第七月 白き異客
白き異客
夢を見ていた。
果てのない闇の中を、途方もない速さで運ばれている。
上も下もない。
風を切る音もなく、ただ景色とも呼べぬ光の筋だけが、四方へ流れていく。
腕の中には、二つの温もりがあった。
ルーデウスとエリス。
純白の光が迫った瞬間、ルーデウスはエリスへ覆いかぶさった。
小次郎は、さらにその二人を腕の内へ抱き寄せた。
どこへ流されているのかは分からない。
何が起きているのかも分からない。
ただ、ここで手を離せば二度と取り戻せない。
そんな確信だけがあった。
小次郎は二人を抱いたまま、流れの中を進み続けた。
やがて、闇が白へと変わった。
◇
目を開けた時、小次郎は真っ白な空間に立っていた。
空もない。
大地もない。
風も、草木の匂いも、鳥の声もなかった。
見渡すかぎり、白だけが続いている。
夢であろう。
そう理解するまでに、さほど時間は掛からなかった。
小次郎は周囲へ視線を巡らせる。
二人の姿はない。
背に担いでいたはずの長刀もなかった。
「やあ。初めましてかな」
唐突に声がした。
中性的な声だった。
男とも女ともつかない。
振り向けば、いつの間にか一人の人影が立っていた。
のっぺりとした白い顔。
穏やかに笑っているように見える。
しかし、その顔立ちを覚えようとした瞬間、認識した特徴が記憶から抜け落ちた。
見えているはずなのに覚えられない。
まるで全身にモザイクでも掛かっているかのようだった。
「こんにちは、コジロー君」
名を告げた覚えはない。
「聞こえているよね?」
小次郎は白い人影を眺めた。
声を出してはいない。
それでも、こちらの意志は伝わっているらしい。
「うん。適応が早くて助かるよ」
どうやら、夢の中では言葉にする必要もないようだ。
あるいは――。
そこまで考え、小次郎は思考を止めた。
分からぬものを、今すぐ一つの答えへ結びつける必要はない。
「それで..お主は何者かな」
「見て分からない?」
「さて。白い霞を纏った怪人には見えるが」
「怪人かあ。ひどい言われようだね」
人影は大仰に両手を広げた。
「ボクは神様だよ。ヒトガミだ」
「左様か」
「気のない返事だなあ」
小次郎は答えなかった。
神を名乗る者が神であるかどうかなど、今は重要ではない。
「二人は無事か」
「ルーデウス君とエリス君?」
ヒトガミは、少し意外そうに首を傾げた。
「自分のことより、まず二人かい?」
「答えを聞こう」
「生きているよ。君も含めて、三人とも肉体は無事だ」
小次郎の表情は変わらない。
ただ、胸の内に張られていた糸が、わずかに緩んだ。
「今はいずこにいる」
「魔大陸」
その名には聞き覚えがあった。
中央大陸から遥か遠く。
魔族が暮らし、強大な魔物が跋扈する土地。
フィリップの屋敷で、世界の地理について聞いた際にも名が出ていた。
「大規模な魔力災害に巻き込まれてね。君たちは、ずいぶん遠くまで転移させられたんだ」
「他の者は」
「さあ。ボクが今教えられるのは、君たち三人のことだけだよ」
教えられないのか。
教えるつもりがないのか。
小次郎は追及しなかった。
答える気のない者へ問いを重ねても、得られるものは少ない。
「魔大陸は危険な場所だ」
ヒトガミが続ける。
「魔物は中央大陸よりずっと強い。人里も少ない。それに、君は土地のことも、向こうの言葉も知らないだろう?」
「そうさな」
否定する理由はなかった。
小次郎は旅人ではあるが、この世界の全てを知る者ではない。
まして魔大陸へ足を踏み入れたことは一度もない。
子供二人を連れて故郷まで戻るとなれば、容易な旅ではないだろう。
「自信はあるのかい?」
「ないな」
「あれ。随分と素直だね」
「知らぬ土地を知らぬと認めることに、恥はあるまい」
「でも、帰るつもりなんだろう?」
「当然よ」
小次郎の答えに迷いはない。
エリスを無事に家へ帰す。
フィットア領にグレイラット家が残っているのかさえ、今は分からない。
それでも、あの娘を安全な場所へ送り届けるまでは、受けた恩を返したことにはならない。
「君は面白いね」
「それで?他者の難儀を眺めるのが、神の楽しみか」
「悪趣味みたいに言わないでくれよ。ボクは君たちを助けようとしているんだ」
親しげな声。
柔らかな笑み。
だが、小次郎の胸に信頼が生まれることはなかった。
不快でもない。
敵意もない。
ただ、目の前に素性の知れぬ者がいる。
それだけだった。
「ボクは君たちの味方だよ」
小次郎は答えない。
沈黙が白い空間へ落ちた。
「……疑っているのかい?」
「用向きを聞こう」
ヒトガミは、しばし小次郎を見つめた。
やがて、困ったように肩をすくめる。
「つれないねえ。まあいいや。助言をしてあげるよ」
「聞こう」
「目を覚ました時、近くに一人の男がいる。その男を頼るといい。そして、彼を助けるんだ」
「名は」
「会えば分かるよ」
「その者は、こちらの言葉を解するのか」
「少なくとも、君たちと意思を通わせることはできる」
曖昧な答えだった。
だが、今はそれで足りる。
目覚めた時に近くにいる男。
その者を頼り、助ける。
小次郎は、その言葉を記憶へ留めた。
「信じてくれるのかい?」
返答はない。
「ボクは神様なんだけどなあ」
「それは先ほども聞いた」
「それだけ?」
「会えば分かるのであろう」
男の善悪も。
ヒトガミの助言が真実かどうかも。
全ては、己の目で見てから決めればよい。
それ以上の説明を、小次郎は口にしなかった。
ヒトガミはしばらく待っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「君とは、あまり話が進みそうにないね」
「それは難儀よな」
「誰のせいだと思ってるんだい?」
小次郎は薄く笑うだけで答えなかった。
「仕方ない。当初の予定どおりにしようかな」
「当初の予定?」
「そもそも、ボクが話そうとしていたのは君じゃないんだ」
小次郎の目が僅かに細くなる。
だが、誰なのかとは問わなかった。
尋ねずとも、候補は一人しかいない。
「安心しなよ。ボクは彼の味方だから」
小次郎はその言葉にも答えなかった。
味方であるか否かは、本人が名乗って決まるものではない。
後の行いが示すことだ。
「じゃあ、そろそろお別れだ」
白い空間が、ゆっくりと薄れていく。
ヒトガミの姿もまた、背景へ溶け始めた。
「また会おう、コジロー君」
「さて」
小次郎は消えゆく白い影を静かに見据えた。
「再会とは、片方のみで決めるものでもあるまい」
「本当に、つれないなあ」
ヒトガミの声が遠ざかる。
白い世界が崩れ、再び闇が押し寄せてきた。
目覚めた時に近くにいる男を頼れ。
そして、その男を助けろ。
助言は覚えておく。
それが恩であるかは、結果を見てから決めればよい。
小次郎の意識は、二人の無事を確かめることだけを求めながら、再び静かな闇へ沈んでいった。