無職転生~異聞 月下の剣士   作:彼岸花さつき

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第二十八月 見える未来、見えない答え

見える未来、見えない答え

 

 予見眼を手に入れた。

 

 そう聞けば、なんとも格好いい。数瞬先の未来が見えるらしい。戦闘では役に立つだろうし、日常生活でも転びそうな人を助けたり、落とし物を拾ったりできるかもしれない。

 

 問題は――。

 

「うおっと」

 

 道を歩いている人間が、ことごとく二人に見えることだった。

 

 一人は今そこにいる本人。もう一人は、ほんの少し先にいる本人。

 

 右へ避けると思ったら左へ行く。立ち止まったと思ったら、未来の方だけ歩き続ける。

 

 便利どころか、邪魔である。これでは未来が見えるというより、酔っ払って物が二重に見えている人だ。

 

 しかも、この眼を手に入れたきっかけはヒトガミだ。

 

 あいつの言う通りに食べ物を買い、路地裏へ行った結果、キシリカに出会った。つまり、この眼を手に入れたことまで、あいつの思惑通りなのだろう。

 

 そう考えると素直に喜べない。

 

 かといって、せっかくもらった眼を抉り出すほど俺はワイルドではない。痛いのは嫌だ。

 

 とりあえず、使えるものなら使えるようにしてから考えよう。

 

 そんなことを考えながら歩いていたせいか。

 

「おい!」

 

「うわっ」

 

 誰かと肩がぶつかった。

 

 見上げると、傷のある顔に立派な顎髭を生やした男が、こちらを睨んでいた。腰には剣。いかにも路地裏が似合いそうな顔である。

 

「どこ見て歩いてやがる」

 

「すみません。ちょっと眼の調子が悪くて」

 

「だったら端歩け、端!」

 

「ごもっともです」

 

 ここは素直に謝っておく。

 

 眼をもらった直後にチンピラと喧嘩して、「未来が見えたので勝てました」なんて展開は御免だ。

 

 男は舌打ちして俺の横を通り過ぎた。

 

 と思ったら、数歩先で立ち止まる。

 

「そういや坊主。この辺で、酔っ払ったような男を見なかったか? 昨日から戻ってねえ奴がいるんだ」

 

「昨日……」

 

 路地裏。

 

 キシリカ。

 

 食べ物を与えようとしていた男。

 

 俺が盛大にぶっ飛ばした。

 

 ……もしかして、あの人か?

 

「路地裏で倒れてた人なら見ましたよ」

 

「どの辺だ?」

 

「向こうの――」

 

 答えようとした瞬間、男の姿にもう一つの姿が重なった。

 

 未来の男。

 

 その頭へ、上から何かが落ちてくる。

 

「危ない!」

 

「あ?」

 

 考えるより先に手が動いた。

 

 風を起こし、男の身体を横へ押し飛ばす。

 

「うおっ!」

 

 男は転がりながらも、すぐに立ち上がった。剣へ手を伸ばす。

 

「てめぇ――」

 

 ガシャン!

 

 そのすぐ横で、何かが砕けた。

 

 植木鉢だった。

 

 二人で揃って上を見ると、建物の窓から中年の女性が真っ青な顔でこちらを覗いていた。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

「……なるほど」

 

 男は剣から手を離した。

 

 地面の植木鉢。さっきまで自分が立っていた場所。そして俺。

 

 順番に見比べる。

 

「坊主、お前……」

 

「それじゃ、僕はこれで」

 

 面倒になる前に逃げることにした。

 

 男の仲間が倒れていた場所だけ教えて、その場を離れる。

 

 しばらく歩いてから振り返った。

 

 誰も追ってこない。

 

「……使えるじゃないか」

 

 思わず呟いた。

 

 制御さえできれば、かなり便利かもしれない。少なくとも、植木鉢が頭に直撃する少し前ぐらいなら教えてくれる。

 

 よし。

 

 早急に飼い慣らそう。

 

 ◇

 

 宿へ戻ると、三人ともいた。

 

 エリスは俺の右目を見るなり、顔を近づけてきた。

 

「それが魔眼?」

 

「そうらしいです」

 

「普通の目にしか見えないわね」

 

「僕にもそう見えます」

 

 見た目まで邪眼全開だったら困る。

 

 ルイジェルドにキシリカの名を出すと、珍しく目を見開いた。

 

「キシリカが復活していたのか」

 

「知ってるんですか?」

 

「魔界大帝だ。知らん者の方が少ない」

 

 どうやら、俺が子供のごっこ遊びだと思っていた相手は、想像以上の有名人だったらしい。

 

 キシリカは多くの魔眼を持ち、他人の眼にまで異能を与えられる存在なのだという。つまり、俺がやられたあの眼球ぐりぐりも、ちゃんとした施術だったわけだ。

 

 もう少し患者に優しい方法はなかったんでしょうか、先生。

 

「すごいわね。私も会ってみたい!」

 

「もう町を出たみたいですよ」

 

「そうなの? 残念ね」

 

 そう言いながら、エリスは俺の右目をじっと覗き込んだ。

 

「それが使えるようになったら、私の動きも見えるの?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、私とやりなさい」

 

「はい?」

 

「魔眼なんかに負けないんだから!」

 

「今は歩くのにも苦労してるんですけど」

 

「早く使えるようになりなさいよ!」

 

「無茶言うなぁ……」

 

「目に宿る異能、か」

 

 それまで黙っていたコジローが、ふと呟いた。

 

 特に驚いている様子もない。

 

「コジローさん、こういうの珍しくないんですか?」

 

「さてな。だが、すでに宿ったものなら、まずは己のものにすることよ」

 

「それはそうですけど」

 

 それだけ言って、茶を口にする。

 

 未来が見える眼をもらった、と聞かされてこの反応。相変わらず、この人の驚く基準はよくわからない。

 

 とはいえ、言っていることは正しい。

 

「というわけで、しばらく宿に籠もります」

 

「部屋に籠もるの?」

 

「今度は前向きな引きこもりです」

 

「同じじゃない!」

 

 違う。

 

 目的のある引きこもりと、目的のない引きこもりには天と地ほどの差があるのだ。

 

 前世の俺が証明している。

 

 ◇

 

 予見眼の制御には、一週間かかった。

 

 どうやら、見える未来は魔力で調整できるらしい。

 

 最初に覚えたのは、未来の像を薄くすることだった。今と未来が同じ濃さで見えるから混乱するのであって、未来側だけうっすら見える程度にすれば普通に歩ける。

 

 この辺りは無詠唱魔術と似ていた。魔力をどう動かせば望んだ現象になるのか。一度感覚を掴んでしまえば、あとは反復だ。

 

 次は、どこまで先を見るか。

 

 一秒程度なら、かなり安定する。

 

 二秒、三秒と伸ばすこともできるが、その頃には未来が枝分かれし始めた。一人が右にも左にも動く。さらに先を見ようとすれば、もう分身大会である。

 

 しかも頭が痛い。

 

 未来とは、どうやら一本の線ではないらしい。

 

 安全に扱うなら一秒。普段は薄くしておき、必要な時だけ濃くする。

 

 七日も経つ頃には、だいたいその程度まで扱えるようになった。

 

 その一週間、エリスとルイジェルドは毎日のように朝から出掛けていた。

 

 夕方になると、エリスは汗だくで帰ってくる。ルイジェルドも、よく見ると額に汗を浮かべている。

 

「あの、参考までに聞きたいんですけど、毎日どこ行ってるんです?」

 

「ナイショ!」

 

 エリスは妙に嬉しそうに言った。

 

 まあ、聞くまでもない。

 

 稽古だろう。

 

 フィットア領にいた頃から、エリスは見えないところで剣を振っていた。口では文句を言うし、すぐ怒るし、すぐ殴る。でも、剣に関して怠けているところはほとんど見たことがない。

 

 俺が部屋で眼に魔力を流し続けている間にも、エリスは外で身体を動かしている。

 

 そう思うと、俺もサボってはいられない。

 

 魔眼との睨めっこに戻った。

 

 ◇

 

 一週間後。

 

「実戦で試してみろ」

 

 予見眼を一通り制御できるようになったと報告すると、ルイジェルドがそう言った。

 

 相手はエリス。

 

 俺たちは海岸へ移動し、適当な木の棒を一本ずつ手にした。

 

 ルイジェルドが少し離れて立っている。

 

 さらにその向こうでは、コジローが流木に腰を下ろしていた。長い刀を肩に預け、潮風に群青の髪を遊ばせながら、こちらを眺めている。

 

「コジローさんも見るんですか?」

 

「いやなに。小僧が一週間籠もった成果でも、見ておこうと思ってな」

 

「もちろん、ただ引きこもってただけではないとお見せしましょう!」

 

「ふむ」

 

「それに、目に宿った異能とやらが、戦でいかに働くものか。少々興味もあってな」

 

 そう言って、コジローは僅かに笑った。

 

 珍しく、興味を隠していない。普段は何事にもどこ吹く風といった態度なのに、こういう話になると少しだけ食いつきがいい。

 

 やっぱりこの人も、根っこのところでは戦士なのだろう。

 

 もっとも、これは剣術の稽古ではない。

 

 俺の眼の性能試験だ。

 

「コジロー! ルーデウスばっかり見てないで私もちゃんと見なさいよね!」

 

 おや、対抗意識を燃やしていらっしゃる。

 

 かわいいな。

 

「それに言っとくけど、魔眼があったって負けないわよ!」

 

 エリスはえらく自信満々だった。

 

 この一週間で、何か掴んだらしい。

 

「今日は魔術なしです。俺も眼が戦いでどの程度使えるのか知りたいので」

 

「後悔しても知らないから!」

 

 剣を構える。

 

 眼に魔力を流す。

 

 未来が重なった。

 

 エリスが踏み込む。

 

 いや、まだ動いていない。

 

 一秒後だ。

 

 次の瞬間。

 

「はあっ!」

 

 未来で見えた通り、エリスが一気に間合いを詰めてきた。

 

 速い。

 

 だが、知っている。

 

 来る場所がわかっていれば、俺でも対応できる。

 

 剣を合わせ、横へ逃がす。

 

「なっ……!」

 

 エリスが驚く。

 

 しかし止まらない。

 

 次の未来。

 

 右。

 

 受ける。

 

 左。

 

 避ける。

 

 剣を弾いた。

 

 ――いや。

 

 落としたんじゃない。手放したのか。

 

 未来のエリスは、もう拳を振りかぶっていた。

 

「ふっ!」

 

 剣を手放したエリスが拳を突き出してくる。

 

 一歩引く。

 

 拳が空を切った。

 

 今度こそ終わり――。

 

 ではない。

 

 さらに先のエリスは、こちらの足へ飛びつこうとしていた。

 

「まだやるんですか!」

 

「当たり前でしょ!」

 

「元気だなぁ!」

 

 なんとか動きを押さえ込む。

 

「そこまでだ」

 

 ルイジェルドの声が飛んだ。

 

 エリスの身体から力が抜ける。

 

 俺も離れた。

 

「……勝った?」

 

 勝った。

 

 魔術なし。

 

 近接戦で。

 

 あのエリスに。

 

 今までだったら、最初の踏み込みすらまともに見えなかった。それが全部見えた。

 

 未来を知っているというのは、これほど大きいのか。

 

「完敗ね」

 

 エリスが立ち上がる。

 

 妙に素直だ。

 

「いやあ、それほどでも」

 

 一瞬。

 

 未来のエリスが、俺の頬を殴った。

 

「おっと」

 

 現実の拳を受け止める。

 

 エリスの顔が固まった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「帰る!」

 

 怒鳴ると、ずかずかと宿の方へ歩いていった。

 

 途中、コジローの横を通り過ぎる。

 

 コジローは何も呼び止めず、ぷんぷんと肩を怒らせて去っていく背中を眺めていた。

 

「負けず嫌いも、あそこまでゆけば愛嬌よな」

 

「最後の一発まで読まれたのが嫌だったんですかね」

 

「それだけじゃないだろう」

 

 ルイジェルドは淡々と答えた。

 

 そして俺の眼を見て、少し頷く。

 

「一週間でそこまで使えるようになったのか」

 

「そんなに難しくなかったですよ」

 

「そうではない。魔眼の制御は、本来もっと時間がかかる」

 

 昔、スペルド族にも魔眼を持つ戦士がいたらしい。最後まで完全には扱えなかったという。

 

 ふむ。

 

 つまり。

 

 俺、結構すごい?

 

 ふとコジローを見る。

 

「どうでした?」

 

「何がだ?」

 

「魔眼ですよ。未来が見えるってやつ」

 

「面白い眼ではあるな」

 

 コジローはそれだけ言った。

 

「えー、それだけですか?」

 

「さて」

 

 視線が俺の手に持った剣へ落ちる。

 

「先が見えるというのは、さぞ便利であろうよ」

 

 そこで話を終えてしまった。

 

 なんだその含みのある言い方。

 

 もっとこう、達人っぽいありがたい寸評とかないんですか。

 

 まあいい。

 

 少なくとも役には立つ。

 

 なら。

 

「……もしかして、今ならルイジェルドさんにも勝てたり?」

 

 言った瞬間、自分でも調子に乗っていると思った。

 

「魔術を使えばな」

 

「接近戦では?」

 

「試すか?」

 

「ぜひ」

 

 ルイジェルドが槍を置いた。

 

 俺も手にしていた剣を砂浜へ置く。

 

 つまり俺なんぞ武器を使うまでもないということだろう。

 

 ならば未来を見せてもらおうじゃないか。

 

 少し離れた場所で、コジローが顎に手を添えた。

 

 止める様子はない。むしろ、さっきより僅かに興味を持ったように見える。

 

 眼に魔力を込める。

 

 見えた。

 

 ルイジェルドの手が、俺の顔へ伸びてくる。

 

 来る。

 

 わかっていれば防げる。

 

 腕を上げる。

 

 その瞬間。

 

 未来が二つに割れた。

 

「え?」

 

 一方では、俺の腕を掴んでいる。

 

 もう一方では、そのまま顔を殴っている。

 

 なんで?

 

 一秒先だぞ?

 

 考えているうちにルイジェルドが来た。

 

 腕を引く。

 

 未来がまた変わる。

 

「ちょ、待っ――」

 

 次の一撃は見えていた。

 

 確かに見えていた。

 

 だが、避けられる体勢ではなかった。

 

「ぶっ!」

 

 視界が揺れた。

 

 気がつけば、砂浜に顔を突っ込んでいた。

 

 痛い。

 

 鼻がある。

 

 よかった。

 

 未来より先に、まず自分の顔面の未来が心配である。

 

「終わりか?」

 

「……参りました」

 

 ルイジェルドが手を差し出してくる。掴んで起こしてもらった。

 

「どうやったんです?」

 

「お前の動きを見ただけだ」

 

「それだけ?」

 

「防ぐなら掴む。防がないなら打つ。お前が選んだ後で、俺も選ぶ」

 

「ふむ、後の先というわけか」

 

 コジローが、納得したように口を挟んだ。

 

 なるほど。

 

 俺が未来を見て行動を変えれば、ルイジェルドもそれを見て行動を変える。

 

 だから未来が枝分かれする。

 

「それと」

 

「まだあるんですか」

 

「見えていても、動けなければ意味はない」

 

 ぐうの音も出ない。

 

 未来予知があれば無敵!

 

 などという甘い話ではないらしい。

 

 相手の次の一手がわかっても、こちらの身体が追いつかなければどうにもならない。しかもルイジェルドは、以前にも同じ魔眼を持つ相手と戦った経験があるらしい。未来が見える相手との戦い方まで知っている。

 

 経験値まで違う。

 

 完全敗北である。

 

「調子に乗ってました」

 

「そうか」

 

 それだけか。

 

 もう少し優しく慰めてくださいよ。

 

「いや、なかなかに面白いものを見せてもらった」

 

 コジローが流木から立ち上がる。

 

「魔眼がですか?」

 

「それもある」

 

 コジローはルイジェルドを見て、薄く笑った。

 

「だが、先が見えようとも、それだけで勝負が決まらぬというのも、また面白い」

 

 長い刀を背負い直す。

 

「ではな」

 

 ……たぶん、褒められた。

 

 俺ではなく、主にルイジェルドを。

 

 エリスには勝てたが、ルイジェルドには通用しなかった。なんとなく、この眼の立ち位置がわかってきた。

 

 便利だし、強い。

 

 でも、何でもできるわけではない。

 

 ……それでも便利なんだけどな。

 

 ◇

 

 宿へ戻ると、エリスはベッドの端で膝を抱えていた。

 

「エリス」

 

「なによ」

 

 怒っている。

 

 いや、少し違う。

 

 悔しがっている。

 

 さっきルイジェルドから聞いた。

 

 この一週間、二人は毎日、朝から夕方まで稽古をしていた。そして、エリスは初めてルイジェルドから一本取ったらしい。

 

 ルイジェルドから一本。

 

 それは凄い。

 

 俺なんて未来が見えていても、鼻を殴られて砂を食べただけだ。

 

 だからエリスは、あれほど自信満々だったのだ。

 

 この一週間、エリスはずっと稽古を続けてきた。その結果、ついにルイジェルドから一本取った。自分が強くなったという実感だって、あったはずだ。

 

 そんなところで、一週間前まで簡単に倒せた俺に負けた。それも、一度もまともに攻撃を当てられずに。

 

「ルイジェルドさんから一本取ったんでしょう?」

 

「……そうよ」

 

「すごいじゃないですか。僕なんてさっき一発で――」

 

「そういうことじゃない!」

 

 怒鳴られた。

 

 口を閉じる。

 

 エリスはしばらく俯いていた。

 

 やがて、ぽつりと言った。

 

「私は、ずっと練習してたのよ」

 

「……はい」

 

「毎日やったの。何回も転ばされたし、何回も負けた。それでやっと一回だけ勝てたの」

 

「はい」

 

「なのにルーデウスは……急にそんな眼をもらって」

 

 声が小さくなる。

 

「ズルいわよ」

 

 何も言えなかった。

 

 そうだ。

 

 俺は何を喜んでいた?

 

 予見眼を制御するため、一週間は練習した。それは確かだ。

 

 でも、眼そのものを得るために何をした?

 

 串焼きを買った。路地裏を歩いた。腹を空かせたキシリカに飯を食わせた。

 

 それだけだ。

 

 その結果、降って湧いた力で、汗だくになって努力したエリスを倒した。そして俺は、強くなった気になって浮かれていた。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝らないでよ」

 

 エリスが俺の肩に身体を預けてきた。

 

 そのまま黙る。

 

 俺も黙った。

 

 普段なら、こんな距離でエリスが寄りかかってきたら、別の意味で心拍数が上がる。でも今は、そんな気分にはならなかった。

 

 魔眼は便利だ。

 

 使えば、今まで見えなかった攻撃が見える。それだけで、俺はかなり強くなれる。

 

 でも、それは俺自身が一秒分速くなったわけではない。ルイジェルドとの手合わせでも、それは嫌というほどわかった。見えていても動けなかったし、経験にも追いつけなかった。

 

 便利なものに頼って、それで強くなったつもりになる。それは、多分よくない。

 

 この眼は、必要な時に使おう。

 

 ここぞという時。

 

 そういう時の切り札でいい。

 

 普段から頼りきりになるのはやめよう。

 

 未来を見る前に、今の自分を強くしなければならない。

 

 ◇

 

 問題が一つある。

 

 一週間が経った。俺は未来を見られるようになった。

 

 ところが、海を渡る方法は一ミリたりとも前進していない。

 

「……ヒトガミめ」

 

 結局、あいつは何をさせたかったのだろう。

 

 キシリカに会わせたかった?

 

 魔眼を手に入れさせたかった?

 

 その魔眼で金を稼げということか?

 

 都合よく大金を稼げる方法など、今のところ思いつかない。

 

 一週間経っても、二百枚という壁はそのままだ。正攻法で稼ぐには時間がかかりすぎる。迷宮は危険すぎる。密輸人に当たろうにも、そう簡単に見つかるものでもない。

 

 そして俺の手元には、傲慢なる水竜王(アクアハーティア)がある。

 

「……仕方ないか」

 

 あの夜、一度考えて、引っ込めた案。

 

 杖を売る。

 

 エリスからもらった、大切なものだ。当然、売りたくはない。

 

 でも、大切だからこそ高く売れる。

 

 旅は続けなければならない。エリスを家まで送り、ルイジェルドも一緒に海を渡る。

 

 そのためなら。

 

 俺は杖を手に、宿を出た。

 

 夜。

 

 エリスはもう眠っている。

 

 ルイジェルドの姿も見当たらない。

 

 今なら止められずに済む。

 

 そう思ったのだが。

 

「どこへ行く」

 

 宿を出てすぐ、暗がりからルイジェルドが出てきた。

 

 ……なんでいるんだよ。

 

「ちょっと、夜の散歩に」

 

 ルイジェルドの視線が、俺の杖へ落ちる。

 

「杖を持ってか?」

 

「防犯です」

 

「売るつもりだな」

 

「…………」

 

 この人には、嘘が通じない。

 

「はい」

 

 観念した。

 

「売ります」

 

 ルイジェルドの顔が険しくなる。

 

「それはエリスからもらったものだろう」

 

「だから値打ちがあるんですよ。物もいいですし」

 

「値段の話ではない」

 

 わかっている。

 

「大切なものです」

 

「なら、なぜ手放す」

 

「必要だからです」

 

 ルイジェルドはしばらく黙った。

 

「前に、三つ方法があると言ったな」

 

「はい」

 

「その中には、杖を売るという選択肢はなかったはずだ」

 

 痛いところを突いてくる。

 

「……言えば反対されると思ったからです」

 

「だから、俺には相談しなかったのか?」

 

「……はい」

 

 ルイジェルドは少し黙った。

 

「俺は、信用できないか?」

 

「そんなことは――」

 

「なら、なぜ一人で決めた」

 

 思わず顔を上げた。

 

 ルイジェルドは怒ってはいなかった。

 

 むしろ、少し悲しそうだった。

 

「俺は戦い方ならお前より知っている。だが金のことも、町での交渉も、お前ほどわからん」

 

「…………」

 

「だから任せてきた。だが、任せるというのは、お前一人に全てを背負わせるという意味ではない」

 

 言葉が出なかった。

 

 反対される。そう思ったから、相談しなかった。

 

 それは合理的だと思っていた。

 

 でも、相手が何を選ぶかすら聞かずに、自分だけで答えを決めていた。

 

「……すみません」

 

「謝るな。俺も考えた」

 

 ルイジェルドは海の方へ顔を向けた。

 

「普通に依頼をこなしていても、二百枚をすぐに用意するのは無理だ」

 

「そうですね」

 

「迷宮へ潜ったところで、すぐに二百枚が手に入る保証もない」

 

 ルイジェルドが短く息を吐いた。

 

「ならば、残るのは密輸人だ」

 

 驚いた。

 

 ルイジェルド自身の口から、その言葉が出るとは思っていなかった。

 

「いいんですか?」

 

「よくはない」

 

 即答だった。

 

「だが、この金が必要なのは俺のためだ」

 

「ルイジェルドさんのせいじゃ――」

 

「俺がスペルド族だから必要になる金だ」

 

 それ以上は言わせてもらえなかった。

 

「お前にその杖を売らせるぐらいなら、今回は俺が譲る」

 

「譲る?」

 

「密輸人が何をしていても、見ない。聞かない」

 

 重い言葉だった。

 

 この男が何を嫌うのか、俺は知っている。

 

 子供を攫う者。弱者を食い物にする者。そういう人間を見れば、ルイジェルドは迷わない。

 

 その彼が、それを我慢すると言っている。

 

 俺に杖を売らせないために。

 

「……それでも」

 

 俺は少し考えた。

 

「本当に我慢できない奴がいたら、言ってください」

 

「何?」

 

「その時は、一緒に全部台無しにしましょう」

 

 密輸人を利用する。

 

 だが、完全に言いなりにはならない。もし途中で子供でも攫われていたら、その時ぐらい予定を壊して助けてもいい。

 

 スマートではない。

 

 でもまあ、俺たちらしいといえば、俺たちらしい。

 

 ルイジェルドは一瞬黙った後、僅かに笑った。

 

「ああ」

 

「じゃあ、密輸人を探しましょう」

 

「そうしよう」

 

 手を差し出す。

 

 ルイジェルドが握った。

 

 大きく、硬い手だった。

 

 この一年、何度この手に助けられただろう。

 

 相談する。

 

 未来を見るより、ずっと簡単なはずなのに、俺はどうもこういうことが下手らしい。

 

 手を離した、その時だった。

 

 ルイジェルドの表情が変わった。

 

 槍を取る。

 

「誰だ」

 

 低い声。

 

 路地の暗がりから、一人の男が両手を上げて出てきた。

 

「おお、怖ぇ怖ぇ。いきなり刺すのは勘弁してくれよ」

 

 顎髭。

 

 傷のある顔。

 

「あ」

 

 昼間――いや、もう一週間前か。

 

 魔眼をもらった帰りにぶつかった男だ。

 

「坊主、やっと見つけたぜ」

 

「僕を?」

 

「ああ。眼の悪いチビの魔術師を探してたんだが、そんな奴は知らねえって言われ続けてな。で、『デッドエンド』の話を聞いて、ようやく繋がった」

 

 男はニヤリと笑った。

 

「七日前は世話になったな」

 

 どうやら、俺が教えた場所で仲間も無事に見つかったらしい。

 

 それに、鉢植えから助けたこと。その礼も言いたかったのだという。

 

「わざわざそれだけのために?」

 

「俺らみたいな商売はな、借りを残すと後で面倒になるんだよ」

 

「俺らみたいな?」

 

 男は少し間を置いた。

 

「さっきの話、聞こえちまった」

 

 嫌な予感がした。

 

「あんたら、海を渡るために密輸人を探してるんだろ?」

 

 俺とルイジェルドは顔を見合わせた。

 

「まさか」

 

「そのまさかさ」

 

 男は自分の胸を親指で指した。

 

「俺は密輸をやってる」

 

 都合が良すぎる。

 

 普通なら疑うところだ。

 

 だが。

 

 食べ物を買う。

 

 路地裏へ行く。

 

 キシリカに会う。

 

 予見眼をもらう。

 

 予見眼で、この男を鉢植えから助ける。

 

 そして今、この男が密輸人として目の前にいる。

 

「ヒトガミ……」

 

 思わず小さく呟いた。

 

 そういうことか?

 

 あの助言は、キシリカに会わせるだけではなかった?

 

「ただし」

 

 男が指を立てる。

 

「借りはある。だが、それとスペルド族一人をタダで運ぶってのは釣り合わねえ。俺の命に二百枚分の値段がついてるとは思ってねえからな」

 

「じゃあ、どうするんです?」

 

「仕事を一つ受けてくれ」

 

 ルイジェルドが俺を見る。

 

 交渉は俺の役目だ。

 

「内容を聞いてからです」

 

「当然だ」

 

 男は声を潜めた。

 

「今から一ヶ月後、俺たちが使ってる保管場所に奴隷が運び込まれる」

 

 ルイジェルドの目が細くなる。

 

 男は慌てず続けた。

 

「その中に、売っちまうと後々まずい奴が混ざってる。金にはなるが、一年もすりゃでかい禍根になる。俺は止めたんだが、仲間全員が聞く耳持つわけじゃねえ」

 

「それを僕たちに助けろと?」

 

「そういうことだ。できれば逃がした後も、故郷へ帰れるよう手を回してほしい」

 

 妙な話だった。

 

 密輸人が、密輸される奴隷を助けてほしいと言っている。

 

「自分でやればいいじゃないですか」

 

「俺がやったら、俺の居場所がなくなる」

 

 男が肩をすくめる。

 

「だから、口が固くて腕の立つ奴を探してた」

 

 ルイジェルドが男を睨む。

 

「お前は戦える」

 

「まあな。でも、強い奴が何でも好きに決められるわけじゃねえだろ?」

 

 ルイジェルドは黙った。

 

 どうやら、その辺はあまり得意な理屈ではないらしい。

 

「ルーデウス」

 

「はい」

 

「俺は構わん。お前が決めろ」

 

 さっきまでの話が頭をよぎった。

 

 相談しろ。

 

 一人で決めるな。

 

 そして今、ルイジェルドは俺に判断を任せている。

 

 信じているから任せる。

 

 そういうことなのだろう。

 

 怪しい。

 

 ものすごく怪しい。

 

 だが、依頼そのものは人助けだ。元々、俺たちは密輸人を探すと決めた。そしてヒトガミの助言から続いた道が、この男に繋がっている。

 

 あいつを信用する気はない。

 

 でも今回は、ここまで来た流れを見届けると決めたのだ。

 

「わかりました」

 

 俺は男を見る。

 

「その仕事、受けます」

 

「話が早くて助かるぜ」

 

 男が笑った。

 

「まだ名乗ってなかったな」

 

 差し出された手を取る。

 

「ガルス・クリーナーだ」

 

「ルーデウス・グレイラットです」

 

 こうして俺たちは、密輸組織からの仕事を受けることになった。

 

 一秒先の未来は見えるようになった。

 

 けれど、その先に何があるのかは、相変わらずさっぱり見えない。

 

 ただ、海の向こうへ続く道だけは、ようやく一本見つかったらしい。

 

 ものすごく胡散臭い道ではあったが。

 

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