夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~   作:kuratn

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18. 叔父上とお呼びしません

 逃げる、という手も、あるにはある。

 

 晩秋の往来は、焼き栗売りの煙と炭売りの呼び声で忙しい。その雑踏の中で、私は半歩だけ足を止めた。半歩のうちに、算段はいくつも浮かぶ。回れ右をして市場へ戻る。頭巾を深くして通り過ぎる。どれも、できた。できたのに、足は前へ出たのである。届け物は届けねばならないし――逃げた足で、この先の四年を歩く気は、もうないのである。

 

 扉が開いて、声の主が出てくる。

 

 ゲロルト叔父。四年ぶりである。少し痩せて、外套の肘が薄く光っている。金回りの悪さが仕立てに出る人である。その目が、往来の私を通りすがりの女として素通りしかけ――戻ってきた。

 

「…………ヴェロニカ?」

 

 名前というものは、呼ばれると背骨が知っている。四年前まで、その声で呼ばれて食卓についていたのだから。

 

 それでも、膝は動いた。淑女の礼である。深く、正確に、首の角度まで教科書どおりに。

 

「――亡き従姉に、似ているそうですのね。よく言われますの」

 

「な……いや、お前」

 

「初めてお目にかかりますわ。故人の遠縁の、ヴェラと申します」

 

 叔父上、とは呼ばない。呼んでやらない、が正しい。故人の遠縁に、叔父はいないのである。

 

 叔父の目が、泳いだ。似ている、ではない。あれは姪だ、と目が言っている。言っているのに、口が続かない。無理もない。死んだはずの姪が生きて立っているなら、あの葬儀は何か、無心の宛先はどこへ行くのか。欲得の勘定だけは速い人である。この勘定の不気味さも、すぐ弾けたらしい。

 

 そこへ、扉の中から声がかかった。

 

「ゲロルト殿。お話の続きは、中で伺いましょう」

 

 ヴェンツェル先生である。その斜め後ろに、書類を抱えた生真面目な立ち姿。今日ここで落ち合う約束の、日傘の人である。目が合うと、彼はごく小さくうなずいた。案じるでもなく、割って入るでもなく、ただ「見ています」とだけ伝える目である。

 

 事務所の卓で、叔父は姿勢を立て直した。

 

「単刀直入に申し上げよう。亡き姪の遺言について、育ての親として、内容を伺う権利があるはずだ」

 

 ヴェンツェル先生は、眼鏡を直した。

 

「権利のお話でしたら、こちらに一冊、古い綴りがございましてな」

 

 卓の上に、色の褪せた帳面が、静かに置かれた。

 

「亡くなられた大奥様は、几帳面なお方でして。お孫様の後見の入り用を、後見人殿がどうお使いになったか、年ごとに写しを取っておられました。……遺言の執行のご相談とあれば、これも検討の場に出すことになりますが、いかがいたしましょう」

 

 叔父の顔から、順序よく色が引いていった。後見の入り用。両親が私に残した、少なくはないお金。どこへ消えたのかを、祖母は遠くから、ちゃんと数えていたのである。

 

「……いや。本日は、挨拶に伺っただけでしてな」

 

 腰の上がる速さは、見事だった。叔父は帽子を取り、誰にともなく揉み手の辞儀をして、扉へ向かう。その途中、一度だけ私を見た。何か言いかけ、やめ、目を逸らす。あれは、幽霊を見る目である。生きていようが死んでいようが、後ろ暗い目には、私はもう祟りに見えるのだ。

 

 窓の外、叔父は北の丘の方角へ何度も頭を下げながら、小走りに遠ざかっていった。墓に詫びるくらいなら、生きているうちに、スープの冷めない食卓をひとつ囲んでくれればよかったのである。

 

       ◇

 

 事務所を出ると、秋の日はもう傾いていた。

 

 落ち葉が、乾いた音で石畳を転がっていく。数歩歩いて、気づいた。指先が、震えている。寒さではない。怖さとも、少し違う。四年遅れで届いた、これは――。

 

「……わたくし、あの方に、怒ってもよかったんですのね。四年前に」

 

 声は、荒れなかった。荒れない代わりに、体の芯のほうで、長いこと留守だったものがじりじりと熱い。二十歳の食卓でスープの冷めるのを見ていた娘は、「はい」のほかに言葉を持たされていなかったのだ。持っていれば、怒れた。怒ってよかったのだ。誰に教わらなくても、それだけは、あの娘の権利だったのである。

 

 怒りというものは、湯と同じらしい。沸くのに四年かかっても、沸いてしまえば、ちゃんと熱い。指先の震えは寒気ではなく、湯気だったのである。

 

 私は往来の真ん中で、叔父の消えた方角へ向き直り、生涯でいちばん深い礼をした。

 

 膝を折る深さも、首の角度も、完璧に。――わたくしの礼は、深いほど怒っておりますのよ。四年ぶんですもの。どうぞ、お受け取りくださいませ。

 

 身を起こすと、隣に日傘が立っていた。彼は何も言わない。言わないまま、畳んだ日傘の柄を、震えの残る私の手に、そっと握らせた。木の柄は、彼の手の温度で、ぬるいくらいに温かい。

 

「……杖の代わりですの?」

 

「いえ。……手すりの、代わりです」

 

 帰り道、私はその手すりに、ずっとつかまって歩いた。

 

 ――週の変わり目に、触れが出る。リンデンタール伯爵家とヴィーデマン商会、結納の儀、相整い候。……時計の針が、また一つ、進んだのである。

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