それぞれの背中
二週間の道のりは、思ったより長く、思ったより短かった。
毎日同じような荒野を歩いているようで、気づけば地面の色が変わり、遠くに人工的な灯りが見えるようになっている。運搬用のトカゲも、町の匂いを嗅ぎつけたのか、心なしか足取りが軽い。俺たちは無事、次の町の門をくぐった。
「止まれ。何用だ」
「旅の冒険者です」
俺がそう答えると、門番の
理由はわかっている。ルイジェルドの緑の髪がないからだ。
スペルド族といえば、エメラルドグリーンの髪。それさえ見えなければ、この大陸ではただの強面の男でしかない。ヤクザにしか見えない強面ではあるが、幸い、この大陸にはもっと物騒な顔をした連中がいくらでもいる。
門番はルイジェルドを一瞥し、次に俺とエリス、最後にコジローで視線を止めた。
それだけで、何も言わず道を空ける。
拍子抜けするほど、あっさりしたものだった。
隣で、ルイジェルドが小さく息を吐いた。
安堵、というほど大げさなものじゃない。でも、俺には、そう見えた。
◇
町に着いて早々、俺たちはギルドで依頼を受けた。
カードを差し出すと、受付はそれを一瞥し、いつも通りの手続きを進める。何か言われるかと身構えていたが、特に気にする素振りもなかった。
少なくとも、リカリスの一件で資格を取り上げられてはいないらしい。
それからの日々は、驚くほど静かに過ぎていった。
町に着き、依頼を受け、金を稼ぎ、次の町へ向かう。同じ流れを繰り返すうちに、いつの間にか、それが当たり前の形になっていった。
その中で、エリスが魔神語を習い始めた。
教師は俺とルイジェルドの二人。教科書はない。あるのは、俺たちの記憶と彼女の耳だけだ。
◇
魔神語の授業は、教室ではなく、生活の中で行われた。
「これは?」
エリスが指差したのは、その日の獲物だった
「肉、です。この大陸だと、それだけでも通じます」
「肉」
「はい」
「じゃあ、不味いは?」
真っ先にそれを聞くあたり、実に彼女らしい。
「教えてどうするんですか」
「毎日使うもの!」
理屈は通っている気がした。
渋々教えると、エリスはその場で三回繰り返し、覚えた。
一方、ルイジェルドの教え方は、また違った。
「止まれ、伏せろ、離れろ。これだけは今日中に覚えろ」
「なんで?」
「命に関わるからだ」
いつもの調子でそう言われると、冗談には聞こえない。
エリスも神妙な顔で頷き、その三つだけは、その日のうちに完璧な発音になっていた。
武器の名前、魔物の名前、食べ物の名前。
役に立つとエリスが判断した言葉だけが、恐ろしい速さで積み上がっていく。
逆に、丁寧な言い回しや挨拶は、いつまで経っても覚えようとしない。
「そういうのは、ルーデウスが喋ればいいじゃない」
「僕、通訳じゃないんですけど」
結局、丁寧な受け答えが必要な場面では、俺が矢面に立つことになった。
彼女の頭の良さは、机の上より、剣の上、あるいは損得勘定の上でこそ発揮される。
そのことを、俺は町をいくつか越えるうちに、嫌というほど思い知ることになる。
◇
ルイジェルドの稽古は、今日も無言で始まった。
ルイジェルドが構え、踏み込み、石突きが土を噛む。エリスは何度も転がされ、何度も喉元に穂先を突きつけられる。
「わかったか」
「……もう一回!」
わからないなら次。わかっても、また次。そういう稽古だった。
最初のうちは、俺もその輪に交ざっていた。だが、すぐに気づいた。
ついていけない。
エリスの動きの根っこには、見覚えのある型がある。ギレーヌに叩き込まれた剣の形が、今もあちこちに残っている。
だが、その上に積み重なっていくものは、明らかに違う。
ルイジェルドの槍を受け、避け、時に受けきれずに転がされる中で、エリスは何かを掴んでいく。言葉にできない何かを、身体でだ。
「わかったわ」
彼女がそう言うたび、俺は少しだけ置いていかれる。
基礎は同じでも、その先の伸び方は、まるで別物だった。
◇
その夜、片付けを終えたところで、俺はルイジェルドに耳打ちした。
「今夜、少しだけ稽古をつけてもらえませんか。エリスには内緒で」
なぜ内緒なのか、聞かれずに済んだのはありがたい。
ルイジェルドは黙って頷くと、焚き火から少し離れた岩場まで先に歩き出した。
エリスは焚き火のそばに残っていた。何をするでもなく座っているように見えたが、深くは考えないことにする。
結果は、聞くまでもない。
完敗だった。
魔術で作った足場も、目くらましも、何一つ通じなかった。気づけば喉元に石突きが突きつけられていた。
「なぜ、あそこで前に出た」
ルイジェルドの第一声は、慰めでも講評でもなかった。
「近距離に入られた時の対策を、試しておきたかったので」
「試した結果がこれか」
「はい」
「なら、次からは試すな」
身も蓋もない言葉に、苦笑いするしかなかった。
「自分から間合いに踏み込む必要はない。お前の武器は、離れて使うためのものだ」
「でも、いつも離れていられるとは限りません」
「それはそうだ」
ルイジェルドは少し黙った。何かを思い出しているような間だった。
「少しだけ、そういう戦い方をする男を見たことがある」
「そういう戦い方、というのは」
「魔術を絡めた接近戦だ。俺には縁のない話だがな」
「誰ですか、それ」
「ペルギウスと名乗っていた」
「あの、空中城塞の……?」
「ああ」
問われるまま、ルイジェルドは見たものを語った。
前龍門、後龍門とかいう召喚。前が敵の魔力を絶えず吸い上げ、後ろがそれを己の力に変える、というふうに見えたこと。本人は魔力爪とやらで斬りかかっていたこと。
「参考にはならんだろうがな」
そう前置きしながら、それでも話してくれるあたり、律儀な人だ。
俺は前世でも今世でも、そんな戦い方を、まともに見たことがない。
どこかに、俺の知らない形があるのかもしれない。
今すぐには、わからないが。
「もっとも」
ルイジェルドは、ふと付け加えた。
「魔術そのものに不足はない。足りんのは、この距離での戦い方だ」
「……それ、さっきの『次からは試すな』と、矛盾してません?」
「矛盾はしていない。今のお前が、そこまでして近くで戦う必要はない」
納得できるような、できないような理屈だった。
「歳を考えろ」
黙り込んだ俺の頭に、大きな手が乗った。
「本格的に強くなるのは、これからだ」
それだけ言って、ルイジェルドは踵を返した。
慰めにしては、ずいぶん不器用な言い方だった。
でも、悪い気はしなかった。
◇
「先に戻っていろ」
水袋の水で顔を洗ってから行く、とルイジェルドは岩場に残った。俺は一人で野営地へ向かう。
焚き火の明かりが見えてくる。
エリスは、まだそこにいた。
振り下ろし、止め、また構え直す。素振りを繰り返しているらしい。眠れないのか、意地になっているのか、俺には判断がつかない。
その脇を、コジローが通りかかった。野営地の周りをひと回りしてきたところなのだろう。
「エリス」
「……コジロー?」
彼が自分から声をかけることは、あまりない。エリスも、少し身構えるように動きを止めた。
「今の一太刀、終わりが早い」
それだけ言うと、コジローはまた歩き出した。
「え、ちょっと、どういう──」
「さてな」
振り返らずに、彼はそう返しただけだった。
エリスは剣を睨みつけ、それからもう一度構え直す。答えを教わったわけではないのだろう。それでも彼女は、何かを探すように、剣を振り続けていた。
俺は、声をかけずにいた。
今、俺が口を挟むことじゃない。
◇
焚き火のそばに戻ってきたルイジェルドが、そのまま腰を下ろす。
今夜の夜番は、ルイジェルドとコジローらしい。
だったら、俺がすることは一つしかない。
毛布にくるまりながら、今日一日を思い返す。
真っ先に「不味い」を覚えたエリス。無言の稽古の中で、何かを掴みかけているエリス。不器用な言葉をくれたルイジェルド。短く一言だけ残して、また闇の中へ戻っていったコジロー。
エリスは、エリスなりに前へ進んでいる。
だったら、俺にも──俺なりのやり方が、必要なのかもしれない。
まだわからない。
わからないが、今夜のところは、それでいいことにしよう。
考えすぎて眠れなくなるのは、前世からの悪い癖だ。
俺は目を閉じた。
外では、焚き火が小さく爆ぜる音がしていた。