夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
お嬢さんは、帳場の前で深々と頭を下げた。
「不躾は承知しております。わたし、ロザリンデと申します。このたび、リンデンタール伯爵家に、その……縁談を、いただいておりまして」
来た、と思った。来るなら屋敷の乳母か、商会の番頭あたりの聞き込みだろうと踏んでいたのに、来たのは当のお嬢さん本人である。
お辞儀の角度に、育ちが出ていた。商家の
「お屋敷の方に伺っても、先の奥様のことは、どなたも何もご存じなくて。お墓の場所をお聞きしたら、家令の方が黙ってしまわれて。……ご縁者の方が花市においでと聞いて、それで」
自分の足で、である。婚約者の家の誰にも頼らず、亡くなった先の妻の跡を、自分の足で探しに来たのだ。
――このお嬢さんは、駒にしておくには、惜しい。
私は帳場を小僧に任せ、市場の裏の木陰に席を作った。樽をふたつ、椅子の代わりである。初夏の光が、
「遠縁のヴェラと申しますの。……で、何をお聞きになりたいの?」
「何でも、です。なんでも、教えてください」
「先の奥様は――ヴェロニカ様は、どんな方でしたか?」
また、故人が故人を語る仕事である。ただ、今日のお客の目は、老男爵夫人の偲ぶ目とは違う。これから同じ席に座る人の、切実な目である。
「地味で、静かな方でしたそうよ。領地の別邸がお好きで、四年、王都にはいらっしゃらなかったの」
「……お幸せな、奥様でしたかしら?」
「――いいえ」
即答してしまった。ロザリンデ嬢が、目を見開く。
言ってから、湯呑み代わりの水差しに映る自分の顔を、一拍だけ見た。取り繕う道は、いくらでもある。老男爵夫人にしたように、手仕事の上手な静かな人でした、と砂糖をまぶす道が。けれどこの目に、偲び話の砂糖菓子を出すのは、嘘より性質が悪い気がした。この娘は偲びに来たのではない。これからの自分の話を、聞きに来たのである。
「幸せでは、なかったと思いますわ。お輿入れの日から、あの方はずっとお一人だった。……ですけれど」
「ですけれど?」
「あの四年を『お可哀想』の一言で畳んでよいのは、故人だけですの。余人が値踏みしてよいものではございませんわ」
そう力説したのだが――故人は自分である。言い切っていいような気もするしダメな気もする。
なんだか調子が狂い、コホンと咳払い――――。
「えーと、あなたのこれからも、同じことよ、お嬢さん」
私はロザリンデ嬢の可愛い瞳をのぞきこむ。
彼女は、しばらく黙っていた。それから、膝の上の手をぎゅっと握り、小さく言う。
「……わたし、あのお家のことを、何も知らないんです。父は、いいお話だとしか。でも、先の奥様のことを誰も話さないのが、なんだか、こわくて」
こわい、と言えるのは、目が利くということである。四年前の私は、それすら言わなかった。
「お嬢さん。その『こわい』は、大事になさいませ」
「え?」
「勘は、嫁入り道具のいちばん底に入れておくものですの。……さ、お茶でも飲んでらっしゃいな。花市の茶は、渋くてよく効きますのよ」
渋い茶を飲んで、ロザリンデ嬢はようやく、年相応の顔で笑った。笑うと、目尻に幼さが残る。十九というのは、そういう年である。
――帰り際、ロザリンデ嬢は木戸の前で振り返り、無邪気に言ったのだった。
「そういえば、ヴェラさん。花市に幽霊が出るんですって。こわいですわね」
「ええ。……お互い、気をつけましょうね」
◇
リンデンタール伯爵邸では、結納の日取りが練られていた。商会側の求めは、書面の整いと早さ。当主は頷きながら、上の空である。頭にあるのは葬儀の払いの綴り――あの帳面一式が、いまも従弟の手元にあるという事実だった。差配を任せたのは母だ。安く済むから、と。いまさら返せとは、言えない。言えない理由を、聞かれるわけにはいかないからである。
◇
店じまいのあと、薄暗がりの帳場で、私は日傘の人に言った。
「あの縁談、潰しますわ」
彼は驚かなかった。ただ、続きを待つ顔をする。
「四年前のわたくしと、そっくり同じ形をしておりますの。違いはひとつだけ。あちらの縁談は、嘘の死亡届の上に建っておりますのよ。露見すれば婚姻ごと無効、持参金は借金の穴へ――そういう
「……守る、と」
「守るなんて、上等なものではございませんの」
帳場の蝋燭を、ふっと消す。
「故人には、できないことでしたから」
四年前、誰かがこうして怒ってくれたなら――と、思わないでもない。思わないでもないから、やるのである。