夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
竈の火を強くして、濡れた外套を炉の前に干す。ズザンネが温めた葡萄湯を運んでくると、ロザリンデ嬢はやっと人心地の息を吐いた。折よく金曜である。書類を広げかけていた子爵様は、黙って卓の端へ席を譲る。
こわい、の中身は、堰を切ったように溢れ出した。葡萄湯の湯気の向こうで、十九の手が湯呑みを包んだまま、まだ小さく震えている。
「お屋敷は婚礼支度でお祭りみたいなのに、調べれば調べるほど、あの方が分からないんです。お墓でこわがって、先の奥様の話は誰にもさせなくて、お金のことばかり急いで。……父に申し上げても、『縁談に迷いはつきものだ』って。負債のことも、『爵位につく利で返る』って。父は、退きません」
商人の算盤は、疑いだけでは止まらないのである。半信半疑の半分は、まだ信のほうにある。
「決め手が、ないんです。あの家が信じられないっていう、わたしの勘のほかには、なんにも」
それでも、と十九の目は続けた。
「わたしひとりが厭だと申し上げるだけなら、いつでもできます。違約の盾を立ててくださる方も、いる。……いよいよとなれば、そういたします。でも、それだと父は、娘の勘で店の看板に泥を塗られたと思ったまま、一生を終えます。それに――わたしが逃げても、あのお家の借金は残ります。残っている限り、あの方たちは、次の持参金を探すだけです。次のお嬢さんは、たぶん、調べもしないままお嫁に行きます」
言うことが、いちいち正確である。娘の拒絶は、娘ひとりを救う。それは退路であって、根治ではない。あの家の嘘は書類の上で生きたまま、次の花嫁を待つのである。
言えば、止まる。言えば、春から積んだこちらの暮らしも止まる。誰のために言うのかと問われれば、あの娘のため、と答えるつもりである。……半分は。残りの半分は、まだ言葉にしない。炉の火のこちら側で覚えた、この温度のためだ、とは。
夜が更ける前に、ズザンネをつけて、お嬢さんを辻馬車で帰した。袖をつかんだ手の冷たさが、戻ったあとも袖口に残っている。台所では、炉の火だけが鳴っている。
長いこと、二人とも黙っていた。
考えていたのは、勘定である。故人の身軽さと、袖をつかんだあの手の冷たさと。天秤に載せるまでもない、と言えば嘘になる。載せて、傾いて――それでも針は、さっきから同じ側を指している。
卓の上には、彼の帳面。金の流れの裏取りは、あと少し。医師の口は、まだ。積み上げた調べの山の、てっぺんに足りない最後の一枚が何であるかは、二人とも、とうに分かっているのである。分かっていて口にしなかったのは、それが調べて出てくる紙ではなく、私の首から下がっている札だからである。
「……あの写しを、父君にお見せする手は、ございませんの?」
「封の外の写しは、ただの紙です。糺しの場に出て、初めて力を持つ。持たないまま見せれば、騒ぎだけが走って、封は開かずじまいになります」
「封を開けるには、わたくしの申立てが要る。……結局、戻って参りますのね。ここへ」
商会の算盤を、疑いではなく事実で止める。次の花嫁を、出さない。あの嘘を、根から抜く。それのできる決め手は、この世にひとつしかない。
――先の妻は、生きている。
それだけである。そして、それを言える者も、この世にひとりしかいない。
炉の火が、ぱちりと
「……子爵様。逃がして差し上げるのでは、足りませんの。この縁談を止められるのは、死んだ女ではございませんの。生きたわたくしだけですわ」
彼が、顔を上げた。
生真面目な目を、いくつもの色が順に通る。来たか、という色。やはり、という色。それから――怖い、という色である。
「……糺しを申し立てれば、あなたは『生きている伯爵夫人』に戻ります。記録の訂正だけで終われば、あなたの戻る先は」
「あの家ですわね。存じておりますわ」
訂正は、罠つきである。生き返った妻は、夫の家のものへ戻される。四年の別邸へ、よくて王都の座敷牢へ。この半年余りの身軽さは、故人の身軽さである。生き返るとは、それをいったん全部、脱ぐことである。
怖くないと言えば、嘘になる。手帳の未来の日付ごと、取り上げられるかもしれないのだ。けれど――取り上げられるのが怖くて畳んだ手で、あの娘の四年を見送るのは、もっと嫌である。
私は背筋を伸ばし、故人生活でいちばん上等の顔で、笑ってみせた。
「わたくし、生き返ろうと思いますの」
「――――」
「ですから、手伝ってくださいませな。……わたくしの、二度目の葬式を」
故人ヴェラの、畳み方。偽装の、立証。そして、戻されない道。解くべき勘定は、三つ。三つ揃って初めて、封は開けられる。開けるかどうかは、あなたが決める――春の聖具室からずっと、この人が守り通した規律の答えを、いま、返したのである。
彼は長いこと、私を見ていた――それから一度だけ目を閉じ、開いたときには、差配役の顔になっていた。卓の帳面を新しい頁で開き、インク壺の蓋を取り、生真面目な字で一行目を書く。
『ヴェロニカ様 ご生還の儀 段取り』
「……お葬式では、ございませんのね」
「わたしは、差配役ですので。……今度の差配は、間違えません」
私は椅子を引き寄せ、帳面のよく見える側へ回った。
「では、まず畳み方から参りましょうか」
「いいえ、立証から。畳むのは、最後でよろしい。……ヴェラ嬢の勤め先に、急に穴を空けては、花市が困ります」
「あら。雇い主より帳場の心配ですの」
段取りの言い合いが、なぜだか少し可笑しい。命懸けの相談のはずが、口ぶりは金曜の菓子当番と変わらないのである。たぶん、それでいい。大ごとは、金曜の顔で運ぶに限る。
棺を検めた夜から半年余り、この人がひとりで持っていてくれた紙の重さを、今度はふたりで持つのである。炉の明かりにペン先の影が躍って、段取りの一行目から、夜は長くなった。長い夜というものがこんなに温かいとは、あの春の私は知らなかったのである。
――夜明け前、最初の手紙の宛名を書いた。
『ザハリアス司祭さま』
四年前、わたくしの婚礼を執り行ってくださった方である。……生きている証人の、一人目。