師匠の秘密
白い空間だった。
そこへ、わざとらしい後光を背負った何かが降りてきた。
翼まで付いている。
おお、天使。
ついに俺にも救いが――と思ったところで、下半身の辺りに見覚えのあるモザイクがちらついた。
台無しである。
顔までよく見えないくせに、笑い方だけは妙に腹が立つ。
あの自称神だと分かった瞬間、夢の景色が霧みたいに崩れた。
「……朝から縁起でもない」
目を開ける。
昨日は暗くてよく見えなかったが、夜が明けた魔大陸は想像以上に荒れていた。
地面は赤茶け、岩壁があちこちから突き出している。平らな場所を探す方が難しい。遠くまで見渡しても、森らしい森はない。
ロキシーから聞かされた話が、今さら実感を伴って蘇ってくる。
魔物が多い。土地は険しい。中央大陸へ戻るには、とんでもなく長い距離を歩かなければならない。
要するに、遠足気分で帰れる場所ではない。
さて。
この現実を、うちのお嬢様へどう説明したものか。
「ルーデウス!」
振り向く。
エリスは高い岩の上へ登り、朝日に照らされた荒野を見回していた。
「ここ、全部が魔大陸なのよね!」
「少なくとも、僕の知っている地図ではそうなっています」
「じゃあ、これからずっと知らない場所を歩くのね!」
「まあ……そうなりますね」
「最高じゃない!」
両手を腰へ当て、満面の笑み。
心配した俺が馬鹿だった。
この人に長旅の苦労を説いても、今は冒険という二文字に変換されるらしい。
少し離れた場所では、コジローが岩の縁に立っていた。
群青の髪が乾いた風に揺れている。
「どうです、初めて見る魔大陸は」
「荒れてはいるが、悪くない」
それだけ言って、東の空へ目を細める。
朝日でも眺めていたのだろう。
こんな場所に飛ばされた翌朝に景色を楽しめる辺り、この男も相当図太い。
いや、エリスとは別方向に。
「出るぞ」
ルイジェルドが槍を持ち上げた。
俺たちは、彼が世話になっているという集落へ向かった。
◇
昨夜の出来事が嘘だったみたいに、エリスはルイジェルドへ話しかけ続けていた。
ロアの屋敷のこと。
魔術の授業のこと。
ギレーヌにどれだけ剣で叩きのめされたか。
そして、最近はコジローにも相手をさせていること。
「それでね! コジロー、絶対にまともに受けないのよ!」
「当たらぬ所へ立っているだけだ」
「それを卑怯って言うの!」
「ほう。ならば次は、私が避けられぬ一太刀を持ってくるがよい」
「言ったわね! 次は絶対に当てるんだから!」
「それは楽しみよな」
エリスが拳を握る。
コジローは少しだけ笑った。
ルイジェルドはそんな二人のやり取りを聞きながら、ときどき短く相槌を返している。
あれほど怯えていた相手に、もうこの距離だ。
子供の適応力というのは凄い。
いや、エリスだからかもしれない。
「二人は血縁なのか?」
不意にルイジェルドが聞いた。
「は?」
エリスが振り返る。
「同じグレイラットを名乗っている。兄妹ではないのか」
「違うわよ!」
「では親戚か」
「そうだけど、兄妹じゃないわ!」
「そうか」
ルイジェルドは一度頷き、それから俺とエリスを見比べた。
「なら、なおさら互いを大事にしろ。故郷から遠い場所では、身近な者が頼りになる」
「それぐらい分かってるわよ!」
「分かっているならいい」
エリスは何か言い返しかけたが、結局口を閉じた。
珍しい。
言い負かされたというより、言っていること自体には反論できなかったらしい。
隣を見ると、コジローがこちらを見ていた。
目が合うと、ほんの少し口元が緩んでいた。
笑うな。
俺だって、家族扱いされたこと自体は嫌ではない。
歩き続けるうち、道はさらに険しくなった。
岩と岩の間を抜け、段差を越え、時には人一人が通れる程度の隙間を進む。
地図があったとしても、俺だけなら確実に迷う。
そんな道中、ルイジェルドは何度か足を止めた。
「ここで待て」
それだけ言うと、槍を持って岩の向こうへ消える。
戻ってくる頃には、槍の穂先に新しい血がついていた。
最初の二回は何も聞かなかった。
三度目で、さすがに気になった。
「先に何かいるんですか?」
「ああ、魔物がな」
「毎回?」
「この辺りは多い」
短い。
説明する気がほとんどない。
だが、コジローは別のところを見ていた。
ルイジェルドが戻ってくるたびに、通ってきた岩場と槍の位置を見比べている。
「なるほど」
「何がです?」
「いや」
コジローはルイジェルドへ視線を向けた。
「見事なものよな」
しばらくして、ルイジェルドが戻った時、コジローがそう呟いた。
「何がだ」
「この岩場で、童らに敵の姿すら見せぬ。土地を知る者の戦いよ」
「俺の目があれば難しいことではない」
「力を持つことと、使いこなすことは別であろう」
ルイジェルドは返事をしなかった。
ただ、コジローを見る目から、僅かに警戒が薄れたように見えた。
「ねえ、どうして分かるの?」
今度はエリスが食いついた。
「何がだ」
「岩の向こうに魔物がいるってことよ。見えてないじゃない」
ルイジェルドは前髪を持ち上げた。
額の赤い器官が露わになる。
「これで周囲を探れる」
なるほど、あれは周囲を探るレーダーのような役割を持っているらしい。
そういえば、ロキシーからもらった本にも、そんなことが書かれていた。
エリスは一瞬だけ肩を強張らせた。
だが、昨日のように逃げはしない。
むしろ数歩近づき、宝石でも見るように覗き込んだ。
「それ、痛くないの?」
「生まれた時からある」
「外せる?」
「外さん」
「ちょっと触っても――」
「だめだ」
「まだ何もしてないじゃない!」
残念そうに頬を膨らませる。
昨日まで泣いていた相手の額へ手を伸ばそうとするとは。
慣れるのが早すぎる。
「便利そうですね」
俺が言うと、ルイジェルドは少しだけ表情を曇らせた。
「便利なだけのものではない」
その声には、それ以上聞くなという響きがあった。
俺は口を閉じた。
聞きたいことはある。
けれど、出会って一日も経っていない相手の傷を、興味本位でほじくる必要はない。
代わりに別のことを聞く。
「この辺りの魔物って、かなり強いんですよね?」
「場所による。今通っている辺りなら、俺が先に処理できる」
「もし手が必要なら言ってください。魔術なら使えます」
ルイジェルドは俺を見下ろした。
「お前はエリスのそばにいろ」
「え」
「俺が前を見る。お前は後ろを見ればいい」
なるほど。
単に子供扱いされたのかと思ったが、役割分担の話らしい。
「分かりました」
「ルーデウスに守られなくても平気よ!」
「なら、お前がルーデウスを守れ」
「もちろんよ!」
即答だった。
俺の立場は。
「コジロー」
ルイジェルドが呼んだ。
「何かな」
「後ろを頼めるか」
コジローが僅かに目を細める。
「心得た。先は土地を知る者に任せるのがよかろう。ならば私は殿を務めよう」
「頼む」
短いやり取りだった。
それだけで話は決まったらしい。
ルイジェルドが先頭。
その後ろに俺とエリス。
最後尾をコジロー。
前には三叉槍を持ったスペルド族。
後ろには、馬鹿みたいに長い刀を背負った剣士。
……改めて考えると、とんでもなく物々しい。
「なんだか僕たち、護送されてるみたいですね」
「誰が護送されてるのよ!」
「僕とエリスですよ」
「私は守られなくても平気だって言ってるでしょ!」
エリスが唇を尖らせる。
後ろから小さな笑い声がした。
「何がおかしいのよ、コジロー!」
「いやなに」
振り返ると、コジローはいつもの飄々とした顔をしていた。
「前には槍、後ろには刀。それでもなお、自分で戦うと言う。頼もしい小娘よな」
「当然よ!」
褒められたと思ったらしい。
エリスは胸を張った。
たぶん、半分ぐらいからかわれている。
俺には分かる。
「小僧も安心して守られるがよい」
「やっぱり俺もそっち側なんですか?」
「子供だからな」
前からルイジェルドが答えた。
「…………」
前後から確定された。
確かにこの体は十歳児なので反論できない。
仕方なく歩き出す。
少し先をルイジェルド。
少し後ろをコジロー。
昨日会ったばかりの二人なのに、妙に収まりのいい並びだった。
◇
集落が見えた頃には、足がかなり重くなっていた。
三時間ほど歩いたはずだが、直線ならそれほど離れていないらしい。
魔大陸の地形は、距離という概念へ喧嘩を売っている。
「着いたぞ」
ルイジェルドの先に、低い柵で囲われた小さな集落があった。
十数軒ほどの住居と、小さな畑。
遠くから見る限り、豊かには見えない。
「村ね!」
エリスはまだ元気だった。
俺は疲れているがコジローは平然としている。
理不尽である。
入口へ近づくと、青い髪の男がこちらへ出てきた。
見た目だけなら俺たちより少し年上程度にしか見えない。
ただ、立ち方や目つきは子供のものではなかった。
「ルイジェルド。その者たちは?」
魔神語だ。
聞き取れた。
ロキシー先生、あなたの授業は魔大陸でも通用しています。
「昨夜の流星で落ちてきた子供たちだ。この男も一緒だった」
ルイジェルドが俺たちを示す。
男の視線が俺、エリス、コジローの順に動いた。
特にコジローの背中の長刀で止まる。
「そいつらを里へ入れるわけにはいかん」
「理由は」
「正体が分からん。突然空から来た人族を、そのまま通せるわけがないだろう」
言っていることは正しい。
だがルイジェルドは正しくないと思ったらしい。
顔が険しくなる。
「子供を外へ置いておけと言うのか」
「そうは言っていない!」
「同じことだ」
空気が重くなった。
昨日の焚き火では見せなかった顔だ。
ルイジェルドが一歩出るだけで、門番の肩が強張った。
これはまずい。
「ルイジェルドさん」
俺は袖を引いた。
「この人は里を守る役目なんでしょう。知らない人を止めるのは普通です」
「だが」
「こういう時は責任者に判断してもらえば済みます」
青髪の男を見る。
「長の方とお話しできますか?」
男は少し不満そうだったが、頷いた。
「長を呼ぶ。そこで待て」
そう言ったきり、動かない。
「…………」
十秒。
二十秒。
歩き出さない。
横ではエリスが首を傾げている。
コジローも男を見た。
「ルーデウス」
「はい」
「あれは、もしや待てと言ったのではなかったか」
「そう聞きました」
「ならば、なぜ本人も動かなんだ」
ごもっともである。
「ルイジェルドさん?」
「念話だ」
「念話?」
「ミグルド族は、近しい相手なら声を使わず話せる」
ああ。
そこで、記憶が繋がった。
ロキシーからもらった本に、同じ話があった。
ミグルド族は離れた相手とも意思を交わせる。
ただし、ロキシー自身にはその力がなかった。
だから故郷では周囲の会話へ入れず、外へ出た――そんなことが書かれていたはずだ。
つまり。
「ここ、ロキシーと同じ種族の里なんですね」
「ああ」
胸元のペンダントが急に重くなった気がした。
もしかしたら名前を出せば話が早いかもしれない。
けれど、ロキシーが故郷をどう思っているのか、俺は知らない。
家出同然だった可能性だってある。
……いや。
可能性どころか、念話が使えず村を出たと書いてあった。
余計なことは言わない方がいいか。
「話は通った。長がこちらへ向かっている」
青髪の男が目を開いた。
やがて家々の間から、小柄な三人が姿を現した。
先頭の一人だけが杖を持ち、後ろに青い髪の女性が二人続いている。
そして、全員小さい。
老人らしい仕草をしているのに、顔だけ見れば若い。
なるほど。
ロキシーが何歳なのか分からなかった理由が、少しだけ見えた気がする。
「お待たせしたの」
杖の男が俺たちの前で止まった。
「この里の長、ロックスじゃ」
「ルーデウス・グレイラットです」
俺は頭を下げた。
エリスが横から小声で聞いてくる。
「今なんて言ったの?」
「村長さんだそうです。挨拶してください」
「魔神語なんて話せないわよ?」
「いつもの礼で大丈夫です。僕が通訳しますから」
エリスは少し迷ってから背筋を伸ばした。
「エリス・ボレアス・グレイラットよ。迎えてくれるなら、礼を言うわ」
うん。
かなりエリスらしい挨拶である。
俺が少し柔らかくして訳すと、ロックスは愉快そうに笑った。
「元気なお嬢さんじゃ」
エリスへ目をやり、少しだけ声を落とす。
「そこまで訳さなくても大丈夫です」
「何よ! 何て言ったの!」
「褒めてました」
「ならいいわ!」
ちょろい。
「それから、こちらはコジロー。僕たちと一緒に転移してきた旅人です」
ロックスへ魔神語でそう説明し、コジローには視線を送る。
意図を察したコジローは、静かに一礼した。
ロックスも同じように頭を下げる。
「随分変わった剣を持っておるな」
「本人も変わっていますが、信用できる人です」
「小僧」
人間語で呼ばれた。
「何でしょう」
「今、要らぬことを足したであろう」
「気のせいですよ」
魔神語が分からなくても、この辺りの勘は鋭い。
ひとまず挨拶は済んだ。
「僕たちは里へ入れていただけますか?」
「ふむ……」
ロックスはすぐには答えず、俺たちを順に観察した。
やがて俺の首元へ目を戻し、何かに気づいたように僅かに身を乗り出す。
「少年。その首飾りを、少し見せてもらえるかの」
「これですか?」
ペンダントを指で持ち上げる。
「誰から受け取った?」
「僕の魔術の師匠です」
「名は?」
隠す理由を考えた。
さっきまでは、あえて伏せようと思っていた。
だが、これはロックスの方からペンダントについて聞いてきたのだ。
なら、誤魔化す方が不自然だろう。
「ロキシー・ミグルディア」
その名を口にした瞬間だった。
「ロキシー!?」
門にいた青髪の男が、さっきまでの警戒を忘れたように駆け寄ってきた。
「今、ロキシーと言ったな!」
「はい」
「どこにいる! 無事なのか!」
いきなり両肩を掴まれる。
後ろで空気が変わった。
ルイジェルドだ。
コジローも黙ったまま、こちらを見ている。
「大丈夫です」
俺は二人へ手を上げ、それから目の前の男を見る。
怒っているわけではない。
顔にあるのは、焦りと期待だ。
「すみません。あなたはロキシーと、どういう関係で?」
「父親だ!」
「……父親」
男を見る。
若い。
どう見ても若い。
ロキシーの父親というより、親戚の兄ちゃんと言われた方がまだ納得できる。
「本当に?」
「こんなことで嘘をつくか! 俺はロインだ。あの子が故郷を離れてから二十年以上、一度も消息を掴めていない!」
二十年以上。
ちょっと待て。
俺はずっと、ロキシーの年齢を曖昧なままにしていた。
本人があの見た目なので、深く考えるのを避けていたともいう。
「一つだけ確認させてください」
「何だ!」
「ロキシーって、今いくつです?」
ロインが固まった。
「……そんなことを聞いている場合か?」
「僕には結構大事なことなんです」
人生観に関わる。
「四十四のはずだ」
四十四。
俺の前世と大差ない。
妙な親近感が湧いた。
「ミグルド族は、どれぐらい生きるんです?」
「長ければ二百年ほどだ。それよりロキシーは!」
「あ、はい。すみません」
これ以上焦らすのはさすがに悪い。
「最後に消息を知ったのは半年前です。その時はシーローン王国にいました。そこから手紙も届いています」
「手紙……」
「人間語も書けます。僕が弟子になった頃には、もう普通に読み書きしていました」
「生きているんだな?」
「今この瞬間までは断言できません。でも、僕が最後に連絡を取った時点では元気でした」
ロインの手から力が抜けた。
俺の肩を離し、その場へ座り込む。
「……そうか」
何度か同じ言葉を繰り返した後、両手で顔を覆った。
泣いている。
エリスが俺の袖を引く。
「どうしたの?」
「師匠のお父さんです。ずっと娘の消息を知らなかったみたいで」
「ルーデウスの師匠の?」
エリスは目を丸くした。
それからロインを見て、珍しく何も言わなかった。
コジローも黙っている。
こういう時に余計な言葉を挟まないのは、この人らしい。
俺はロインを見ながら、パウロの顔を思い出した。
俺たちが消えてから、どれだけ心配しているだろう。
ゼニスも、リーリャも、シルフィも。
無事だと知らせたい。
帰るだけじゃない。
途中で手紙を出せる場所を見つけなければ。
「ロックスさん」
俺は長へ向き直った。
「改めてお願いします。少しの間、里で休ませてもらえませんか」
ロックスは泣いているロインを一度見てから、穏やかに頷いた。
「二十年ぶりの便りを運んできた客人を、外に立たせたままにはできん。中へ入りなさい」
「ありがとうございます」
こうして、俺たちはミグルド族の里へ迎えられた。
ロキシーの故郷。
念話を使う一族。
そして、四十四歳の師匠。
最後の情報だけ、妙に頭へ残った。
……今度会ったら、年齢の話はしないでおこう。