夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
予定帳の今日の行には、『夜市』とある。
書いたのは何日も前なのに、頁のこのあたりだけ、ずっと小さな灯りがついているようだった。予定というものは、書いた日から当日まで、二度楽しめる仕掛けらしい。四年前の私が聞いたら、目を丸くする話である。
日が落ちて、川沿いの通りは灯りの川になった。提灯の列が水面に映って揺れ、揚げ菓子の鍋が音を立て、手回しオルガンは景気よく調子をはずしている。砂糖の焦げる匂い、川の水の匂い、どこかの子の吹く笛。川風が、昼の熱の残る石畳を撫でていく。人いきれと蜜の匂いの間を、日傘の人――今夜は傘を畳んでいる――と連れ立って歩いた。
入り口の屋台で、串焼きを一本ずつ買う。買い食いは、故人にできないことの第一号である。夜市の串は、春の昼のそれより、いくらか誇らしげに熱い。
「故人の夜遊びは、初めてですか?」
「ええ。生前も、初めてですけれど」
屋台の並びで、威勢のいい声に呼び止められた。
「おや、達筆さんじゃないか!」
揚げ菓子の鍋から身を乗り出したのは、帳場の常連の、世話焼きで知られたおかみさんである。
「ちょうどよかった。ねえあんた、うちの甥っ子に会っておくれよ。橋向こうの粉屋でね、働き者で、字ぃの書ける嫁さんを探してんの。あんたみたいな達筆、独り身にしとくのは勿体ないよ」
「まあ、ご親切に」
私は揚げ菓子の紙袋を、扇の代わりに胸の前でぱたりと閉じた。
「あいにく、故人ですので。縁談は、生前に懲りましたの」
「……あんた、変わった人だねえ!」
おかみさんは呆気にとられ、それから豪快に笑って、揚げたてを一つおまけしてくれた。悪気のない人の縁談は、断り心地まで軽い。
隣で、串が止まっていた。
買い食いの串を口に運びかけた姿勢のまま、ひと呼吸ぶん。すぐに何事もなかったように動き出したから、気のせいかもしれない。夜市の灯りは、何もかも少し大きく見せるのである。
◇
芝居小屋は、川端の掛け小屋である。
口上役が出てきて、張り扇を鳴らした。
「さあさ、お立ち会い。始まりは人違いのお笑い一席――と、その前に。近ごろ王都で怖い話と申せば、皆さまご存じ、伯爵家の幽霊!」
客席がどっと沸き、隣とふたり、思わず顔を見合わせた。噂もここまで来ると、立派な
演目は、瓜二つの従僕が入れ替わる笑劇である。舞台端の蝋燭が役者の顔を下から照らし、埃と
入れ替わった先で寝床と夕食が倍になったり、二人の主人に同時に呼ばれて廊下を右往左往したり、他愛ないといえば他愛ない。他愛ないのに、気づけば私は、声を立てて笑っていた。
思えば四年、笑い声というものを出していない。別邸に可笑しいことがなかったからでは、たぶん、ない。笑い声というのは、聞く人がいて初めて出る音なのだ。あの家には、それがいなかった。それだけのことだったのだと、平土間の笑いの渦の中で、いまさら分かる。
三幕目の途中で、隣がこちらを見ているのに気づいた。
「……なんですの?」
「いえ」
彼は舞台へ目を戻し、生真面目な横顔のまま言った。
「故人は、よく笑いますな」
「……生前の分ですわ」
言ってから、二人とも、少し黙った。舞台の上では従僕が三人目の主人に出くわして、客席は大笑いである。笑いの渦のまんなかで、生前、という二文字だけが、ぽつんと重い。四年の中身を、この人は問わない。問わないまま、隣で同じ演目に笑っている。それで、十分なのである。
◇
はねたあと、屋台で蜜掛けの揚げ菓子をもう二つ買った。
「故人のお口に、合いますか?」
「熱うございますわ。……ですから、おいしいの」
焼きたては指に熱くて、二人して紙袋を持ち替え持ち替え歩く。熱いものを分け合うのは、生きている者の芸である。橋の上で川風に吹かれると、汗の引いた首すじに、夜がやっと涼しい。
「次の演目は、ひと月先だそうです」
「あら。人違いの、お続きかしら?」
「今度は、取り違えた恋文が三通り出るとか」
「まあ。忙しいこと」
街灯の下で足を止め、手帳を開いた。提灯の残り灯りで、頁がほんのり橙色である。『次の演目、川端の小屋』。書く手は、もう止まらない。未来の日付というものに、ペン先がすっかり慣れてしまった。慣れる日が来るなんて、春の私に教えても、きっと信じない。
――別れ際である。
橋のたもとまで来たところで、向こうから提灯が駆けてきた。息を切らした使いの男が、彼の前で膝に手をつく。
「も、申し上げます。御実家筋の伯母君様が、お屋敷にてお待ちかねでございます。その……ご縁談の儀、と伺ってございます」
縁談。
夜市の灯りが、その二文字の向こうで、すうっと一段、遠くなった――。