十歳の朝
目を覚ました時、最初に感じたのは違和感だった。
静かすぎる。
いつもなら、廊下の向こうから使用人たちの足音が聞こえる時間だ。
朝食の準備。
掃除。
エリスが誰かを怒鳴りつける声。
ボレアス邸の朝は、基本的に騒がしい。
なのに今日は、妙に物音が少ない。
いや。
よく耳を澄ませば、何かは聞こえる。
小声で話す声。
慌ただしく行き来する足音。
そして俺の部屋へ近づいたかと思えば、直前で引き返していく気配。
怪しい。
実に怪しい。
俺は寝台から起き上がり、窓の外を見た。
空は晴れている。
雲は少なく、朝の光が庭を照らしていた。
特に事件が起きた様子もない。
となれば、この不自然な静けさの理由は一つだ。
今日が何の日か、俺は覚えている。
俺の十歳の誕生日だ。
「……なるほど」
どうやら、何か企んでいるらしい。
俺としては、普通に祝ってくれるだけでも十分なのだが。
前世では誕生日など、年を重ねるたびに重苦しくなる日でしかなかった。
祝われても、どんな顔をすればいいか分からない。
祝われなくても、やっぱり傷つく。
我ながら面倒な人間だったと思う。
けれど、今は少し違う。
この屋敷へ来てから色々あった。
エリスに殴られたり、噛みつかれたり、追い回されたりもした。
何度も授業を投げ出され、俺の方が逃げ出したくなったほどだ。
それでも、少しずつではあるが、俺たちは前へ進んでいる。
祝ってもらえるなら。
素直に喜んでも、いいのかもしれない。
そんなことを考えながら着替えていると、扉が勢いよく開いた。
「ルーデウス!」
当然のようにエリスだった。
「おはようございます、エリスお嬢様」
「早く来なさい!」
「どこへです?」
「いいから!」
腕を掴まれる。
まだ上着の留め具を締め終えていない。
「ちょっと待ってください。着替えの途中です」
「遅いわよ!」
「今起きたところなんですから仕方ないでしょう」
「今日は寝坊しちゃ駄目な日なの!」
やはり何かあるらしい。
それにしても、秘密にする気が微塵もない。
「それで、どこへ行くんですか?」
「言ったら驚かないでしょ!」
「今の時点で何かあることは分かりましたよ」
「うるさい!」
エリスに引っ張られたまま廊下へ出る。
途中、何人もの使用人とすれ違った。
誰もが俺を見ると笑顔になり、すぐに視線を逸らす。
下手な芝居だ。
ただ、不思議と嫌な気分ではなかった。
◇
食堂へ入ると、フィリップ様とヒルダ様がすでに席についていた。
ギレーヌもいる。
そして、少し離れた場所にはコジローが立っていた。
いつもどおりの穏やかな表情。
背には長いカタナ。
だが、その傍らには、小さな旅支度がまとめられていた。
俺は思わず足を止めた。
「コジローさん、その荷物は……」
「返書が届いてな」
コジローは答えた。
「今朝方、部屋へ届けられた」
「じゃあ、もう行くんですか?」
「いや」
短く否定し、食卓へ視線を向ける。
「どうやら今日は、急いで発つには無粋な日らしい」
その言葉に、エリスが得意げに胸を張った。
「当然よ!」
「お嬢が生まれた日ではあるまい」
「分かってるわよ!」
フィリップ様が苦笑する。
「明日の朝に発たれるそうです。本日はルーデウス君の祝いに付き合ってくださるとのことでね」
「そうですか……」
明日。
分かっていたことだ。
コジローは返書を本家へ届け、その後は再び旅へ出る。
この屋敷に居続けるつもりはない。
それでも、いざ別れの日が明確になると、胸の中へ小さな穴が開いたような気がした。
「なんだ、その顔は」
コジローが笑う。
「今日一日はまだ客人よ。別れを惜しむには早かろう」
「そうですね」
「それに、縁というものは距離で切れるものでもあるまい」
「また難しいことを言ってます?」
「さて。今のはさして難しくもなかろう」
俺たちが話している間、エリスは落ち着かない様子で何度もフィリップ様を見ていた。
早く始めろ、と目で訴えている。
フィリップ様もそれに気づいたらしい。
「では、そろそろよいでしょう」
その言葉を合図に、使用人たちが食堂へ入ってきた。
料理が運ばれる。
普段より明らかに豪華だ。
焼かれた肉。
色鮮やかな果物。
香辛料の匂い。
そして中央には、大きな菓子まで置かれた。
「ルーデウス君」
フィリップ様が立ち上がる。
「十歳の誕生日、おめでとう」
続いて、ヒルダ様も笑みを浮かべた。
「エリスの教育に力を尽くしてくださったこと、感謝しています」
「ルーデウス!」
エリスが我慢できなくなったように声を上げる。
「誕生日おめでとう!」
声が大きい。
けれど、その顔には嘘のない笑顔があった。
「ありがとうございます」
思ったより、すんなりと言葉が出た。
もっと照れるかと思っていた。
もっと居心地が悪くなるかと思っていた。
けれど、今は素直に嬉しかった。
「ルーデウス」
ギレーヌが俺を見る。
「おめでとう」
「ありがとうございます、ギレーヌ」
最後にコジローへ視線を向ける。
彼は杯を持ち上げ、静かに笑った。
「十年か」
「はい」
「人の十年とは、春の草木よりも目まぐるしいものよな」
「コジローさんに言われると、老人みたいですね」
「はは。小僧よりは幾分長く生きておる」
「幾分どころじゃないでしょう」
「さて、どうであろうな」
相変わらず、自分のことは曖昧にする。
コジローは杯を傾ける前に、わずかに頭を下げた。
「良き日を迎えたな、ルーデウス」
小僧ではなく、名前で呼ばれた。
それだけで、いつもより真面目な言葉なのだと分かった。
「これから歩む道に、良き縁と良き風があることを願おう」
「ありがとうございます」
返事をすると、コジローは満足そうに杯を口へ運んだ。
◇
食事が一段落した頃、エリスが勢いよく立ち上がった。
「次よ!」
「まだ何かあるんですか?」
「あるに決まってるでしょ!」
「エリス。少し落ち着きなさい」
ヒルダ様に窘められるが、エリスは座らない。
両手を背中へ回し、何かを隠している。
いや。
あの大きさでは隠せていない。
細長い包み。
人の背丈ほどもある。
「目を閉じなさい!」
「どうしてです?」
「いいから閉じるの!」
俺は言われたとおり目を閉じた。
がさがさと布の擦れる音がする。
何かを床へぶつけた音。
小さくギレーヌがため息をついた。
「もういいわよ!」
目を開ける。
エリスが長い杖を抱えていた。
深い青色を帯びた本体。
先端には、大きな魔石が据えられている。
ひと目で分かる。
安物ではない。
いや、安物でないどころか、俺がこれまで見た魔術道具の中でも格が違う。
「これは……」
「あなたの杖よ!」
エリスは得意げに言った。
「わたしが選んだの!」
後ろでフィリップ様がわずかに咳払いをした。
どうやら、選定には大人たちも関わっているらしい。
それでも、エリスが俺のために何かを選ぼうとしたこと自体が嬉しかった。
「受け取りなさい!」
杖を差し出される。
俺は両手で受け取った。
重い。
だが、不思議と持ちにくさはない。
手へ馴染む。
内包された魔力が、杖を通して微かに伝わってくるようだった。
「どう?」
エリスが顔を覗き込んでくる。
「気に入った?」
「はい」
「本当に?」
「本当に気に入りました」
俺が答えると、エリスはぱっと笑った。
それから、照れ隠しをするように顔を逸らす。
「当然よ。わたしが選んだんだから!」
いつもの言い方だった。
けれど、その耳は少し赤い。
俺は杖を握り直した。
前世も含めて、これほど立派な贈り物を受け取ったことがあっただろうか。
値段ではない。
俺のために考え、選び、用意してくれた。
その事実が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
「良き杖よな」
コジローが杖を眺めていた。
「分かるんですか?」
「魔術の心得はない」
そう言って、魔石へ目を向ける。
「されど、道具が持ち主を待っておったことくらいは分かる」
「杖が僕を?」
「そう見えただけよ」
また、詩人のようなことを言う。
だが、今回は嫌いではなかった。
「せっかくだから、試しに行くわよ!」
エリスが俺の腕を掴んだ。
「今からですか?」
「当たり前でしょ!」
「今日は祝いの席なのですが」
「だからよ! もらったらすぐ使いたいでしょ!」
それは、まあ、否定できない。
俺もこの杖でどれほど魔術が変わるのか気になっている。
フィリップ様を見る。
彼は最初から予想していたように笑っていた。
「馬車を用意させましょう。街の外であれば、存分に試せます」
「やった!」
「ギレーヌも同行してください」
「ああ」
話が早い。
俺は手元の杖を見る。
エリス。
ギレーヌ。
そして今日で最後になるかもしれないコジローとの時間。
ならば、一緒に来てもらいたい。
「コジローさんも来ませんか?」
俺が尋ねると、コジローは少しだけ目を細めた。
「魔術の試し撃ちか」
「はい。明日には出発するんですよね」
「左様」
「でしたら、最後に見ていってください」
コジローは俺と杖を交互に見る。
それから、窓の外へ視線を移した。
朝から晴れていた空には、いつの間にか薄い雲が広がり始めている。
「さて」
彼は何かを確かめるように、しばらく空を見ていた。
「どうかしましたか?」
「いや」
コジローは視線を戻し、いつものように笑った。
「祝いの席で得た縁だ。最後まで見届けるとしよう」
「決まりね!」
エリスが声を上げる。
「早く行くわよ!」
俺は杖を持ち、立ち上がった。
この時の俺は、新しい杖を試すことしか考えていなかった。
エリスも、早く俺の魔術を見たいと目を輝かせていた。
ギレーヌはいつもどおり無口だった。
コジローだけが、もう一度窓の外へ目を向けていた。
空を流れる雲を。
風に揺れる木々を。
そして、遠くにある何かを探るように。
だが、その横顔に浮かんだ僅かな翳りの意味を。
この時の俺は、まだ知らなかった。