夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
縁談、の二文字は、三日たっても胸から下りなかった。
帳場で、同じ列を三度も足し違える。算盤というものは正直で、胸に他所事のある指には、他所事の玉を弾くのである。
「達筆さん、聞いたかい。あの日傘の子爵様に、縁談だってさ」
仲買人は、今日も耳が早い。
「お相手は、お堅いお勤めの家のご令嬢だと。まあ、子爵様も二十七だ。むしろ遅いくらいさね」
「……さようですわねえ」
……あら。
相槌の声が、我ながら他人行儀に乾いていた。乾いた声の下で、覚えのない軋みが小さく鳴っている。
胸の奥のこれの、名前を考える。
ロザリンデ嬢の名で点いた火種とは、違う。あれはもっと熱くて、まっすぐだった。これは小さくて、ひねくれていて、自分で認めるのも
「……故人は、妬いてはいけませんの」
声に出したら、余計に始末が悪くなった。
妬くというのは、生者の営みである。欲しがる者の、隣に立ちたい者の、明日を当てにする者の。故人の身軽さを看板にしてきたこの身が、どの口で妬くのか、という理屈は分かっている。分かった上で、目を落とせば、予定帳の未来の日付が急に、生者の隣を借りて書いた借り物に見えてくるのだ。
借り物なら、返す日が来る。
欲しがる前に、諦めておく。四年の別邸で覚えた古い癖が、するりと手を伸ばしてくるのが分かった。諦めてしまえば、痛くない。手帳の金曜の行を、見なかったことにすればいい。癖の手つきは四年ものだけあって、恐ろしく滑らかである。
その手首を、私は初めて、自分でつかまえる。
つかまえて、どうするかまでは分からない。分からないまま、金曜が来る。
◇
金曜の夜、彼はいつも通りの刻限に、いつも通りの顔で台所へ現れた。
いつも通りでないのは、こちらである。気づけば、出迎えの礼が深い。深い礼は怒っているときの癖だのに、今夜のは何の礼だか、自分でも分からない。おまけに菓子皿ときたら、選り分けを忘れて、焦げの精鋭ぞろいである。
彼は席に着き、その精鋭をひとつ取って、生真面目に
「……香ばしい」
「それ、焦げですわよ」
「存じております。……いつぞやの、約定の味見です」
次回は焦げた方も味見していただきますわね――いつかの軽口を、この帳面の人は、律儀に覚えているのである。
茶がふたつ並んだところで、彼は帳面を閉じ、居住まいを正した。
「ご報告が、ひとつ」
「……伺いますわ」
「実家筋の伯母から、縁談の持ち込みがありました」
来た。噂より先に、ご本人からである。膝の上で重ねた手が、少し冷たい。
「お断りして参りました」
「――いつ、ですの?」
「その場で」
即答である。聖具室の即答を思い出す速さだった。
「先方は、理由をお尋ねになったでしょう?」
「『予定が、ございますので』と」
……予定。
「それだけ、ですの?」
「それだけです。それ以上に確かな理由を、わたしは持ち合わせておりませんので」
誰との予定とは、言わない。彼は言わないし、私も聞かない。聞かないまま、台所の蝋燭がひとつ、静かな音を立てて燃えている。
「伯母は、善意なのです。二十七にもなった甥が、その……週の半分をどこかの台所で過ごしているとは、ご存じないだけで」
「あら。どこの台所ですの?」
「……さて。故人の家の、だとか」
しれっと故人ジョークで受けて、耳が、少し赤い。夕立の日と同じ耳である。
妬いてはいけませんの、と自分に張った柵は、その耳を見ているうちに、音もなく外れてしまった。
外れた後に残ったのは、面映ゆさと、それから、小さな怖さである。欲しがってしまった、という怖さだ。あてにして、外れたら、痛い。スープの冷めていく四年前の食卓から、ずっと知っている痛さである。
それでも今夜は、諦める癖の手首を、つかまえたままにしておく。
彼の断りの文句を、胸の中でもう一度なぞる。予定が、ございますので。あの帳面の人のことだから、彼の側の手帳にも、金曜の行には同じ字が並んでいるのだろう。日付というものは、二冊の帳面に同じ行があって、初めて約束と呼べるらしい。借り物どころの話では、なかったのである。
ならば、当てにしてもよいのだ。故人にも、欲しいものくらい、ある。
帰り際、戸口で彼が帽子を取った。
「では、次の金曜に」
「ええ。……お菓子は、焦げていないのを焼いておきますわ」
「それは、残念です」
冗談の顔をせずに言って、夜道へ出ていく。まっすぐな背中を見送って、私は手帳に、いつも通りの行を書いた。『金曜、作戦会議』。いつも通りの字が、今夜は少しばかり、明るい。
◇
リンデンタール伯爵邸では、結納の日取りが決まりつつある。商会側の書面は几帳面に積み上がり、当主は暦を繰っては家令を呼び、日取りを二度も前へ動かした。急ぐ理由は、書面のどこにも書けない。書けない理由を抱えたまま、招く客の名簿だけが長くなっていく。母だけが扇の陰で眉を寄せた。「喪も明けぬうちから」。その喪が誰の喪か、口にする者は、あの屋敷にはいない。
――週明けの帳場に、一通の文が届く。
商会の透かしの入った、上等の紙である。思い詰めたような、几帳面な字が並んでいた。
『ヴェラ様。お伺いしたいことがございます。先の奥様のことで――妙なことに、気づいてしまったのです。 ロザリンデ』