夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
秋は、帳面から来た。
仕入れの欄から百合が減り、
ロザリンデ嬢が来たのは、そんな午後である。
例の文のとおりの、思い詰めた顔である。私は帳場を小僧に任せ、市場の裏の樽の応接間へ席を移した。夏に較べて、木陰の風はもう外套の襟を立てたくなる冷たさである。彼女は膝の上で手を重ね、前置きもそこそこに切り出した。
「妙なことに、気づいてしまったんです」
「伺いますわ」
「お屋敷に――先の奥様のお品が、一つもないんです」
婚礼支度の打ち合わせで、屋敷へ上がる機会が増えたのだという。
「お部屋を拝見しても、絵姿の一枚もなくて。女中の方々に伺っても、どなたも先の奥様にお会いしたことがないんです。四年もお住まいだったのに、変でしょう? ……以前、お墓の場所をお聞きして、家令の方が黙ってしまわれた話は、いたしましたわよね? あのときは、わたしの気の回しすぎかと思ったんですけれど。いまは、違うと思っています」
最初に会った日の、あの小さな引っかかりが、婚礼支度の実見で確信に変わったのである。十九の勘は、疑いを寝かせて育てる勘である。
私物なら、ある。象牙の櫛が一つ、肩掛けが二枚、祈祷書が一冊。目録一枚ぶん。あの家が四年で私に許した「暮らし」の全部である。屋敷にないのは別邸ごと閉じられたからで、絵姿がないのは、描かせようと思いつく者が、誰もいなかったからである。
変でしょう、とお嬢さんは言う。ええ、変ですとも。その変に気づく目が、十九でもう開いている。
「お墓の場所くらい、お教えすればよろしいのにねえ。北の丘ですわ」
私は帳場の紙に、坂道と糸杉の目印を書いて渡した。それから、少し考えて、付け足す。
「お嬢さん。お式の前に、一度だけ、墓前へお参りなさいませ」
「え?」
「ご一緒の皆様のお顔を、ようくご覧なさいませ。……先の奥様がどんな方だったかは、お屋敷の言葉より、お墓の前のお顔のほうが、よほど正直に教えてくれますわ」
◇
墓参の首尾が知れたのは、五日ののちである。
夕暮れの帳場に戻ってきたロザリンデ嬢は、顔色をなくしていた。樽の椅子に座るなり、絞り出すように言う。
「……ご覧なさいませって仰った意味が、分かりました」
同行は、婚約者どのと家令。伯爵は墓の手前から歩みが遅くなり、墓前では目も上げず、ロザリンデ嬢が供花に手を伸ばしたら――「触るな」と、悲鳴のような声で仰ったそうである。
「それからは、ずっと震えておいでで。お参りというより、あれは……こわがって、おいででした。ご自分の、奥様のお墓を」
十九の目は、正確である。
「わたし、初めて、あの方が知らない人に見えました」
さて、ここからである。
言える札と言えない札を、胸の中で並べ直す。全部は、言えない。わたしが誰かは、言えない――あれは、いつかわたし自身の口で切るべき札である。けれど何も知らせず「調べなさい」とだけ言うのは、目隠しのまま歩かせるのと同じである。
私は声を落とした。
「お嬢さん。ひとつだけ、お話しいたしますわ。……先の奥様のご逝去には、
ロザリンデ嬢の息が、止まった。
「教会の文書庫に、封のまま眠っている申告がございます。中身は申し上げられません。ただ、いま騒げば、封は開かぬまま、あなたの縁談だけが
嫁ぐも、退くも、調べるも、やめるも。札は全部、あなたの手の中にある。そう並べて見せると、お嬢さんは長いこと黙って、膝の上の手を握ったり開いたりしていた。それから、顔を上げる。
「……調べは、続けますわ。嫁ぐかどうかは、全部知ってから決めます」
「結構ですわ」
四年前の食卓で、誰かがこうして札を並べてくれていたら――詮ない仮定である。詮ないから、いま、私が並べるのである。
◇
夜、山査子の家の台所は、書類の匂いになった。
バルドゥイン子爵、ヴィーデマン商会からの帰りである。基金の目付として、伯爵家の負債を――商人に通じる数字の言葉で――父君へ正式に伝えてきたという。
「手応えは?」
「半分です。『爵位に借金はつきもの』と笑っておられました。ただ帰り際に一言、『数字は持ち帰って、算盤に掛けます』と」
「商人の半信半疑は、上等ですわね」
「ええ。あの家の算盤なら、悪いようには弾きません」
それから彼は、鞄から油紙の包みを出した。開くと、書付が一枚。
『棺の検分記録 写し』
葬儀の前夜、人夫二人の立会で棺を検めた記録である。
「お見せするのは、初めてでした」
彼は書付を、卓のこちら側へ静かに押した。
「封を開ければ、糺しが始まります。開けなければ、このままです。……開けるも開けないも、あなたが決めることです」
紙一枚が、妙に重い。四年の間、私の暮らしはいつも、誰かの決めた紙の上にあった。嫁ぐ紙も、死ぬ紙も。その私の膝の上に、この人は、決める側の紙を置くのである。今日、私がロザリンデ嬢の手に札を並べたのと、同じ手つきで。
「……重うございますのね、紙って」
「ええ。ですから、お預けするだけです。急かしません」
書付を油紙へ戻す彼の手元で、葬儀の帳面が開いていた。差配役の字で、費えが一行ずつ並んでいる。棺、花、聖歌隊――なんの気なしに目で追って、指が止まった。
『
「……子爵様。お医者様に弔慰を包むご葬儀って、ございますの?」
彼の目の色が、変わった。