目の前で?』

 

僕はただッ!!

 

『母親はあなたのことを愛してなかったのね……だってずぅっと遺影に縋ってばっかり』

 

違うッ!!!

 

『あなたがいるだけじゃ物足りなかったのね。本当は掛け持ちなんかしなくてもお金は足りてたのに…感情を誤魔化すために仕事を増やしてあなたとの時間を減らした』

 

やめろ……母さんは……

 

『だってそうじゃない?運動会にも三者面談にも、必要のない仕事を詰め込んで来なかったもの』

 

『保険金がなくても本当は遺産があったのに…二人で貯めたお金には手が出せなかったのね、あなたとの生活よりも夫との思い出の方が大切だった』

 

かあさん……

 

『あなたを愛しているならさっさと踏ん切りを付けるべきだった。夫との過去よりもあなたとの未来を生きるべきだった』

 

『あなたもそうして欲しかったんでしょう?』

 

あ……あぁ…なんで……かあさん……かあさん、かあさん…!

なんで僕を見てくれなかったんだ…!!

運動会にきてほしかった!!

いじめられてるって、気付いてほしかった!!

もっと僕を見て欲しかったッ!!!!!

 

あぁ、なんでこんな簡単なこと言えなかったんだろう

 

ただ一言言えば、母さんは僕を見てくれたのに

 

ただ一言、「僕を見て」って

 

虚構に縋ってようやく自覚するなんて

 

こんなになってもあの匂いが忘れられないなんて────

 

まだお腹が空くなんて────

 

母さんを、()()()()()()()()────

 

どうしようもなく僕は……

 

()()()

 

 

 

 

背中の皮膚が内側から破れる。

赤黒い何かが四本、夜気を裂いて伸び上がり河原のコンクリートを激しく抉った。

背中が破れても、ちっとも痛みはなかった。

ただ、獣みたいな声で僕は泣き叫んだ。

誰のものかもわからない絶望と、母の残り香と、引き算の続きが頭の中でずっと鳴っていた。

 

九百五十八 九百五十一 九百四十四──────

 

***

 

気がつくと、空が白み始めていた。

僕は草むらに倒れていて…制服はぼろぼろで体のどこにも傷はなかった。

河原のコンクリートに巨大な爪で引き裂いたような跡が幾筋も残っていた。

 

ふらつく足で水際に立った。

朝の川面に昨日までとは違う僕が映っている。

真っ白な髪だった。

根元まで、一本残らず。

ああと思った。

 

もう、あの日々は帰ってこないんだ。

 

生え変わっても真っ白なんだろうなぁなどと、つまらないことを考えていたのは心を守るためなのかもしれない。

 

***

 

葬儀は小さく済んだ。

 

喪主の欄に僕は自分の名前を書いた。

 

中学生の僕の後見人になったのは遠縁の叔父だ。

一度も会ったことのない人で、電話口の第一声は「大変だったね」で 二言目は「家はそのまま使っていいから」だった。

 

月に一度生活費の確認の連絡が来る。

それだけの関係だ。

 

でも、僕にはそれで十分だった。

暫くは1人がいい。

 

白髪は「強いショックのせいでしょう」で軽く片付いた。

人間は極度のストレスで短期間のうちに髪が白くなることがあるらしい。

ここまでの短期間にこの変化は異様だと自分でも思うが、個性なんてものがあるんだからあまり気にならないのかもしれない。

 

大人たちは痛ましそうに僕を見て、それ以上は何も聞かなかった。

でもその方が助かる。

聞かれても話せることなんて何もないんだから。

 

ひとりになった家で最初にぶつかった壁は食事だった。

 

なにせ米から砂の味がする。

 

味噌汁は泥水で、パンは粘土だった。

三口ほど頑張ったが、しまいには吐いた。

 

当然わかっていた。

 

僕は台所の棚からインスタントコーヒーの瓶を出した。

昔父が使っていた、賞味期限切れかけのやつだ。

 

あらゆる食べ物を体が拒絶する中、黒くて苦い液体だけがすんなり喉を通った。

あの漫画で喫茶店の老店主が語っていたことをひとつずつ思い出す。

喰種にとってコーヒーは唯一の嗜好品であること。

人の食事は味わわず噛まずに飲み込めば、短い時間なら誤魔化せること。

空腹は…慣れはしないが飼い慣らすことはできること。

漫画の知識で命を繋ぐ日が来るなんて前世の僕は想像もしなかっただろう。

 

空腹が募ると左眼だけが赤黒く染まった。

白目が黒に、瞳が赤に。

 

()()

 

鏡の中のそれと目が合うたび胃の奥で何かが疼いた。

 

***

 

二週間後、僕は中学の制服のまま区役所へ行った。

 

個性の届出……正確には登録内容の変更届だ。

 

発現時期の欄でペンが一度止まった。

 

正直に書けば、どうなるか。

中学二年での発現なんて前例がほとんどない。

きっと検査される。

調べられる。

調べられた末にもしこの食人衝動がバレたら?

 

僕は「四歳」と書いた。

 

当然嘘だ。

……いや、半分は本当かもしれない。

 

あの力はきっと、ずっと僕の中にいた。

風邪をひかない体が、治りの早い擦り傷が、ずっと小さな声で言っていたのだ。

 

僕が気づかなかっただけだ。

 

母の限界に気づかなかったのと同じように。

 

父さんの守るための硬い殻。

 

母さんの食べて治して食べて動かす体。

 

ふたつは僕の中で混ざって、何かが間違って、化け物の形になった。

 

個性名の欄でもう一度ペンが止まった。

この力に名前をつけるならひとつしかない。

 

『グール』

 

窓口の職員は書類を一瞥して 「へえ、複合型ですか。珍しいですね」とだけ言った。

特に何も問題なく提出できた。

ハンコの音がして僕は化け物としてこの社会に正式に登録された。

 

***

 

帰り道 駅前の大型ビジョンに ヒーローのニュースが流れている。

倒壊しかけたビルから誰かが誰かを担ぎ出して群衆が歓声を上げる。

僕は立ち止まってそれを最後まで見ていた。

母を助けるヒーローはいなかった。

当たり前だ。母は事件にも事故にも遭っていない。ビルの下敷きにもなっていない。

家で誰にも気づかれないまま静かに限界を迎えただけだ。

そういう人に手を伸ばせるヒーローはこの派手な世界にはいない。

僕にすらできなかった。

 

だったら。

 

拳を握った。

爪が掌に食い込んで血が滲んで、目で確認する前に塞がった。

 

この体は化け物かもしれない。

きっとこの腹の底には、母の前で鳴った音が生涯住み着いている。

 

それでも……いや、だからこそだ。

倒れてしまう前の誰かに気づける人間になろう。

誰かを助けるヒーローに。

誰かを守れるヒーローに。

 

僕は……金木研はそう決めた。

 

 

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