幕間 夜番の二人
リカリスの町を出て、二日目の夜。
俺たちは岩山の陰に野営地を作った。
一日中歩き続けたせいだろう。エリスは夕食を食べ終えるなり、毛布にくるまって眠ってしまった。
俺も眠かった。
夜番はルイジェルドとコジローが引き受けてくれるらしい。
ありがたい話である。
昨日の今日で、頭も体も疲れ切っている。こういう時ぐらい、大人に甘えさせてもらおう。
「おやすみなさい」
「ああ」
「よく休め、小僧」
「はい……」
そう返したところまでは覚えている。
その後のことは、知らない。
◇
焚き火が小さく爆ぜた。
夜の魔大陸は静かだった。
時折、遠くから魔物の声が響いてくるが、近づいてくる気配はない。
ルイジェルドは火の傍らに座り、暗闇の向こうを見ていた。
少し離れた場所では、エリスとルーデウスが眠っている。
エリスは毛布を半分蹴飛ばしていた。
ルイジェルドが立ち上がり、毛布を掛け直す。
「世話の焼ける娘だ」
そう呟いたところで、背後から足音がした。
「こちらに異状はない」
コジローだった。
野営地の周囲を一通り見てきたらしい。
「そうか」
「少々風が強い程度よ。今宵は静かなものだ」
コジローは焚き火の向かいへ腰を下ろした。
ルイジェルドが水袋を差し出す。
「飲むか」
「いただこう」
受け取ったコジローが一口飲み、返す。
それきり、しばらく言葉はなかった。
二人とも沈黙を苦にする性質ではない。
焚き火の音だけが続く。
やがて、ルイジェルドが口を開いた。
「コジロー」
「何かな」
「お前は、俺が怖くないのか」
コジローが僅かに目を細めた。
「恐ろしいとも」
意外な返事だったのだろう。
ルイジェルドがコジローを見る。
「そなたほどの武人を敵に回すとなれば、恐ろしいに決まっておろう」
「そういう意味ではない」
「承知している」
コジローは薄く笑った。
焚き火の向こうに、ルイジェルドの赤い宝石が揺らめいて見える。
「昨日の町を見ただろう」
「ああ」
「俺の髪を見ただけで、皆が逃げた」
「そうであったな」
「お前は違った」
コジローは答えず、しばし火を眺めていた。
「私は、髪の色では人を見ぬよ」
「……」
「初めて会った夜、そなたの傍らには眠る童が二人いた。傷一つなく、夜気に晒されぬよう守られていた」
ルイジェルドが黙って聞いている。
「それに、今日までそなたが何をしてきたかも見ている」
コジローは火へ細い枝を一本放り込んだ。
「ならば、今さら恐れる理由もあるまい」
「俺がスペルド族でもか」
「それがそなたの振る舞いを変えるのか?」
「変わらん」
「ならば、私にとっても同じことよ」
ルイジェルドはしばらくコジローを見ていた。
やがて、前へ向き直る。
「……そうか」
「うむ」
再び静かになる。
しばらくして、今度はルイジェルドが眠っているエリスへ目を向けた。
「一つ、聞きたい」
「何かな」
「赤蛇と戦った時だ」
「ふむ」
「あの時なぜお前は剣を抜かなかった?」
「ああ」
「お前なら、あれを斬れただろう」
コジローは否定しなかった。
「なぜ戦わなかった」
「必要がなかったからよ」
「必要が?」
「そなたがおった」
即答だった。
ルイジェルドの眉が僅かに動く。
「俺を試していたのか?」
「生憎と、そこまで性根は悪くない」
コジローの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「お嬢には、実際に剣を振るう場が必要であろう。
「だが、万が一ということもある」
「左様」
そこで初めて、コジローがルイジェルドを見る。
「ゆえに、そなたに任せた」
短い言葉だった。
「お嬢が危うくなれば、そなたが守る。それでも間に合わぬなら、私が斬る」
「……」
「死なせるつもりは毛頭ない。されど、危うさを全て取り除いてしまえば、得られるものまで失う」
ルイジェルドは何も言わなかった。
赤蛇との戦いを思い出しているのかもしれない。
しばらくして、低い声で言った。
「俺が守れると判断したのか」
「さて」
コジローは笑う。
「そなたほどの武人を前にして、それを疑う方が失礼であろう?」
ルイジェルドの口元が僅かに緩んだ。
「変な男だな、お前は」
「よく言われる」
「そうなのか?」
「いや。今のは適当に申した」
「……」
ルイジェルドがコジローを見る。
コジローは涼しい顔で焚き火を眺めている。
「フッ……お前も冗談を言うのだな」
「たまにはな」
今度はルイジェルドが小さく息を吐いた。
呆れたのか、笑ったのか。
どちらとも取れる。
やがて、ルイジェルドは再び真面目な顔へ戻った。
「お前は、どこまで一緒に来るつもりだ」
「お嬢が故郷へ帰るまで」
「エリスを?」
「うむ」
コジローは迷わなかった。
「グレイラット家には一宿一飯の恩義がある。あの二人を無事に送り届けて、ようやく借りを返したと言えよう」
「それだけか?」
コジローがルイジェルドを見る。
「何かな」
「昨日、お前も手を重ねた」
「……」
「それだけの相手に、あんなことをするのかと思った」
今度はコジローが黙る番だった。
焚き火が一つ、音を立てて崩れた。
少し離れたところで、エリスが寝返りを打つ。
その腕が隣で眠るルーデウスの顔へ落ちた。
「むぐっ……」
ルーデウスが呻く。
しかし、起きない。
エリスも起きない。
二人はそのまま眠り続けている。
コジローはそれを眺め、僅かに笑った。
「さて」
いつもの返事だった。
「初めは、恩を返すだけのつもりであったかもしれぬな」
「今は違うのか」
「道半ばよ」
コジローはそれ以上を語らなかった。
「途中で道連れを置いていく理由もあるまい」
「そうか」
「それに──」
コジローが眠っているルーデウスを見る。
「目を離せば、町を一つ沈めようとする危うい小僧がおるのでな」
「我らはともかく、いくら覚悟があろうと、あの小僧にその道を歩ませるにはまだ早かろう」
「……」
ルイジェルドは黙った。
否定しようとしたのかもしれない。
だが、昨日の出来事を思い返したのだろう。
「……否定できんな」
「であろう?」
二人の間に、ほんの僅かな笑いが落ちた。
しばらくして、ルイジェルドが立ち上がる。
「コジロー」
「何かな」
「なら、今度は俺がお前に任せる」
コジローが僅かに目を細めた。
「それは重畳」
それだけだった。
ルイジェルドは旅路の先へ。
コジローは野営地を囲む闇へ。
二人はそれぞれ、別の方向へ目を向けた。
二人の間では、焚き火が静かに燃えていた。
こうしてひと時の夜の帳は静かに閉じていった