ターニングポイント一
俺たちは、城塞都市ロアの郊外にある丘へと来ていた。
目的は二つ。
一つは、誕生日にもらった杖――『傲慢なる水竜王《アクアハーティア》』の性能を確かめること。
そしてもう一つは、以前交わした約束どおり、ギレーヌに聖級水魔術を見せることだ。
当然のようにエリスもついてきた。
さらに、明日の朝にはロアを発つ予定のコジローも同行している。
「最後まで見届けると言ったのでな」
本人はそう言っていた。
俺としても、最後に自分の魔術を見てもらえるのは嬉しい。
アクアハーティアを地面へ立て、巻きつけていた布を外す。
先端には大きな魔石が嵌め込まれていた。
こんな高価なものを、街中で堂々と見せびらかすわけにはいかない。
魔石だけでも、下手な家が一軒建つほどの価値があるかもしれないのだ。
盗賊に目をつけられてはたまらないので、ここへ来るまでは布で覆っておいた。
「早くやりなさい!」
エリスが待ちきれない様子で声を上げる。
「まずは試し撃ちです。いきなり聖級魔術を使って、予想以上の威力が出たら危ないでしょう」
「ここまで離れてきたんだから平気よ!」
「そういう問題ではありません」
俺たちが町から十分に離れた丘まで来たのも、大規模な水魔術で周囲に被害を出さないためだ。
だからといって、制御できるかも分からない杖でいきなり全力を出すほど、俺も無鉄砲ではない。
まずは慣れた水弾を作ってみる。
いつもと同じ感覚で、杖へ魔力を流した。
「おお……」
杖の先に現れた水球は、予想より遥かに大きかった。
普段の感覚で魔力を注いだだけなのに、直径は俺の身長に迫るほどもある。
アクアハーティアという名に恥じない、水魔術への増幅性能らしい。
「大きいわ!」
エリスが目を輝かせる。
「それを撃つの?」
「このまま撃ったら、試し撃ちだけで辺りが水浸しになりますよ」
まずは小さくしよう。
魔力を調節し、水球を圧縮する。
だが。
「あれ?」
一瞬で消えた。
いや、消えたわけではない。
小さくなりすぎて、肉眼ではほとんど見えなくなったのだ。
試しに飛ばしてみると、遠くの岩へ小さな穴が開いた。
威力は十分。
というより、十分すぎる。
「極端だな……」
大きくすれば大きくなりすぎる。
小さくしようとすれば、今度は針のように縮んでしまう。
細かな調節が難しい。
しかし、それは欠点というより、俺がまだ杖の倍率に慣れていないだけだろう。
少しずつ注ぐ魔力量を変え、大きさと圧縮率を確かめていく。
水球を作っては消し、作っては飛ばす。
エリスは最初こそ歓声を上げていたが、似たような作業が延々と続くにつれ、少しずつ退屈そうな顔になっていった。
「まだ終わらないの?」
「もう少しです」
「さっきもそう言ったわよ!」
「今、重要なところなんです」
ギレーヌは文句も言わず、俺の魔術を観察している。
コジローは少し離れた草の上に座り、刀を傍らへ置いていた。
魔術そのものより、風に揺れる草や、飛び散った水滴が陽光にきらめく様子を眺めているようにも見える。
およそ三十分ほど試したところで、ようやく感覚が掴めてきた。
水魔術に関しては、だいたい五倍。
同じだけの魔力を使えば、威力が普段の五倍近くになる。
逆に、いつもと同じ威力を出したいなら、消費する魔力は五分の一程度で済む。
例えるなら、魔術を拡大するためのレンズだろうか。
倍率が高いぶん、焦点を合わせるのが難しい。
けれど、慣れれば相当なことができそうだ。
「ど、どう?」
エリスが、不安そうに尋ねてきた。
先ほどまでの威勢はどこへ行ったのだろう。
俺が黙って試し続けているので、気に入らなかったのではないかと思ったらしい。
安心してほしい。
俺は今、新しい玩具を与えられた子供そのものだ。
「調整は難しいですけど、すごい杖ですよ」
「そ、そう!」
エリスの顔が一気に明るくなる。
「よかった!」
その後、他の属性についても軽く試してみた。
火魔術はおよそ二倍。
土と風は三倍ほど。
水に比べれば控えめだが、それでも破格の性能だ。
ただし、複数の属性を同時に扱おうとすると、出力の違いが邪魔をする。
水と風を同じ感覚で混ぜようとすれば、水だけが膨れ上がってしまう。
混合魔術に使うには、属性ごとに魔力配分を調節しなければならない。
面倒ではある。
だが、それも慣れの問題だろう。
「もういいでしょ!」
エリスが俺の肩を揺さぶった。
「早く一番すごいのを見せなさい!」
「分かりました、分かりました」
俺はアクアハーティアを両手で持ち、丘の上に立った。
これから使うのは聖級水魔術。
広範囲に豪雨を降らせる、大規模な魔術だ。
俺がこの場所を選んだのも、そのためである。
「それでは、皆様お待ちかね」
芝居がかった口調で、杖を掲げる。
「ルーデウス・グレイラットの最強最大の奥義をご覧に入れましょう」
「わあ!」
エリスが嬉しそうに手を叩く。
ギレーヌも興味深そうにこちらを見ていた。
コジローは草の上から立ち上がると、服についた葉を軽く払った。
「随分と大仰な前口上よな」
「こういうのは雰囲気が大事なんですよ」
「左様か」
「では、行きます」
せっかくなので、無詠唱ではなく詠唱を使ってみよう。
聖級魔術ともなれば、詠唱も長く荘厳だ。
両手で杖を天へ掲げる。
「集えよ魔力! 雄大なる水の精霊にして、天に上がりし――」
そこまで口にしたところで。
俺は、異変に気づいた。
「あれ?」
「む?」
ギレーヌが短く声を漏らす。
「なによ、あれ?」
エリスの視線も、俺と同じ場所へ向いた。
全員が空を仰ぐ。
空の色が変わっていた。
晴れていた青空が、徐々に濁っていく。
紫と茶色が混ざり合い、空一面にマーブル模様を描いている。
雲ではない。
空そのものが、気味の悪い色へ染まっているように見えた。
「なんだ……?」
俺は掲げていた杖を下ろした。
聖級魔術の詠唱は中断する。
以前から浮かんでいた赤い球体。
その周囲を中心に、異様な色が広がっていた。
ギレーヌが無言で眼帯へ手を掛ける。
革の眼帯が外された。
その下から現れたのは、濃緑色の瞳だった。
隻眼ではなかったのか。
三年近く一緒にいたのに、初めて知った。
ギレーヌはその瞳で、空を凝視している。
魔力を見ているのだろうか。
「ギレーヌ。あれは何ですか?」
「分からん」
低い声だった。
その顔から、普段の落ち着きが消えている。
「凄まじい魔力だ……!」
あのギレーヌが、これほど警戒している。
俺にはそれだけで、空の異変が尋常ではないことが分かった。
コジローも空を見ていた。
彼は魔力について何も語らない。
ただ、いつもの薄い笑みを消し、背の刀へ静かに手を添えていた。
ギレーヌはしばらく空を睨んだあと、眼帯を元へ戻した。
「とりあえず、町へ戻りましょうか」
俺は提案した。
空で何が起きているのかは分からない。
槍でも岩でも降ってくるなら、屋根のある場所へ避難した方がいい。
「いや」
ギレーヌが首を振る。
「町へ近づくほど、魔力が濃くなっている」
「では、町から離れた方が?」
「そうかもしれん」
「でも、それなら屋敷へ知らせないと!」
エリスが声を上げる。
そのとおりだ。
フィリップ様やヒルダ様に知らせ、必要なら町の人々を避難させなければならない。
「では、あたしが戻って――」
ギレーヌが言葉を切った。
耳が大きく動く。
眼光が一瞬で鋭くなった。
「ルーデウス! 伏せろ!」
反射的にしゃがんだ。
その頭上を、何かが猛烈な速度で通り過ぎる。
同時に。
甲高い金属音が、頭のすぐ近くで弾けた。
「っ……!」
風圧が髪を巻き上げる。
冷たい感触が、頭頂部を撫でていった。
何が起きた。
今、俺は何をされた?
視線を上げる。
俺の頭上には、二本の刃が交差していた。
一方は、大振りのダガー。
もう一方は、コジローの長いカタナ。
コジローはダガーを正面から受け止めてはいなかった。
刃の側面へ自分の刀を斜めに添え、力の向きを僅かに変えている。
その僅かな差で、ダガーは俺の頭を割る軌道から外れていた。
ギレーヌの警告に従うのが一瞬でも遅ければ。
コジローが刃を逸らしていなければ。
俺の命は、そこで終わっていただろう。
「……ほう」
襲撃者が、初めて声を発した。
「受けたのではない。流したか」
「さて」
コジローは俺の前に立つ。
その声は普段と変わらない。
だが、目には冷たい光が宿っていた。
「幼子の首を狙うとは、随分と趣味の悪い御仁よな」
「貴様!」
ギレーヌが吠える。
「コジロー、子供たちを!」
「心得た」
ギレーヌの姿が、一瞬だけぶれた。
腰の剣へ手を掛けたと思った時には、すでに抜き放っている。
次に見えた時、彼女は剣を振り終えた姿勢で止まっていた。
剣神流・剣聖技――光の太刀。
完全に極めれば、剣先が光の速度へ達するとされる必殺の一撃。
剣神流が三大流派最強と呼ばれる理由の一つだ。
だが。
「むっ」
ギレーヌが眉をひそめた。
手応えがなかったのだ。
外した。
いや、躱された。
あの目にも留まらない一撃を。
コジローの目が、僅かに細くなる。
ギレーヌが放った剣の軌跡。
そして、それを避けて俺の背後へ移った敵。
その双方を確かめるように視線を動かす。
「……見事な初太刀よ」
短い感嘆だった。
いつもの軽口ではない。
同じく剣を扱う者として、ギレーヌの一撃を認めた声だ。
そして、背後へ向き直る。
「されど、あれを躱すか」
俺もゆっくりと振り返った。
そこに、一人の男が立っていた。
金髪。
白い学生服を思わせる、前をきっちりと留めた服。
顔は黄色い仮面に覆われている。
狐に似た動物を模したものだろうか。
右手には大振りのダガー。
先ほど俺の頭を掠め、コジローに軌道を逸らされた刃だ。
「何者だ! 名を名乗れ!」
ギレーヌが怒鳴る。
男は答えなかった。
次の瞬間。
黄色い仮面が、強烈な光を放った。
「っ!」
視界が真っ白に染まる。
俺は咄嗟に目を閉じた。
「ガァッ!」
ギレーヌの咆哮。
続いて、金属が衝突する音。
一度。
二度。
三度。
地面を蹴り、何者かが高速で動き回る音が聞こえる。
何も見えない。
エリスの腕を掴もうと手を伸ばす。
だが、その前に肩を引かれた。
「動くな」
コジローの声だった。
俺とエリスを背後へ下げ、自分が前へ出ている。
視界を奪われた状態でも、彼の声には迷いがない。
やがて白く塗り潰されていた視界が、少しずつ戻ってくる。
ギレーヌは俺たちの前に立っていた。
眼帯が外れている。
先ほど空を確認した時とは逆の目を使い、閃光で視界を奪われた直後にも相手の動きを捉えたのだろう。
濃緑色の瞳が、仮面の男を睨んでいる。
「貴様、何者だ。グレイラット家に敵対する者か!」
男が静かに答える。
「光輝のアルマンフィ。それが我が名」
「アルマンフィ?」
「この異変を止めるために来た。ペルギウス様の命である」
ペルギウス。
聞き覚えがある。
魔神ラプラスを倒した三英雄の一人。
空中城塞ケィオスブレイカーに住み、十二人の使い魔を従える召喚術師。
そこまで思い出したところで、アルマンフィの名にも記憶が繋がった。
ペルギウスの十二の使い魔の一人。
光を司る精霊。
「気をつけてください、ギレーヌ!」
俺は叫んだ。
「文献によれば、そいつは光の速度で移動します!」
「ルーデウス。お前はお嬢様と下がっていろ」
ギレーヌはアルマンフィから目を離さない。
「コジロー」
「心得ておる」
俺はエリスを背中に庇うようにして、二人の邪魔にならない位置へ下がった。
離れすぎてはいけない。
何かあればギレーヌが助けに入れる距離。
俺も援護できる距離。
その前に、コジローが立っている。
刀を抜いたまま、アルマンフィだけでなく周囲全体を警戒していた。
ギレーヌが前を引き受けた以上、自分は俺たちの護衛から動かないつもりなのだろう。
「女、どけ」
アルマンフィが告げる。
「その小僧を殺せば、異変が止まるやもしれん」
小僧とは俺のことだ。
どうやら、俺が空の異変を引き起こしたと思われているらしい。
無理もない。
球体の真下で、俺は巨大な杖を掲げ、大量の魔力を集めようとしていた。
傍から見れば、どう考えても怪しい。
「あたしは剣王ギレーヌ・デドルディアだ」
ギレーヌが名乗る。
「あれと、あたしらは関係ない。引け!」
「剣王だと?」
アルマンフィの声に、初めて僅かな迷いが混じった。
「信じられるか。証拠を示せ」
「見よ!」
ギレーヌが、自らの剣を握ったまま拳を突き出す。
「剣神七本剣の一つ、名刀『平宗』だ! この剣を見ても信じられんか!」
あの剣に、そんな名前があったのか。
平宗。
ヒラ胸。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「師と一族に誓え」
アルマンフィが言う。
ギレーヌは迷わなかった。
「我が師、剣神ガル・ファリオンと、ドルディア族の名誉に誓う!」
丘の上に、彼女の声が響く。
コジローは何も言わない。
ただ、ギレーヌの横顔を静かに見ていた。
剣の師と一族の名を懸けた誓い。
その重さを、彼も理解しているのだろう。
アルマンフィは数秒間、ギレーヌを見つめた。
「デドルディア……よかろう」
やがて、ダガーを下ろす。
「無実でなかった場合、後日ペルギウス様が沙汰を下す」
「構わん」
アルマンフィはダガーを収めた。
どうやら、俺たちの潔白は認められたらしい。
口頭での誓いだけで信用するというのは、前世の感覚では理解しづらい。
だが、それだけ剣王ギレーヌ・デドルディアの名と、その誓いには価値があるのだろう。
「お前たちでないのなら、それでいい」
「……いきなり子供へ斬りかかっておいて、詫びもないのか」
ギレーヌが低く言う。
「このような場所で怪しいことをしている方が悪い」
アルマンフィは悪びれる様子もなく、背を向けた。
「何とも勝手な御仁よ」
コジローが呟く。
刀はまだ納めていない。
相手が武器を収めたからといって、完全に警戒を解いたわけではないらしい。
俺も少し落ち着こう。
整理する。
まず、空に異変が起きた。
続いて、本に登場するような英雄の使い魔が現れ、俺を殺そうとした。
アルマンフィは、俺が異変の原因だと思っていた。
つまり、彼自身も空の異変の正体を知らない。
しかし、ペルギウスが調査を命じたのなら、何か手掛かりくらい持っているかもしれない。
「あの……」
俺が声を掛けようとした。
まさに、その瞬間だった。
「あ」
俺の目が、空から伸びる一本の光を捉えた。
白く染まりつつある空から、細い光が地面へ向かって伸びている。
光が地上へ触れた。
次の瞬間。
それは凄まじい速度で膨張した。
光の奔流。
津波のように広がり、あらゆるものを消し去りながら迫ってくる。
館が消える。
町が消える。
城壁が消える。
木々も、草花も、地面さえも。
白い光に飲み込まれ、跡形もなく消えていく。
アルマンフィは振り返った。
迫りくる光を見ると、金色の輝きへ姿を変え、一瞬で消えた。
ギレーヌも振り返る。
次の瞬間には、こちらへ向かって走り出していた。
「お嬢様!」
だが、届かない。
光が彼女の身体を飲み込む。
ギレーヌの姿が、白い奔流の中へ消えた。
エリスは動かなかった。
何が起きているのか理解できず、呆然と光を見つめている。
「エリス!」
せめて彼女だけでも守らなければ。
俺はエリスへ飛びつき、その身体に覆いかぶさった。
ほぼ同時に、肩へ腕が回された。
コジローだった。
俺とエリスをまとめて抱え込み、自らの身体を光の方へ向ける。
右手には、抜き放ったままの長刀。
左腕は、決して俺たちを離すまいと強く回されていた。
「離れるな」
短い言葉だった。
直後。
純白の光が、あたりの全てを支配した。
地面へ沈むのか。
空へ吸い上げられるのか。
上下も分からない。
どこかへ引きずり込まれていくような感覚の中、意識が遠のいていく。
それでも、俺はエリスを離さなかった。
エリスも、俺の服を強く掴んでいた。
そして、俺たちを抱えるコジローの腕も、最後まで緩むことはなかった。
その日。
フィットア領は消滅した。