呼び名の向こう側
旅立ってから、半年近い時間が経ったころだった。荒野の色は少しずつ変わり、時折、緑と呼べる程度の低木が目につくようになっている。
そんなある日の昼、街道の先に、一人の男が立ちはだかった。
旅慣れた装いに、腰の剣。それだけで、只者ではないと知れた。
「待たれよ!」
男は片手を突き出し、俺たちの足を止めさせた。
反射的に、掌へ魔力を集めかけた。物取りか、あるいは何かの恨みかと、身構えたのだ。
「北神カールマンの直弟子、孔雀剣のオーベール。その三番弟子、ロドリゲスと申す者!」
名乗りは、いやに大仰だった。
男の視線は、槍を携えたルイジェルドに向けられていた。あの立ち姿に、何か感じるものがあったらしい。
「その物腰、ただの旅人とは思えぬ。一手、お相手願いたい!」
どうやら、そういう用件ではなかったらしい。集めかけた魔力を、そっと霧散させる。
「どうしましょうか」
俺が小声で聞くと、ルイジェルドは、どこか懐かしむような顔をした。
「懐かしいものだな」
魔大陸というのは、腕に自信のある者たちにとって格好の稽古場になっているらしい。生息する魔物の質からして違う。それを相手取る冒険者たちも、自然、他所より腕が立つ。だからこそ、力試しの旅にはうってつけの場所なのだと、以前ルイジェルドが言っていたのを思い出す。
強さそのものが目的になる、という感覚は、俺にはまだよくわからない。
「受けるかどうかは、お前が決めていい」
「僕としては、無理に受ける理由もない気がしますけど……ルイジェルドさんは、やりたいんですか?」
「多少はな」
簡潔な返事だった。それで十分だった。
「──受けましょう」
「そうか」
まんざらでもなさそうな声だった。
だったら、最初から条件を決めておくべきだろう。
「わかりました。ただし、受けるとして、いくつか条件を付けさせてください」
「どんな条件だ」
「まず、殺し合いはなしでお願いします。決着がついたらそこで終わり。命までは取らない、ということで」
ロドリゲスは面食らったような顔をしたが、頷いた。
「それと、こちらの名乗りは、勝負がついた後にさせてください」
「それは、また妙な話だな」
「事情があるんです」
突っ込まれたら困るので、それだけ答えておく。
「最後に、勝っても負けても、恨みや揉め事を残さないでください」
「異存はない。むしろ、当然のことだ」
落ち着いた声だった。
妙に清々しい男だ。
少し離れた場所で、エリスが目を輝かせていた。見物する気満々らしい。
コジローは、少し離れた岩の上に腰を下ろし、静かに眺めている。
◇
決闘が始まった。
ロドリゲスの剣は、悪くなかった。踏み込みも、振りも、素人目にもわかるほど鍛え上げられている。
だが、相手が悪かった。
ルイジェルドは、ロドリゲスの剣をいなし、時に受け、時にみずから懐へ踏み込みながら、終始、主導権を渡さなかった。
ロドリゲスの太刀筋は、決して的外れではない。力もある、速さもある。だが、その一つひとつが本当に危険な形になる前に、必ず先んじて潰されている。
全力で来い、と言わんばかりに間合いを与えながら、その全力が牙を剥く一瞬だけを、確実に刈り取っていく。
ルイジェルドの槍は、そういう動き方をしていた。
距離を取り直せば、深追いはしない。もう一度踏み込めるだけの間合いを、あえて残してやる。だが踏み込めば、次はさっきより早く潰される。
それを繰り返すうちに、ロドリゲスの息だけが、次第に上がっていった。
覚えのある感覚だった。
少し前、俺自身がルイジェルドに挑んで味わったのと、同じものだ。こちらが何かを始めたはずなのに、終わる頃には、いつも向こうの形になっている。
やがて、ロドリゲスの剣筋は完全に見切られ、気づけば彼は地面に片膝をつき、喉元に穂先を突きつけられていた。
「……参った」
悔しさよりも、驚きが先に立つ声だった。
「……見事、としか言いようがない。まだまだ、井の中の蛙だったようだ」
ロドリゲスは剣を収め、居住まいを正した。
「名を、聞かせていただけるか」
ルイジェルドは槍を引き、静かに答えた。
「名は、ルイジェルド・スペルディア。人からは『デッドエンド』と呼ばれている」
「まさか……その『デッドエンド』か」
目を見開いた。
「この大陸を回っていれば、嫌でも耳に入る。恐ろしいスペルド族がいる、と」
ルイジェルドは、何も答えなかった。
ロドリゲスは、まじまじとルイジェルドを見た。
「しかし──髪は、どうした」
「事情があってな」
「……それ以上は、聞かないでおこう」
賢明な判断だ。
槍を得物にすることも、額の赤い宝石も、ロドリゲスは気にした様子がなかった。
緑の髪こそが、人族にとってスペルド族を見分ける、もっともわかりやすい目印なのだろう。それを剃ってしまえば、ロドリゲスのような手合いでも、とっさには気づけない。今のやり取りが、それを裏付けていた。
ロドリゲスの表情から、警戒の色が薄れていく。
代わりに浮かんだのは、もっと単純な感情だった。
「恐ろしいと聞いていたが……いや、失礼した。噂と、直に会うのとでは、ずいぶん違うものだな」
「そうか」
「強さを疑っていたわけではない。ただ、もっと……得体の知れない何かを、想像していた」
ルイジェルドは、それには答えなかった。
答える必要もない、という顔だった。
殺されず、全力を出させてもらい、それでも欠片も歯が立たなかった。その事実のほうが、恐怖よりも先に、ロドリゲスの胸を満たしているようだった。
強さを求めて旅をする者にとって、力を出し切らせてくれる相手に出会えることは、それ自体が滅多にない僥倖なのだろう。恐怖よりも、その喜びのほうが、今は勝っているように見えた。
「いい経験になった。礼を言う」
ロドリゲスは深く一礼すると、そのまま踵を返し、来た道を戻っていった。
俺は、それを見送りながら、少しだけ意外な気分になっていた。
スペルド族への恐怖が、たった一度の立ち合いで、これほどあっさり形を変えることもあるのか。
もっとも。
一度で全部が変わるほど、世界は甘くないだろう。
◇
その夜、焚き火を囲みながら、エリスがまだ興奮気味に話していた。
「ルイジェルド、さっきのすごかったわ! 全然危なげなかったじゃない!」
「そうか」
「私も、もっと強くなれば、あんな風に勝てるようになる?」
「お前次第だ」
ルイジェルドはそれだけ言うと、エリスの頭に一度手を置き、いつも通り視線を闇の奥へ向けた。
コジローは、焚き火の向こうで、静かに水袋を傾けているだけだった。
◇
それから数日、南へ向かう道すがら、似たようなことが、また起きた。
次の町に着き、依頼を受けに寄ったギルドで、ルイジェルドの佇まいをじっと見ていた男がいた。
修行の旅をしている、という空気は、ロドリゲスとよく似ている。
男は席を立つと、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「失礼。少し、お尋ねしたいのだが」
その目に浮かんでいたのは、警戒でも敵意でもなかった。
あの日のロドリゲスと、よく似た光だった。
……また、この手合いか。
俺は、小さく息を吐いた。