ヒーローアカデミアの喰種   作:きりっと果実

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第2話『退かない、前に進む』

 

 

葬儀を終えて初めて登校した日のことはよく覚えている。

 

教室の戸を開けた瞬間、ざわめきが途切れた。

この白い髪のせいだ。

誰も、何も聞いてこなかった。

担任が事前に軽く事情を話していたらしい。

母のこと。それから 僕の『個性』のこと。

 

僕は登録を済ませたその足で学校にも届けを出していた。

個性『グール』

発現は四歳。家庭の事情でずっと隠していた…

書類の上ではそういうことになっている。

嘘ってのは悲しみの隣に置くとよく馴染む。

 

大人たちは「そうか…君はいろいろ抱えていたんだな」というような顔で頷いてそれ以上は踏み込んでこなかった。

同級生たちの反応はもっと正直で分かりやすい。

 

まず最初に上履きが隠されなくなった。

代わりに誰も僕の机に近づかなくなったけど。

哀れみが三割、気まずさが三割、残りはたぶん…得体の知れなさだ。

言うなれば恐れ四割か。

 

無個性のはずだった同級生が、母親を亡くした途端に白髪で現れて 「実は個性を隠していた」と言い出したのだから当然の反応だと思う。

僕も反対の彼らの立場なら哀れんだとて気味悪くて近付きたくない。

 

それから、一度だけ上履きを隠していた奴らの一人と昇降口で二人きりになったことがある。

彼は僕と目が合って…目を逸らして何か言いかけて、結局逃げるように行ってしまった。

 

素直に謝られなくてよかったと思った。

許す元気も怒る勇気も、あの頃の僕には残っていなかったから。

以前の僕なら平気なふりをしただろう。

今の僕は平気なふりをする必要がなかった。

だって本当に平気だったから。

あの地獄の追体験を越えた後だと、たかだか学生の悪意なんてそよ風みたいなものだ。

 

……どちらかと言えば平気になってしまったことのほうが少しだけ怖かった。

心まで化け物になりたくは無い。

 

***

 

放課後と休日は河川敷に通った。

 

あの夜に僕が抉った護岸は『個性絡みの器物損壊』として処理されて、今は真新しいコンクリートで塞がれている。

当然犯人()は見つかっていない。

そのコンクリートの継ぎ目の前で僕は自分の力の手綱を握ることに決めた。

 

せっかくここで生まれた力だ。

どうせならここで飼い慣らす。

 

訓練初日の夜のことは忘れられない。

試しに赫子の先で河原の石を摘んだら石は苦もなく砕けた。

豆腐を崩すよりずっと簡単に。

 

僕はしばらく掌の上に落ちた破片を見ていた。

この力は…人に向けた瞬間に終わりだ。

僕がじゃない。向けられた誰かが終わる。

……ま、社会的にという意味なら僕も終わるんだけど。

 

だからその夜、制御の訓練より先に僕は「絶対にやらないことのリスト」を作った。

人に向けない。

街で出さない。

興奮している時は出さない。

別に紙に書いたわけじゃない。

書いた紙が誰かに読まれるかもしれないから。

ただひたすら脳に刻んだ。

 

訓練も、最初の頃はひどいものだった。

 

背中から赫子を出すだけで息が上がるし、四本の触手はばらばらの方向にうねって 三十秒も保たずに霧散する。

あの夜にあそこまで周囲に傷を残せたのは、暴走状態にあったから…って感じだと思う。

 

赫子の一本一本に言うことを聞かせるのにひと月かかった。

四本同時に動かせるようになるのに更にもうひと月。

その上、それぞれに繊細かつ別々の動きをさせるのにもうひと月だ。

これをひと月で習得できたのは才能あるんじゃないか?

 

しかし維持の方はまた別の問題だった。

父さんの個性は維持に集中のいる個性だったらしい。

その血なのか、僕の赫子も長くは保たない。

出力だけは化け物じみているのに燃費と持久力は人間のまま。

 

よく言えば短期決戦型。

悪く言えば……体力不足?

我ながら使いどころの難しい個性だと思う。

 

『個性ってのは派手さじゃない。使いどころだ』

 

父さんの声を脳内で再生しながら、僕は何度も夜の川面を叩いた。

赫子で叩くのが地面でなく水面ならば跡は残らない。

しかしコンクリートを抉れば当然ニュースになる。

僕のような化け物の訓練は静かにやるに限る。

堂々と訓練できる施設でもあればいいが…今はない。

 

やがて冬が来て吐く息が白くなる頃、赫子は一分程度は保つようになった。

春が来て学年が上がる頃には三分に。

 

訓練の最中、一度だけ冷や汗をかいたことがある。

深夜の河川敷で犬の散歩をしている人影がふいに土手へ現れたのだ。

赫子を消すのは間に合った。ただ心臓はしばらく鳴り止まなかった。

見られていたらどうなっていた?

 

公共の場で個性を好き勝手使っているのだ。

…通報、調査、もしかしたら調査するうちにこの欲求にも気付かれるかもしれない。

考えるだけで左眼の奥が冷えた。

それ以来訓練は雨の夜と決めた。

幸い、人が近くを歩いていてもただでさえ見えづらい場所だ。

傘をさしていればさらに見えづらいし、訓練の際に出る音は雨音がかき消してくれる。

雨が激しければなおのこと都合がいい。

ぼくが体調を崩すことは滅多にないから。

化け物の習い事には天気の悪い日がちょうどいい。

 

赫子の方はある程度御せたが、赫眼のほうは厄介だった。

なにせ空腹と感情の波で左眼が勝手に染まる。

鏡の前で呼吸を数えて戻す練習をした。

練習するうちに気づいたが、千から七を引いていくと不思議と早く戻っていく。

あの数字は痛みの記憶のはずなのに…いつの間にか僕を落ち着かせるための数字になっていた。

 

痛みと言えば、もうひとつわかったことがある。

訓練でどれだけ転んでも擦り剝いても、大きな傷でも翌朝には跡ひとつ残らなかった。

母さんの個性の、その先にある超人的な回復力。

ありがたいはずのそれを鏡で確かめるたび胸の奥が軋んだ。

母さんは一膳のごはんでようやく治していたのに。

僕はその母さんを削って盛られた山盛りのご飯でこんな体になったのに。

 

***

 

訓練よりも難しかったのは食事だ。

コーヒーだけで越せたのは最初のふた月だけだった。

流石になにか対策を練らなければいけない。

コーヒーの次の段階として人間の食事を()()練習をした。

味わわない。

噛まない。

舌に触れさせず喉の奥へ直接落とす。

 

実質給食の時間を乗り切るための技術みたいなもので、栄養にはほとんどならない。

体は数時間後に全部押し返してくる。

それでも普通に食べる金木くんを演じるためには必要な技術だった。

演じる相手なんてもう家にはいないのに僕はまだ誤魔化している。

学校というのは食事すらも見られる場所なのだ。

 

すごく煩わしいけど、こんなことも出来ないならヒーローなんて目指すべきじゃない。

僕が人であろうとするのは自分のためじゃない。

僕に助けられる誰かに、安心して欲しいから。

給食の時間は毎日が実技試験みたいなものだった。

 

咀嚼の演技をして不味い牛乳で流し込んで、残った分は「あんまり食欲なくて」で片付ける。

 

「金木って少食だよなあ…それで足りんの?」

「ああ、うん。体質でさ」

 

会話はだいたいそんな感じで終わる。

この学校に僕の個性の登録内容を詳しく知っている生徒はいない。

複合型ということだけが曖昧に伝わっている。

食事がこの有様だと知られたら、きっと体質の話では済まなくなる。

登録に書いていないことまで芋づる式で暴かれかねない。

 

だから僕は 今日も味のしない何かを飲み込んで 「ごちそうさま」と手を合わせる。

嘘の中でいちばん心身ともにキツイ嘘だった。

 

動物の肉は少しだけましだった。

不味い。泥を煮しめたような不味さだ。

それでも体が拒絶して押し返されるまでの時間が長くて、ほんのわずかだが体に残る感覚があった。

東京喰種でそんな描写はなかった気がするけど……多分母の個性の影響なのかもしれない。

手を加えていない、ナマの命に近ければ多少は栄養を取れるようだ。

人間を食べている訳でもないのに、心なしか赫子の調子がいい気も…まぁほぼ気の所為みたいなものだけど。

 

スーパーの見切り品の鶏肉を味付けもせず飲み下す夜を重ねて、僕はそれを「食事」と呼ぶことにした。

一度だけ母さんのカレーを作ってみた夜がある。

作り方は見ていたから覚えている。

じゃがいもは大きめ。

隠し味に少しの蜂蜜。

父さんがいた頃はインスタントコーヒーなんかも少し入れていた。

 

台所に立ちのぼった匂いはあの時の記憶のままだった。

日曜の夕方の、世界が完成していた(しあわせだった)頃の匂いだ。

一口すくって舌に載せた瞬間それは泥に変わった。

 

「あぁ……クソっ…!」

 

わかっていたことだ。わかっていて作った。

鍋いっぱいのカレーは…一口も食べられないまま処分して懐かしい匂いだけが夜まで台所に残った。

僕はその匂いのそばでコーヒーを飲んだ。

それが僕にできる母さんの味の楽しみ方だった。

 

しかし誤魔化しも一年ともたなかった。

中三の夏に限界は静かに来た。

すぐに消えていた擦り傷が、消えるまでに丸一日かかるようになった。

赫子がまた一分で霧散するようになった。

左眼が、いくら数を数えても戻らない朝があった。

鏡の中の僕は頬がこけてそれでも目だけが妙に据わっている。

 

飢えそのものはどうにか抑えられた。

頭の中に居座る空腹を別の部屋に閉じ込めて鍵をかけるような感覚。

とっくに覚えていた。

でももうそんな問題じゃない。

心より先に体のほうが限界を訴えていた。

 

このままでは雄英どころか日常が保たない。

わかっていた。

僕という生き物に本当は何が必要なのか。

ずっとわかっていて先送りにしていた。

 

明日考えよう。期末が終わったら。夏休みに入ったら。

……「いつか」を数えて母さんを喪った僕が、また同じ数え方をしている。

 

そのことに気づいた夜僕は前世の記憶を頼りにひとつの場所を調べ始めた。

 

***

 

県境に電波の届かない深い森がある。

前世で聞いたのと似たような場所が当然この世界にもあった。

個性があっても人間社会に変わりはない。

()()()()()()()()も、日本中探せば大勢いる。

その森がどういう場所として噂されているのかも、前世と同じだった。

 

夏休みの初日、僕はパーカーのフードで顔を隠して始発の電車に乗った。

必要なものだけを詰めた鞄は帰り道のほうが重くなるだろうな。

そのことを考えないように窓の外を流れる山ばかり見ていた。

景色を眺めるのは好きだ。

自然の雄大さに心を預けている間は大抵の悩みは忘れられる。

 

森は静かだった。

蝉の声が奥へ進むほど薄くなってある場所からふつりと消えた。

もう怖いものなんてないと思っていたけど、こういう空気はやっぱり苦手だ。

 

歩いていくうちに、ようやく…見つけた。

彼…彼女…その人は木々の奥で長いあいだひとりだった。

誰にも見つけてもらえないまま。

僕は膝をついて手を合わせた。

 

「……遅くなってごめんなさい」

 

この人の名前も知らない。

どんな人生を送って何に磨り減らされて、どんな足取りでここまで歩いてきたのかも 知らない。

ただこの人にもあったんだろうと思った。

 

僕らで言う灯りもつけない台所が。

 

いつの間にか小さくなっていく茶碗が。

 

「大丈夫」と笑ってみせた瞬間が。

 

そして気づいてくれる人が最後までいなかったのだ。

世間はヒーローで溢れているのに。

 

……僕は決めてきたことを心の中でもう一度なぞった。

殺さない。

奪わない。

生きている人にこの飢えを向けることは何があってもしない。

もう帰れなくなった人にだけ手を合わせて分けてもらう。

全部は頂かない。

野生の動物にやられたみたいにできるだけ自然に少しだけ。

それが化け物になった僕が引いたたった一本の線だ。

別に線を引いたからといって、許されるなんて思っていない。

 

だからただ思う。

 

ごめんなさい。

 

ごめんなさい。

 

……いただきます。

 

***

 

山を降りて麓の公衆電話から警察に場所だけを伝えた。

名前は言わずに匿名での通報を終えて、受話器を置いた。

せめて家族の元に帰れるように。

どこかで待っている誰かの「いつか」がこれ以上増えないように。

電話を切った手が震えていた。

 

家に着いたのは夜だった。

台所で僕は長いあいだ動けなかった。

手を合わせたまま、「いただきます」が今度は声にならなかった。

個人的に、いただきますとごめんなさいはよく似ていると思う。

どちらも頭を下げながら言う言葉だ。

 

……一口食べて涙が出たのは不味かったからじゃない。

むしろその逆だった。

体の隅々に灯りがともるみたいに力が満ちていくのがわかってしまったから。

僕はその夜、声を殺して泣いてそれから生まれて初めて会ったこともない人に誓った。

 

あなたの分まで生きますなんて都合のいいことは言いません。

 

ただ、あなたのような人に間に合うヒーローになります。

 

あの森へ続く道のずっと手前で、手を引けるように。

 

***

 

二学期になると進路調査票が配られた。

第一志望の欄を見つめていると担任が机の横に立った。

 

「金木は……あーその、なんだ。無理はするなよ。今はいろんな支援制度もあるからな」

「雄英に行きます」

 

担任は数秒固まった。

 

「……まさかヒーロー科か?」

「はい」

「お前…その、言いにくいんだが内申の個性評価はほとんど白紙だぞ?二年の秋まで無個性で通ってたんだから実技の実績ってものが」

「当日の実技試験で足りない分まで取ります」

 

自分でも驚くくらい静かな声が出た。

担任は何か言いかけてやめて、「親御さんは」と言いかけてそれもやめた。

 

僕の書類の保護者欄を思い出したのだろう。

 

「……よし、わかった。好きにしなさい」

 

第一志望 雄英高校 ヒーロー科。

 

ペン先は一度も止まらなかった。

進路調査に伴う三者面談は叔父が電話で済ませた。

 

「本人がそう言うならいいんじゃないですか」

 

スピーカー越しの声はまるで明日の天気の話でもしているみたいで。

担任は気まずそうに僕を見て、僕は「すみません、助かります」と頭を下げた。

これは本心だった。

距離のある大人は僕を詮索をしない。

詮索されないことが今の僕には何よりありがたい。

本当はもう、自分(喰種)を受け入れている。

あとは、ヒーローに相応しい自分になるだけだ。

 

家に帰って市立図書館で借りてきた受験情報誌を開く。

 

『目指せヒーロー科! 名門校受験ガイド』

 

前世一般人の僕はヒーローの受験事情なんて何ひとつ知らない。

ヒーロー目指したのだって最近なんだから当然だ。

友達もいない僕に頼れるのはこういう地道な情報収集だけだった。

雄英の実技試験は毎年内容が変わること。

対人戦ではなく大規模な演習形式であること。

国内屈指の学校なのもあって、筆記も当たり前に難しいこと。

 

その倍率、およそ三百倍。

 

数字を眺めて僕は静かにページを閉じた。

三百倍。

飢える中、千から七を引き続けるよりはずっと簡単そうじゃないか。

 

受験の情報収集のついでにヒーローの映像もよく観るようになった。

派手な看板ヒーローより目で追ってしまうのは救助系だ。

瓦礫の隙間に潜り込むヒーロー。

夜通し山で行方不明者を探すヒーロー。

瓦礫を吸い込み、下敷きになっている人を助けるヒーロー。

その夜も、画面の中で泥だらけのヒーローが毛布ごと誰かを抱えて歩いていた。

 

ああいう手が、あの台所に、あの森に、届いたなら。

 

僕は録画を止めてノートの隅に小さくメモを取った。

目指す場所は派手な最前線じゃなくていい。

誰かの「いつか」に 間に合う位置だ。

 

***

 

受験までの半年は思っていたより淡々と過ぎた。

訓練の内容を試験向けの内容に組み替えた。

 

一撃の重さよりも展開の速さ。

破壊より制圧。

赫子は五分まで保つようになって出し入れは呼吸と同じ速さになった。

高いところから飛び降りて、赫子を脚代わりに音もなく着地する練習は我ながら様になってきたと思う。

 

筆記の勉強は苦ではなかった。

前世で一度通った範囲だ。

人生二週目の数少ない実利とも言える。

それを抜きにしてもこの体は優秀らしく、どんな文もスルスルと入ってくる。

 

模試の判定は筆記だけならA。

実技は試験の内容がわからなきゃ判定のしようがない。

願書の保護者欄には叔父の名前を書いた。

 

書き慣れない字面に一瞬だけ父さんの名前を思い浮かべてやめた。

もう、前に進むんだ。

後ろは振り向かない。

後ろには退かない。

ただ前に進む。

誰かのためのヒーローになるために。

 

年が明けて試験までの最後のひと月は仕上げに使った。

雪の日の河川敷は本当に誰も来ない。

白い息と、白い髪と、赤黒い赫子。

音を殺して雪の上を動き回る練習は存外いい総仕上げにもなった。

そこら中についた足跡は朝までに新しい雪が消してくれる。

 

冷蔵庫には見切り品の鶏肉とコーヒーの粉。

それから誰にも見せられない包みがひとつ。

一度満ちればこの体は驚くほど長く保つ。

概ね原作の喰種と大差ないと思う。

原作の知識どおりであることに安心する日が来るなんてかつての僕は思いもしなかっただろう。

今のところ森へ行ったのはあの一度きりで済んでいる。

 

秋には母さんの一周忌があった。

法要と呼べるほどのものはなくて、僕と電話の向こうの叔父だけの命日だった。

 

墓前に湯気の立つコーヒーを紙コップで供えた。

母さんはコーヒーの飲めない人だったけど今の僕が一番美味しいと思えるものはこれしかない。

どちらにせよ父さんの好きな物は好きな人だったし、喜んでくれる…と思う。

 

「母さん。…僕、雄英受けるよ」

 

墓石は当たり前に何も言わない。

 

「……見ててって言いたいけどあんまり見られると困る場面もあるかもだし、ちょっとだけ…いや、半分くらい見てて」

 

我ながら妙な報告だ。

でも母さんならたぶん笑ってくれる。

 

ふふ おかしいこと言うのねって。

 

父さんは…言っても聞かないだろうなぁ。

何としてでも丸々全部映像に残そうとしたがるから。

 

帰り道墓地の出口で振り返って深く頭を下げた。

行ってきますの代わりに。

 

大晦日には二人分の年越しそばを作って一人分を仏壇に供えた。

まともに食べられない僕は、湯気だけもらった。

 

母さんの茶碗と父さんの茶碗は棚の一番上に並べてしまってある。

捨てられなくて使えなくて…ただときどき埃だけ払っている。

いつまでも過去に縛られる訳には行かないけど、忘れたい訳じゃないんだ。

 

「母さん、父さん」

 

遺影は二つとも、あの時のように笑顔で僕を見る。

 

「僕ヒーローになるよ」

 

返事の代わりに部屋の隅で古い石油ストーブがコトッと鳴いた。

 

「…きっと立派なヒーローになるから、そっちで待っていて」

 

それで十分だった。

 

***

 

試験当日の朝は思いのほかよく晴れていた。

鏡の前で制服の襟を直す。

白い髪は染めないし隠さない。

これは僕が生き延びた印で、母さんに間に合わなかった罰で、それから……もう誰の「いつか」も待たないと決めた決意の証だ。

 

昨夜のうちに受験票と筆記用具は三度確認した。

今自分がどんな体調なのかもう自分でだいたいわかる。

…あと二ヶ月は喰わなくても充分に動ける。

 

仏壇の遺影を二つ、順番に見て手を合わせた。

言葉はあの時に言った分で足りている。

コーヒーを一杯だけ飲んで、

 

「…行ってきます!」

 

家の鍵を閉めた。

返事のない玄関に言うのももう慣れた。

慣れたと言えるようになるまでがそれはもう長かったが。

 

電車を乗り継いで坂を上がっていく。

同じ方向へ歩く見知らぬ制服の群れ。

頭から角の生えた子。

肩に翼をたたんだ子。

歩くたび足元がわずかに発光する子。

 

みんな、生まれたときから個性と一緒に育ってきたって顔をしている。

それを羨ましいとは思わない。

 

僕の個性は十年遅れてきて…一番大事なものを持っていった。

それでも発現したからには使いどころを決めるのは僕だ。

 

雄英高校の門は想像の三倍大きかった。

多分体の大きい異形型とかに配慮しているんだろう。

門柱の向こうにガラス張りの校舎が冬の空を映している。

行き交う受験生の波。

緊張した顔、自信のある顔、泣きそうな顔。

 

みんなここに人生を懸けに来ている。

僕は一度だけ立ち止まって目を閉じた。

 

千から七を引く。

 

九百九十三。

 

大丈夫。

 

九百八十六。

 

まだ数えられる。

 

九百七十九。

 

まだ歩ける。

 

……さあ。

 

この個性の使いどころを探しに行こう。

 

僕は…金木研は、化け物の体でヒーローの門をくぐった。

 

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