スペルド族
目を覚ますと、夜だった。
頭上には、見たこともないほど多くの星が浮かんでいる。
木の爆ぜる音。
揺れる炎。
どうやら俺は、焚き火のそばで地面に寝かされていたらしい。
「……はっ!」
慌てて自分の身体を確かめる。
小さな手。
細い腕。
三十四年間付き合った、鈍重で役立たずな肉体ではない。
ルーデウスの身体だ。
よかった。
あの十年間は、夢じゃなかった。
白い空間で蘇った前世の記憶が、急速に遠ざかっていく。
代わりに残ったのは、全身へモザイクを掛けたような、胡散臭い自称神の姿だった。
ヒトガミ。
目覚めた時、そばにいる男を頼れ。
そして、その男を助けろ。
最後に、あいつはそう言った。
信用したわけじゃない。
だが、聞いたことまで忘れる必要はないだろう。
身体を起こす。
背中が痛い。
辺りには、赤茶けたひび割れた大地が広がっていた。
草も木も、ほとんど見当たらない。
虫の声さえ聞こえず、焚き火の音だけが夜の中へ吸い込まれている。
アスラ王国では見たことのない景色だ。
なら、ヒトガミが言っていたことは本当なのだろう。
ここは魔大陸。
「そうだ、エリス……!」
振り返る。
すぐ後ろで、エリスが俺の服の裾を握って眠っていた。
赤い髪が地面へ広がり、肩から下には見覚えのないマントが掛けられている。
その傍らには、誕生日にもらった杖――傲慢なる水竜王《アクアハーティア》も転がっていた。
呼吸は安定している。
目立った外傷もない。
「よかった……」
まず一人。
そして、エリスから少し離れたところに、もう一人倒れていた。
「コジロー」
群青色の髪。
見慣れた長身。
仰向けに横たわり、静かに呼吸をしている。
背に担いでいた長刀は外れていたが、鞘に収まったまま、手の届く位置へ置かれていた。
肩を軽く揺すってみる。
反応はない。
しかし、脈はある。
怪我らしい怪我も見当たらなかった。
俺は胸を撫で下ろした。
エリスも、コジローも無事だ。
あの光に呑み込まれた時、コジローが俺たちをまとめて抱き寄せたからだろうか。
三人一緒に、同じ場所へ飛ばされたらしい。
だが、ギレーヌの姿はない。
最後に見たのは、白い光の中をこちらへ駆けてくる姿だった。
「……ギレーヌ」
あの人なら、きっと生きている。
今は、そう信じるしかなかった。
周囲を見回す。
「――っ」
焚き火の向こう側に、人影があった。
男だ。
微動だにせず、こちらを観察している。
敵意を向けられている感じはしない。
むしろ、俺がどんな反応をするのか、恐る恐る待っているように見えた。
そのことへ安堵しかけて、男の外見に気づく。
エメラルドグリーンの髪。
白磁のような肌。
額に埋め込まれた、赤い宝石のような感覚器官。
傍らに置かれた三叉の槍。
そして、顔を縦に走る傷。
スペルド族。
ロキシーの教えが脳裏をよぎった。
近づくな。
話しかけるな。
出会ったら、すぐに逃げろ。
俺は反射的にエリスへ手を伸ばし――寸前で止まった。
逃げて、どうする。
ここは魔大陸だ。
道も分からない。
近くに町があるかも分からない。
魔物がどれほど強いのかも知らない。
コジローがいるのは心強い。
だが、彼がこの土地についてどれほど知っているのかは分からない。目を覚ましたら聞いてみるべきだろう。
それに、いくら剣が強くても、地図や水や食料まで斬って出せるわけではない。
ヒトガミは信じられない。
だが、だからといって目の前の男まで、見た目だけで敵と決めるべきだろうか。
焚き火を起こしたのは、おそらく彼だ。
エリスへマントを掛けたのも。
俺たちの武器を奪わず、すぐ近くへ置いているのも。
少なくとも、眠っている間に俺たちを殺すつもりはなかった。
ロキシーも、実際にスペルド族と会ったことはないと言っていた。
恐ろしいという話が、全て嘘だとは思わない。
だが、誤解が混じっている可能性だってある。
まず話してみよう。
それから、自分で判断すればいい。
「おはようございます」
「……ああ」
挨拶をすると、返事が返ってきた。
さて、なんと聞くべきか。
「あなたは、神様の使いですか?」
男が僅かに眉を寄せた。
「何を言っているのか分からん。お前たちは空から落ちてきた。人族の子供は寒さに弱い。だから火を起こした」
ヒトガミから聞かされて待っていたわけではないらしい。
「では、僕たちを助けてくださったんですね。ありがとうございます」
男は、奇妙なものを見るように俺を見た。
「……お前には、俺の姿が見えていないのか」
「いえ。ちゃんと見えていますよ」
「スペルド族について、何も教わらずに育ったのか?」
「師匠から、絶対に近づくなとは言われましたね」
「なら、なぜ逃げない」
男の問いには、怒気よりも困惑が滲んでいた。
自分を見れば逃げ出す。
それが、彼にとっての常識なのだろう。
「助けてくれた方を、見た目だけで怖がるのは失礼でしょう」
本当は、警戒している。
だが、それまで馬鹿正直に言う必要はない。
男はしばらく俺を見つめた後、焚き火へ枯れ枝を放り込んだ。
「変わった子供だ」
炎の中で枝が弾ける。
エリスの肩が僅かに動いた。
まずい。
起きれば、十中八九騒ぐ。
その前に、最低限の話は済ませておこう。
「僕はルーデウス・グレイラットです。あなたのお名前は?」
「ルイジェルド・スペルディア」
やはり、スペルド族。
特定の魔族は、種族ごとに決められた苗字を持つ。
家名なんてものをつけているのは、基本的に人族だけだ。たまに他の種族も、酔狂でつけたりするらしいが。
「ルイジェルドさん。あちらの赤毛の子はエリスといいます。少々……いえ、かなり騒がしい子なので、先に謝っておきます」
「構わん。慣れている」
何に慣れているのかは聞かないでおこう。
「それで、ここは魔大陸のどの辺りでしょうか」
「北東部のビエゴヤ地方だ。旧キシリス城からも遠くはない」
魔大陸の北東。
地図で見た記憶が正しければ、アスラ王国からは世界の端と端ほど離れている。
「僕たちは、中央大陸のアスラ王国から来ました。フィットア領のロアという町です」
「アスラか。遠いな」
「やっぱり、そうですよね」
「だが、心配するな。故郷まで送り届ける」
あまりにもあっさりとした言葉だった。
「近くの集落まで案内していただければ十分ですよ。そこから先は、なんとかします」
「子供を二人だけで放り出すつもりはない」
ルイジェルドの視線が、眠っているコジローへ向く。
「そちらの男がどれほど腕の立つ戦士でも、魔大陸に不慣れなら、子供二人を連れて帰るのは難しい」
確かにそうだ。
だが、コジローが魔大陸へ来たことがあるかどうかは、まだ分からない。
目を覚ましたら確かめよう。
「何が起こったか、心当たりはあるのか」
「空の色が変わって、光輝のアルマンフィという人が現れました。その人と話しているうちに、白い光が押し寄せてきて……気づけばここに」
「アルマンフィか。ペルギウスが動いたのなら、大きな異変だったのだろう。命があっただけでも幸運だ」
ペルギウスの名を聞いても、ルイジェルドは動じなかった。
どれだけ長く生きている人なのだろう。
「もう一つ。ヒトガミという名前に、聞き覚えはありますか?」
「ヒトガミ? 知らんな。人族の名か?」
「いえ。知らないなら構いません」
嘘をついているようには見えない。
やはりヒトガミは、ルイジェルドへ事情を話していないようだ。
「それにしても、アスラ王国までとなると、本当に長い旅になりますよ」
「一度引き受けたことを、途中で投げ出す気はない」
頑固だ。
だが、言葉に裏があるようには聞こえない。
「言葉はどうする。金は持っているのか。道は分かるのか」
「魔神語は話せます。魔術も使えるので、お金は町へ着けば稼げると思います。道は……これから調べます」
「そうか。ならば、せめて護衛と道案内は任せろ。子供を見捨てたとなれば、スペルドの誇りに関わる」
「誇り高い一族なんですね」
「傷だらけの誇りだがな」
その冗談に、俺はハハッと笑った。
ルイジェルドの口端もつり上がっていた。
笑っているのだ。
ヒトガミが浮かべていた、貼り付けたような笑みとは違う。
不器用だが、温かみのある表情だった。
「とにかく、明日は俺が世話になっている集落まで行こう。話はそれからだ」
「分かりました」
神は信用できない。
だが、この男は信じられるかもしれない。
少なくとも、その集落へ着くまでは頼ってみよう。
「……う」
背後から、微かな声がした。
コジローの指が動く。
ゆっくりと目を開き、最初に夜空を見た。
次に傍らの長刀を確認し、それから俺とエリスへ視線を移す。
「コジロー。大丈夫ですか?」
「ああ。少々、長い夢を見ていたようだ」
コジローは上体を起こし、エリスの寝顔を確かめた。
「二人とも無事か」
「はい。怪我もなさそうです」
「左様か」
短い返事だった。
けれど、その声から僅かに緊張が抜けたのが分かった。
コジローは長刀を手に取り、鞘ごと背へ担ぎ直す。
そこで初めて、焚き火の向こうにいるルイジェルドへ目を向けた。
二人の視線が交わる。
ルイジェルドの目が細くなった。
コジローも、いつもの薄い笑みを消して相手を見ている。
剣を抜く気配はない。
殺気もない。
ただ互いに、目の前の男が並の戦士ではないと理解したようだった。
「こちらはルイジェルドさんです。空から落ちた僕たちを助けてくれました」
「そうか」
コジローは軽く頭を下げた。
「童らを救ってくれたこと、礼を申す」
「当然のことをしたまでだ」
「その当然を行える者は、存外少ないものよ」
ルイジェルドはコジローを見つめた。
「お前も、俺を恐れないのか」
「恐るべき武人とは見える」
コジローは、揺れる焚き火へ視線を落とした。
「されど、眠れる童を害さず、夜気より守った者を、理由もなく恐れることもあるまい」
「……そうか」
ルイジェルドの声が、僅かに和らいだ。
「ところで、小僧」
「はい」
「ここはいずこかな」
「魔大陸です。北東のビエゴヤ地方らしいです」
「魔大陸か」
コジローは、ひび割れた大地の彼方へ目を向けた。
「また、随分と遠くへ流されたものよな」
「コジローは、魔大陸へ来たことがありますか?」
「いや」
コジローは赤茶けた荒野を見渡した。
「名を耳にしたことはあるが、足を踏み入れるのはこれが初めてよ」
「魔神語は?」
「さて。残念ながら、そちらも心得がない」
「なら、会話は僕が担当します。魔神語なら話せますから」
コジローがこちらを見た。
「ほう。その地の言葉まで解するか」
「一応、勉強しました」
「左様か。それは頼もしいものよ」
さらりと返されたが、俺としては少しくらい驚いてほしかった。
とはいえ、コジローが魔神語を話せないのなら、俺の役割は大きい。
剣の腕はコジロー。
土地勘と道案内はルイジェルド。
交渉と魔術は俺。
エリスは……将来性担当ということにしておこう。
焚き火が、もう一度大きく爆ぜた。
「ん……」
今度はエリスが身じろぎした。
ゆっくりと目を開き、勢いよく身体を起こす。
星空。
見知らぬ荒野。
俺と目が合うと、その顔に露骨な安堵が浮かんだ。
次にコジローを見つけ、さらに肩の力を抜く。
「ルーデウス……コジロー……」
「僕たちは無事ですよ」
俺がそう言った直後。
エリスの視線が、焚き火の向こうへ移った。
ルイジェルドと目が合う。
「――ッ!」
顔から血の気が引いた。
「きゃあああああああああっ!」
悲鳴というより、絶叫だった。
エリスは転がるように後ろへ下がり、立ち上がろうとして腰を抜かした。
そのまま身体を小さく丸め、全身を震わせる。
「嫌! 怖い! 来ないで!」
「エリス、落ち着いてください!」
「ギレーヌ! ギレーヌ、助けて! どうして来てくれないのよ!」
俺はエリスのそばへ行き、震える背中へ手を置いた。
「大丈夫です! 僕はここにいます!」
あのエリスが、ここまで怯えている。
ギレーヌを相手にさえ平気で牙を剥く少女だ。
そんな彼女が、立つことすらできない。
俺は思わずルイジェルドを見る。
彼は怒るでもなく、ただ寂しそうにエリスを眺めていた。
「あれが普通の反応だ」
「僕は異常ですか?」
「異常だ。だが、嫌いではない」
ルイジェルドの横顔は、随分と寂しそうに見えた。
その横顔を見て、俺は改めてエリスへ向き直った。
「ほら、怖くありませんよ。ルイジェルドさんが、この火を起こしてくれたんです。マントも掛けてくれました」
「でも、スペルド族よ! 子供を食べるのよ!」
ルイジェルドを見る。
彼は静かに首を横へ振った。
「子供を食うことはない」
「ほら、本人も食べないと言っています」
「食べる人が、食べるって言うわけないじゃない!」
それは正論だ。
エリスは俺の服を掴んだまま、コジローへ視線を向けた。
助けを求めるような目だった。
「お嬢」
コジローが静かに呼びかける。
「我らが今宵、夜露をしのげたのは、あの者のおかげだそうだ」
「……本当に?」
「少なくとも、今宵の恩はあろうな」
安全だとも、善人だとも断言しない。
見た事実だけを伝える。
エリスはしばらく迷った後、俺の腕を支えに立ち上がった。
足はまだ震えている。
それでも、ルイジェルドを睨むように見つめた。
「は、はじめまして……!」
声が裏返る。
「エ、エリス・ボ……ボレアス・グレイラットよ!」
「エリス・ボボレアス・グレイラットか」
「違うわよ!」
反射的に叫んだ後、エリスは自分が誰に怒鳴ったのかを思い出したらしい。
青ざめた顔で口を押さえた。
「少し噛んだだけよ……。それより、あんたも名乗りなさいよ!」
「そうか。すまなかった。ルイジェルド・スペルディアだ」
普通に返されたことで安心したのか、エリスは僅かに胸を張った。
まだ足は震えているが、いつもの調子が少し戻ってきたようだ。
「話をしてみれば分かるでしょう?」
「そ、そうね。ルーデウスの言うとおりだわ」
エリスはルイジェルドをもう一度見た。
「もう、お母様ってば嘘ばっかり! 早く寝ないとスペルド族が来て食べちゃうって言ってたのよ!」
なるほど。
子供を寝かしつけるための迷信として使われていたのか。
「でも、僕たちは食べられていませんよ」
「それは……そうね……」
「むしろ、スペルド族と友達になったら、みんなに自慢できるかもしれませんね」
「お、お祖父様やギレーヌにも自慢できるかしら……?」
「もちろんですとも」
ちらりとルイジェルドを見る。
驚いた顔をしていた。
よし。
「ルイジェルドさんは友達が少ないみたいですから、エリスが頼めば、すぐに仲良くしてくれると思いますけどね」
「で、でも……」
ちょっと子供っぽい言い方すぎるだろうか。
けれど、エリスは迷っている。
考えてみれば、エリスには友達がいない。
ギレーヌは師匠だし、俺は……ちょっと違うだろう。
友達という言葉そのものに、気後れしているのかもしれない。
あとひと押しが必要だ。
「ほら、ルイジェルドさんも」
「俺もか?」
「エリスへ一言、お願いします」
ルイジェルドは戸惑いながらも、エリスへ向き直った。
「エリス……よろしく頼む」
「!」
ルイジェルドが頭を下げたのを見て、エリスの中で何かが崩れたらしい。
俺の後ろから、半歩だけ前へ出る。
「しょ、しょうがないわね!」
震えを押し殺すように、胸を張った。
「わ、私が友達になってあげるわ!」
「ああ」
ルイジェルドは、ほんの僅かに笑った。
コジローは口を挟まず、わずかに目元を和らげて、焚き火の向こうから二人を眺めていた。
よかった。
それにしても、エリスは単純だ。
あれこれと考えているのが、馬鹿らしくなってくる。
「もう、ルイジェルドは怖くないのか?」
「ルーデウスとコジローが一緒だもの。大丈夫よ」
「そうか」
ルイジェルドは短く答えた。
けれど、先ほどまでよりも少しだけ嬉しそうに見えた。
ヒトガミの助言。
スペルド族の戦士。
見知らぬ魔大陸。
そして、この地を初めて訪れたというコジロー。
先のことは、何一つ分からない。
それでも、俺たちは生きている。
まずは明日、ルイジェルドの世話になっているという集落へ向かう。
そこから帰る方法を探そう。
俺は再び地面へ横になった。
身体が、鉛のように重かった。
「もう寝るの?」
「ええ。色々ありすぎましたから」
「しょうがないわね」
エリスが、自分に掛けられていたマントを俺へ掛ける。
必ず、エリスを故郷へ送り届ける。
ギレーヌとも再会する。
そして、コジローと共に生きて帰る。
何が待っているかは分からない。
それでも。
俺たちの魔大陸での旅は、ここから始まった。