旅人の流儀
コジローがボレアス邸へ滞在してから、三日が過ぎた。
不思議な男だった。
朝になれば誰よりも早く起き、庭をゆっくりと歩いている。
木々を眺め、花を眺め、時には足を止めて空を見上げる。
あれほどの剣士なのだから、毎朝何百回も素振りをしているのかと思ったが、剣を振る姿はほとんど見ない。
ただ庭を歩き、風に揺れる枝葉を眺めている。
それだけだ。
けれど、ギレーヌは稽古を始める前に、必ず一度だけ庭の片隅へ視線を向ける。
そこにコジローがいることを確認すると、何事もなかったかのように俺たちへ向き直るのだ。
二人が言葉を交わすことは少ない。
それでも、その短い視線のやり取りには、剣士同士にしか分からない何かがあるように思えた。
◇
「コジロー!」
朝食を終えた途端、エリスが廊下を駆けてきた。
「今日は何を教えてくれるの!」
コジローは振り返り、小さく笑った。
エリスはコジローことが気に入った様子だ。
ギレーヌ以外で同等な強さを兼ね備えてるコジローはエリスにとってさぞいい刺激になったに違いない。
「さて。昨日の花はどうであった?」
「分かんない!」
「左様か」
「でも、昨日より揺れてるのが見えた!」
「ほう」
エリスは得意げに胸を張った。
「風が吹く前に、少しだけ動くの!」
俺は思わず庭の花壇へ目を向ける。
そんなことが本当にあるのだろうか。
風を感じるよりも先に、花の方が動いて見えるということか。
コジローは、わずかに目を細めた。
「よく見ておる」
「でしょ!」
「だが」
エリスの笑顔が固まった。
「花が動いたのか」
「え?」
「風が動いたのか」
「……」
「それとも、お嬢の目が変わったのか」
エリスは眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
また難しいことを言われた、と顔に書いてある。
「分かんない!」
「うむ」
「だから教えてって言ってるのよ!」
「教えてしまえば、お嬢のものにはならぬ」
「うぅー!」
エリスが頭を抱えて唸る。
精神的な話だろうか?
傍から見れば、コジローが意地悪をしているようにも見える。
けれど、たぶん違う。
この人は答えを隠しているのではない。
エリス自身が答えへ辿り着くのを、待っているのだ。
「じゃあ、どうすれば分かるのよ!」
「見ることだ」
「見てるわよ!」
「ならば、もうしばらく見ればよい」
「それだけ!?」
「それだけよ」
エリスは納得できない様子で庭へ飛び出していった。
昨日と同じ花の前へ立ち、またしても敵を睨むような目を向ける。
「……あれでいいんですか?」
俺が尋ねると、コジローは楽しそうに笑った。
「さて。見ようとする意志があるだけ、昨日よりは良かろう」
そういうものなのだろうか。
剣の修行というより、何かの禅問答にようだった。
◇
もっとも、コジローがエリスへ教えるのは、花の見方だけではなかった。
普段の稽古を取り仕切るのは、あくまでギレーヌだ。
走り込み。
素振り。
足運び。
打ち込み。
エリスはいつもどおり汗だくになり、ギレーヌの木剣に何度も叩き伏せられていた。
コジローは少し離れた木陰に座り、その様子を眺めている。
口を出すことはほとんどない。
日がな一日、ただ見物しているようにも思えた。
だが、エリスが同じ失敗を三度繰り返した時だけ、静かに声を掛けた。
「お嬢」
「なによ!」
ギレーヌへ斬りかかろうとしていたエリスが、苛立たしげに振り返る。
「剣を見すぎだ」
「剣を見ないでどうやって避けるのよ!」
「さて。剣だけで人が斬れるのならば、手足など要らぬであろうな」
「……どういう意味よ」
「肩を見よ」
それだけ言うと、コジローは再び黙った。
エリスは納得していない顔でギレーヌへ向き直る。
「続けるぞ」
「分かってるわよ!」
ギレーヌが踏み込む。
木剣が振り下ろされる。
エリスは剣先ではなく、ギレーヌの肩へ目を向けた。
次の瞬間、慌てて横へ跳ぶ。
完全には避けられなかった。
木剣がエリスの腕を軽く叩く。
「痛っ!」
「今のは悪くない」
ギレーヌが言った。
「どこがよ! 当たったじゃない!」
「昨日なら、頭に当たっていた」
「むぅ……」
エリスは悔しそうに腕を押さえた。
だが、すぐに立ち直ると、今度はギレーヌの肩へ注意を向けて構え直した。
コジローは何も言わない。
褒めることも、詳しく説明することもない。
ただ、エリスが自分で掴むのを待っている。
やがて稽古が一段落すると、エリスは息を切らしながらコジローの前へ立った。
「ねえ!」
「うむ」
「肩を見れば、動く前に分かるのね!」
「さて。分かったのであれば、私に聞く必要もあるまい」
「またそれ!」
エリスが頬を膨らませる。
「じゃあ、今度はコジローが相手しなさい!」
「先ほどまでギレーヌ殿と打ち合っていたであろう」
「それとこれとは別よ!」
「欲深い娘よな」
「いいから立ちなさい!」
コジローは困ったように頬を掻いた。
それから、地面に落ちていた細い枝を一本拾う。
「では、一度だけだ」
「そんな枝でやるつもり?」
「触れられれば、お嬢の勝ちとしよう」
コジローは枝を片手に立った。
構えらしい構えは取らない。
「私が動くと思った時に、踏み込むがよい」
「分かったわ!」
エリスは木剣を構えた。
先ほどの教えどおり、コジローの肩を見る。
しばらく、どちらも動かない。
エリスの額から汗が一筋流れ落ちた。
「……まだ?」
「お嬢が決めることだ」
「なら――今!」
エリスが地面を蹴った。
木剣が真っ直ぐ振り下ろされる。
だが、コジローは動かなかった。
ただ、体をわずかに傾けただけだ。
木剣が鼻先を通り過ぎる。
次の瞬間、細い枝の先がエリスの眉間へ触れていた。
「なっ……!」
「肩を見るのは悪くない」
コジローは枝を下ろした。
「されど、肩を見ようとするあまり、他のものが見えなくなったな」
「じゃあ、どこを見ればいいのよ!」
「相手を見るのだ」
「見てたわよ!」
「一所のみを見つめることと、全てを見ることは違う」
「そんなの無理よ!」
「今はな」
エリスが黙る。
コジローは枝を地面へ戻した。
「花も、風も、肩も、剣も。初めから全てを見る必要はない」
「一つを見られるようになれば、やがて二つ見える。二つが見えれば、その先も見えよう」
「……本当?」
「さて。お嬢が諦めなければな」
「諦めるわけないでしょ!」
エリスは即答した。
コジローは満足そうに笑う。
その稽古は、打ち合いと呼べるほどのものではなかった。
けれど、ただの精神論でもない。
エリスの焦りや視野の狭さが、そのまま剣へ表れる。
コジローはそれを実際に見せた上で、ほんの少しだけ道を示しているのだ。
力や型を教えるギレーヌとは違う。
同じ剣術でも、見ている場所が違うのだろう。
◇
昼下がり。
俺は書庫で借りた本を抱え、中庭を歩いていた。
噴水の近くでは、フィリップ様とコジローが話をしている。
盗み聞きをするつもりはなかった。
だが、自室へ戻るには二人の近くを通る必要がある。
「もう数日、滞在されてはいかがですかな」
「ありがたい申し出ではある」
コジローは穏やかに答えた。
「されど、長居は野暮というもの」
「返書を受け取られた後は、本家へ?」
コジローは静かに頷く。
「左様」
「その後は、どうされるのですか?」
問われたコジローは、少しだけ空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと風に流されている。
「さて。また雲の流れのように、旅を続けるであろうな」
やはり、この人は本家へ仕えているわけではないらしい。
書状を届け、返書を持ち帰る。
その務めを終えた後は、再び旅へ戻るつもりなのだ。
フィリップ様は、わずかに寂しそうな笑みを浮かべた。
「そうですか。寂しくなりますね。あなたには、これまでにも何度か世話になりました」
何度か。
ということは、コジローは以前にもフィリップ様のもとを訪れたことがあるのだろう。
今回のような書状の受け渡しか。
あるいは、本家から何かを頼まれた時か。
「その恩なら、とうに返し終えておられるのではありませんか?」
「さて」
コジローは少し困ったように笑った。
「恩とは、返した量を数えて終わりを決めるものでもあるまい」
「あなたらしいお答えです」
「一杯の飯に救われた者が、その温かさを忘れぬ。ただそれだけのことよ」
フィリップ様はしばらくコジローを見つめていた。
その目には、呆れと感心が半分ずつ混ざっているように見えた。
「では、その義理堅さを見込んで、もう一つお願いをしてもよろしいでしょうか」
「聞くだけならば」
「もしよろしければ、このまま我が家で雇われませんか?」
フィリップ様は柔らかな口調で続けた。
「あなたとギレーヌがいれば、エリスもきっと喜びます。剣の師が二人となれば、あの子にとっても得るものは多いでしょう」
思わぬ提案だった。
確かに、コジローがこの屋敷に残るなら、エリスは喜ぶだろう。
俺としても興味はある。
剣術だけではない。
カタナのことも、この男自身のことも、まだ分からないことばかりだ。
コジローはフィリップ様を見た。
それから、庭の向こうへ視線を移す。
花壇の近くでは、エリスが先ほどの枝を手に取り、ギレーヌを相手に何かを試そうとしていた。
しばらくして、コジローが笑う。
「……ありがたい申し出だ」
その声音は、社交辞令には聞こえなかった。
本当にありがたいと思っているのだろう。
「だが……燕は空を自由に駆けるからこそ、燕であろう」
空の彼方を、一羽の鳥が横切っていく。
「鳥籠の中に囚われれば、その美しい軌跡も損なわれよう」
しばしの沈黙。
「それに私は、家に仕え、政に関わるような生き方は不得手でな。風の向くまま歩く方が、性に合っておる」
フィリップ様は苦笑を浮かべた。
「そうですか。それは残念ですね」
コジローを自分の手元へ置くことができれば、フィリップ様にも色々と利点があるのだろう。
あれほどの剣士だ。
ギレーヌと並んでいれば、ボレアス家の護衛としても申し分ない。
だが、コジローは断った。
待遇が気に入らないからではない。
誰かに仕えることを嫌っているわけでもない。
ただ、どこか一つの場所へ留まる生き方が、彼には似合わないのだ。
「では、返書は出来次第、部屋へ届けさせましょう」
「承知した」
話が終わり、フィリップ様が屋敷へ戻っていく。
残されたコジローは、もう一度空を見上げた。
先ほどの燕は、すでにどこにも見えなかった。
◇
「盗み聞きとは、良い趣味をしておるな」
不意に声を掛けられ、俺は足を止めた。
見れば、コジローがこちらを向いている。
その表情には、怒った様子など欠片もない。
「すみません。盗み聞きするつもりはなかったんです」
「さて。足を止めたまま、随分と熱心に聞いておったようだが」
「……すみません」
「責めてはおらぬよ」
コジローは楽しげに笑った。
「聞かれて困る話でもない」
やはり、最初から俺が近くにいることには気づいていたらしい。
この人に隠れて何かをするのは難しそうだ。
「本当に行ってしまうんですか?」
「返書を届けた後の話か」
「はい」
「そのつもりだ」
「どこへ向かうおつもりで?」
「さて」
コジローはわずかに首を傾げた。
「それを決めておらぬから、旅というものは面白い」
「行き先も決めずに歩くんですか?」
「東へ行きたくなれば東へ。山が見たくなれば山へ。良き風が吹けば、そちらへ足を向ける」
「ずいぶん適当ですね」
「はは。小僧には、そう見えるか」
俺には理解しにくい生き方だ。
前世でも今世でも、俺は先のことばかり考えている。
何を学ぶか。
何を身につけるか。
どこへ行けば安全か。
誰とどう付き合えば失敗しないか。
目的地を決めずに歩くなんて、不安で仕方がない。
「怖くないんですか?」
「何がだ」
「行った先で、何が起きるか分からないでしょう」
「分からぬからこそ、出会えるものもある」
コジローは庭を眺める。
「道端の花は地図には記されぬ。旅先で出会う者の笑みも、また然り」
「危険な目に遭うかもしれませんよ」
「それもまた旅よ」
「死ぬかもしれない」
口にしてから、少し言い過ぎたかと思った。
だが、コジローは怒らなかった。
「人は、家に籠もっていても、いつかは死ぬ」
「それは、そうですけど」
「ならば私は、己の目で見たいものを見て、歩みたい道を歩く」
コジローは穏やかに笑う。
「それで終わるならば、悪くない生であろう」
簡単には真似できない考え方だ。
この人は死を恐れていないのだろうか。
いや。
恐れがないのではない。
恐れがあっても、それを理由に自分の生き方を曲げないのだ。
「エリスは残念がるでしょうね」
「さて、どうであろうな」
「絶対に引き留めますよ、私が勝つまでやるんだからー!って」
「その時は、上手く逃げるとしよう」
「逃げられると思います?」
「逃げ足には自信があるのでな」
俺たちは同時に庭の向こうへ目を向けた。
エリスはギレーヌとの稽古を終え、地面に座り込んでいる。
しかし、こちらの会話に気づいたのか、突然顔を上げた。
「コジロー!」
すぐさま立ち上がり、こちらへ駆けてくる。
「今、逃げるって言った!?」
「ほう。随分と耳聡いことよ」
「どこへ逃げるつもりよ!」
「さて。まだ何も決めておらぬ」
「勝手にいなくなるのは許さないわよ!」
エリスがコジローの前へ立ちはだかる。
まるで今すぐ旅立とうとしている相手を捕まえるような勢いだった。
「少なくとも、返書が来るまではここにいるんですよ」
俺が言うと、エリスは少しだけ安心した顔をする。
だが、すぐにコジローを睨んだ。
「それなら、その間にわたしへ全部教えなさい!」
「全部とは、また欲深いな」
「剣のことよ!」
「剣の全てを数日で学べるならば、誰も苦労はせぬ」
「じゃあ、旅に出るのをやめなさい!」
「それは困る。」
「どうしてよ!」
「燕を屋敷へ閉じ込めては、空が寂しかろう」
「わたしは寂しくないわ!」
「ほう」
「……違う! 今のはそういう意味じゃないわよ!」
エリスの顔が赤くなる。
コジローは楽しそうに笑った。
この人は、エリスをからかう時だけ少し子供っぽくなる。
その様子を見ていると、数日後にはいなくなるという話が、あまり現実味を持たなかった。
返書を受け取り、本家へ戻る。
そして、再び風の向くまま旅へ出る。
きっと、それがこの人にとって当たり前の日常なのだろう。
◇
その夜。
屋敷の客間では、蝋燭の灯が静かに揺れていた。
コジローは長い刀を膝元へ置き、鞘と柄を布で丁寧に拭って見ていた。
目立った汚れがあるようには見えない。
それでも、その手つきに妥協はなかった。
まるで長年連れ添った友へ、今日一日の無事を感謝しているようにも見える。
不意に、扉が叩かれた。
「失礼する」
ギレーヌの声だった。
「入られよ」
扉が開く。
ギレーヌは部屋へ入り、少し離れた場所で立ち止まった。
「眠れないのか」
「いや」
コジローは首を横へ振る。
「旅では、寝る前に道具へ礼を尽くす癖があってな」
「礼?」
「命を預ける相棒故」
ギレーヌは、コジローの傍らに置かれた刀を見る。
「その剣、ずいぶん大切にしているんだな」
「当然よ」
コジローは静かに答えた。
「己の手足と同じものだ。疎かにはできぬ」
しばらく沈黙が流れる。
蝋燭の火が、風もないのに小さく揺れた。
やがて、ギレーヌが口を開く。
「昼間のエリスのことだが」
「うむ」
「世話になった」
短い礼だった。
コジローは少しだけ目を丸くした。
「礼を言われるほどのことではない」
「いや」
ギレーヌは首を横へ振った。
「あいつは、勝つことしか見えていなかった」
そこで、ほんの少しだけ表情を緩める。
「今日は、より相手を見るようになった」
「私の肩ばかり見ておったがな」
「あれでもいい」
ギレーヌは静かに言った。
「昨日より、よく見ている」
コジローは、それを聞いてかすかに笑った。
「ならば、良き芽が出たということか」
「ああ」
「されど、蕾を急かしてはならぬ」
「分かっている」
「そうか」
コジローは刀から手を離し、ギレーヌを見上げた。
「良き師よ」
ギレーヌは答えなかった。
ただ、わずかに視線を逸らす。
「私は、まだ未熟だ」
「誰しも同じよ」
コジローは窓の外へ目を向けた。
夜の庭を、淡い月明かりが照らしている。
「満開の花のみが美しいわけではない。蕾には蕾の、散り際には散り際の趣がある」
ギレーヌも窓の外を見る。
「未熟であることを知る者は、まだ伸びよう」
「……そうか」
「うむ」
それ以上、言葉は続かなかった。
だが、気まずい沈黙ではない。
剣士同士、多くを語らずとも十分なのだろう。
単にギレーヌが口下手のもあるが
やがてギレーヌは扉へ向かった。
「……おやすみ」
「うむ。良い夜を」
扉が静かに閉じる。
再び部屋には、コジロー一人だけが残った。
彼は膝元の刀へ手を添え、それから窓の外の月を見上げる。
「さて」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「雲は流れ、燕は空へ帰るか」
月の下を、薄い雲が静かに通り過ぎていく。
返書を届けたならば、再び旅へ出る。
コジローにとって、それはいつもどおりの日常へ戻るだけのことであった。
この屋敷で出会った者たちとも、間もなく別れる。
そのはずだった。
穏やかな夜の中で、彼らの運命を変える災厄は、音もなく近づいていた。