夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
結納は、整ってしまったのである。
触れの文面は、市場の噂より一日遅れで帳場に届いた。朝の帳場は息が白く、触れの紙は指の先で冷たい。曰く、結納の儀相整い候。曰く、婚礼は亡き先夫人の一周忌明け、喪の作法に従い執り行い候――。
一周忌明け。
その五文字を、指でなぞる。喪の作法としては、最短である。世間体へ義理を立てながら、一日でも早く。急ぐ理由は書いていないけれど、書いていない理由ほど、よく読めるものはない。そしてこの日取りはつまり、わたくしの一周忌が、あちらの祝言の解禁日だということである。
自分の一周忌に日付がつく、というのも妙な話だが、もっと妙なのは、その日付が向こうの都合で決まることである。故人の暦のいちばん大事な頁を、殺した側が繰っている。……この暦は、いずれ、こちらの手で繰り直さねばなるまい。いずれ、がいつかは、まだ言葉にしないでおく。
夜の台所で、彼の報せがもうひとつ。
「持参金は、婚礼時払い。父君が条項で通したそうです」
「まあ」
「結納では品物だけ。金貨一千枚は、式まで一枚も動きません。……あの家の算盤なら悪いようには弾かない、と申し上げたとおりです」
商人の半信半疑が、防波堤をひとつ積んだのである。目付の警告の数字と、娘の言う「調べ」と。どちらが効いたのかは、たぶん、両方である。
「お嬢さんの調べも、効いておりますのね」
「ええ。あの方は、いい商人になります。……売り物の中身を、値札より先にご覧になる」
火鉢の上で、ふたつの湯呑みから湯気がまっすぐ立つ。冬の台所の作戦会議も、すっかり板についたものである。
そのロザリンデ嬢からは、文が一枚。婚礼支度の合間の、観察の報せである。
『家令の方が、触れの刷り屋を替えました。前の刷り屋には、もう出入り無用だそうです』
『それから、お茶の席で先の奥様のお話をすると、大奥様の扇が止まります。毎回です』
十九の観察眼は、今日も正確である。刷り屋を替えるのは、前の刷り屋に残るあの黒枠の版と名簿が気になるからで、扇が止まるのは、心当たりのある者の息の止まり方である。証しにはならない。ならないけれど、綻びというものは、いつも端から見えてくる。
◇
初霜が降りて、山査子の家は冬支度になった。
ズザンネが漬物の樽を仕込み、私は薪を積み、生垣の山査子は赤い実だけ残して葉を落とす。台所には塩と香草の匂いが立ちこめて、鼻の奥まであたたかい。帳場には火鉢が出て、インク壺は凍らない場所へ引っ越した。市場は温室の花と、冬の枝物の季節である。湯気の立つものが、何でもおいしい。
「ヴェラ、あんた年越しはどうすんだい?」
炭を継ぎ足しながら、ペトロネラが聞いてきた。毎年、市場の仲間と広場で年越しの鐘を聞くのだという。
「あんたも来な。市場の年越しは、騒がしいよ」
「まあ。故人も、入れていただけますの?」
「幽霊なら木戸銭は取らないよ」
言われたのが、存外に嬉しかったのである。四年、年越しというものは、鐘の数を一人で数える夜だった。今年は、数えなくていいらしい。
夜、火の前で手帳の冬の頁を開き、年の瀬の欄に書き込みをひとつ。『年越しの鐘を、市場で』。金曜の常連にも、声を掛けておいた。
「市場の年越しは、故人も入れていただけるそうですの」
「では、生者もご一緒します」
即答の速さに、書く手が少し笑った。
書き終えて、なんの気なしに、頁を後ろへ前へとめくってみる。
めくる指が、ふと気づく。弔いの日付を探すほうが、もう難しい。探さないし、数えない。ただ、指の腹に残る頁の厚みが、春からの日々の厚みである。四年、白いままだった帳面の持ち主としては、上出来にもほどがある。
そして、頁の先の白い余白を見る。年が明ければ春が来て、春が来れば、一周忌である。未来の日付の並びのいちばん先に、書くかどうかを迷う日付が、初めてひとつ待っている。……迷っているうちは、書かない。この帳面は、書きたい日付だけを書く帳面なのである。
◇
同じ夜、ヴィーデマン商会の帳場では、主人がひとり算盤を弾いていた。爵位の値段、一千枚。婚礼まで動かぬ条項、良し。目付の子爵が置いていった数字の紙は、抽斗に収めたまま、もう三度読み返した。娘の言う「調べ」とやらは、親の欲目か、それとも。算盤の玉が、めずらしく行き来して定まらない。定まらぬうちは判を急がぬのが、一代で店を興した男の家訓である。商人の勘というものは、良すぎる縁談ほど疑うようにできている。
――その夜更けである。
雪が、来た。今年最初の、音を吸う雪である。呼び声も車輪も犬の声も、白いものの向こうでくぐもって、世界がひと回り小さくなる。
戸締まりの途中で、生垣の木戸が軋んだ。開ければ、外套に雪を積もらせたロザリンデ嬢が、肩で息をして立っている。供も連れず、髪は乱れ、睫毛の先まで白い。目の縁だけが、赤い。
「ヴェラさん……わたし」
凍えた手が、私の袖をつかんだ。
「わたし、あの家に嫁ぐの、こわい」