夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~   作:kuratn

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15. 子爵様のご縁談

 縁談、の二文字は、三日たっても胸から下りなかった。

 

 帳場で、同じ列を三度も足し違える。算盤というものは正直で、胸に他所事のある指には、他所事の玉を弾くのである。

 

「達筆さん、聞いたかい。あの日傘の子爵様に、縁談だってさ」

 

 仲買人は、今日も耳が早い。

 

「お相手は、お堅いお勤めの家のご令嬢だと。まあ、子爵様も二十七だ。むしろ遅いくらいさね」

 

「……さようですわねえ」

 

 ……あら。

 

 相槌の声が、我ながら他人行儀に乾いていた。乾いた声の下で、覚えのない軋みが小さく鳴っている。

 

 胸の奥のこれの、名前を考える。

 

 ロザリンデ嬢の名で点いた火種とは、違う。あれはもっと熱くて、まっすぐだった。これは小さくて、ひねくれていて、自分で認めるのも業腹(ごうはら)な、意地の悪い熾火(おきび)である。妬み、という字が浮かんで、私は帳面の隅で、その字をぐりぐりと塗り潰した。

 

「……故人は、妬いてはいけませんの」

 

 声に出したら、余計に始末が悪くなった。

 

 妬くというのは、生者の営みである。欲しがる者の、隣に立ちたい者の、明日を当てにする者の。故人の身軽さを看板にしてきたこの身が、どの口で妬くのか、という理屈は分かっている。分かった上で、目を落とせば、予定帳の未来の日付が急に、生者の隣を借りて書いた借り物に見えてくるのだ。

 

 借り物なら、返す日が来る。

 

 欲しがる前に、諦めておく。四年の別邸で覚えた古い癖が、するりと手を伸ばしてくるのが分かった。諦めてしまえば、痛くない。手帳の金曜の行を、見なかったことにすればいい。癖の手つきは四年ものだけあって、恐ろしく滑らかである。

 

 その手首を、私は初めて、自分でつかまえる。

 

 つかまえて、どうするかまでは分からない。分からないまま、金曜が来る。

 

       ◇

 

 金曜の夜、彼はいつも通りの刻限に、いつも通りの顔で台所へ現れた。

 

 いつも通りでないのは、こちらである。気づけば、出迎えの礼が深い。深い礼は怒っているときの癖だのに、今夜のは何の礼だか、自分でも分からない。おまけに菓子皿ときたら、選り分けを忘れて、焦げの精鋭ぞろいである。

 

 彼は席に着き、その精鋭をひとつ取って、生真面目に咀嚼(そしゃく)した。

 

「……香ばしい」

 

「それ、焦げですわよ」

 

「存じております。……いつぞやの、約定の味見です」

 

 次回は焦げた方も味見していただきますわね――いつかの軽口を、この帳面の人は、律儀に覚えているのである。

 

 茶がふたつ並んだところで、彼は帳面を閉じ、居住まいを正した。

 

「ご報告が、ひとつ」

 

「……伺いますわ」

 

「実家筋の伯母から、縁談の持ち込みがありました」

 

 来た。噂より先に、ご本人からである。膝の上で重ねた手が、少し冷たい。

 

「お断りして参りました」

 

「――いつ、ですの?」

 

「その場で」

 

 即答である。聖具室の即答を思い出す速さだった。

 

「先方は、理由をお尋ねになったでしょう?」

 

「『予定が、ございますので』と」

 

 ……予定。

 

「それだけ、ですの?」

 

「それだけです。それ以上に確かな理由を、わたしは持ち合わせておりませんので」

 

 誰との予定とは、言わない。彼は言わないし、私も聞かない。聞かないまま、台所の蝋燭がひとつ、静かな音を立てて燃えている。

 

「伯母は、善意なのです。二十七にもなった甥が、その……週の半分をどこかの台所で過ごしているとは、ご存じないだけで」

 

「あら。どこの台所ですの?」

 

「……さて。故人の家の、だとか」

 

 しれっと故人ジョークで受けて、耳が、少し赤い。夕立の日と同じ耳である。

 

 妬いてはいけませんの、と自分に張った柵は、その耳を見ているうちに、音もなく外れてしまった。

 

 外れた後に残ったのは、面映ゆさと、それから、小さな怖さである。欲しがってしまった、という怖さだ。あてにして、外れたら、痛い。スープの冷めていく四年前の食卓から、ずっと知っている痛さである。

 

 それでも今夜は、諦める癖の手首を、つかまえたままにしておく。

 

 彼の断りの文句を、胸の中でもう一度なぞる。予定が、ございますので。あの帳面の人のことだから、彼の側の手帳にも、金曜の行には同じ字が並んでいるのだろう。日付というものは、二冊の帳面に同じ行があって、初めて約束と呼べるらしい。借り物どころの話では、なかったのである。

 

 ならば、当てにしてもよいのだ。故人にも、欲しいものくらい、ある。

 

 帰り際、戸口で彼が帽子を取った。

 

「では、次の金曜に」

 

「ええ。……お菓子は、焦げていないのを焼いておきますわ」

 

「それは、残念です」

 

 冗談の顔をせずに言って、夜道へ出ていく。まっすぐな背中を見送って、私は手帳に、いつも通りの行を書いた。『金曜、作戦会議』。いつも通りの字が、今夜は少しばかり、明るい。

 

       ◇

 

 リンデンタール伯爵邸では、結納の日取りが決まりつつある。商会側の書面は几帳面に積み上がり、当主は暦を繰っては家令を呼び、日取りを二度も前へ動かした。急ぐ理由は、書面のどこにも書けない。書けない理由を抱えたまま、招く客の名簿だけが長くなっていく。母だけが扇の陰で眉を寄せた。「喪も明けぬうちから」。その喪が誰の喪か、口にする者は、あの屋敷にはいない。

 

 ――週明けの帳場に、一通の文が届く。

 

 商会の透かしの入った、上等の紙である。思い詰めたような、几帳面な字が並んでいた。

 

『ヴェラ様。お伺いしたいことがございます。先の奥様のことで――妙なことに、気づいてしまったのです。 ロザリンデ』

 

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