夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
大聖堂の裏手に、審問局の入り口はある。
正面の大扉とは別の、
付き添いは、日傘の人。今日は日傘の代わりに、書類の鞄が重そうである。
「……ご気分は?」
「初めて舞台に上がる役者の気分ですわ。演目は、自分の人生ですけれど」
扉を押すと、蝋燭と古い羊皮紙の匂いに迎えられる。受付の小机で、若い係の修道士が申立ての趣を聞き、書き取りかけて、ペンを止め、もう一度こちらを見た。
「……故人の、申立てで?」
「ええ。故人本人の申立てですの」
「故人の申立ては、当局でも初めてです」
「まあ、光栄ですわ」
「こ、光栄……綴りに該当の欄がございませんので、余白に書きます」
真面目な顔で帳面の余白に書きつけるものだから、こちらも真面目な顔で待った。当局の帳面に、今日、妙な一行が増えたのである。
通された部屋の奥に、その人はいた。
老審問官アンゼルム師。白いものの多い眉の下の目が、入ってきた私を、書付と見比べるようにゆっくり眺める。四角四面を絵に描いて、額に入れたような佇まいである。その口が、開く。
「……よく、おいでなさった。当局は春から、この日を待ちましたぞ」
「まあ。故人は、せっかちが苦手ですの」
「結構。急いた
「お待たせした甲斐は、ございますかしら?」
「それを検めるのが、糺しというものです」
卓の上で、師は帳面を開いた。役所というものは、どこも帳面でできているらしい。教会も、例外ではない。
「申立ての条件を、棚卸しいたそう。第一、ご本人の申立て――本日、これで整い申した。第二、身元の証し。あなたが亡き夫人ご本人であることを、書付と生き身の両方で立てねばならん」
「婚礼を執り行った司祭様と、婚礼の記録と、四年仕えた者がおりますわ」
「結構。第三、偽装の立証。封の中身に、金の流れと、医師の口を揃えること」
「揃いつつ、ございますの」
「結構、結構」
結構、が出るたび、帳面に朱の印がひとつ増える。教会というところは、祈りまで帳面で管理しているらしい。四角四面のお役所ぶりが、今日ばかりは頼もしい。四角いものは、ひっくり返らないのである。
師はひとつうなずき、それから、帳面越しに言った。
「よろしいか? 〈保護の留保〉の出口はひとつ。あなたの申立てと立証が揃った日、当局は封を開き、死亡の記録と、婚姻そのものとを、同じ糺しの場で裁く。記録だけ直して家へお返しする、という雑な仕事は、当局はいたしませんでな。……世俗の沙汰は、王室評定所の評定官どのが同席して下される。教会と王権、帳面は二冊、場はひとつ」
同じ場で、一度に。戻される罠の、錠前の外し方である。隣で帳面を構えていた生真面目な人が、その一行を書き留める音だけが、しばらく部屋に鳴っていた。
◇
帰りしな、大聖堂の
冬の色硝子は光が薄くて、石の床に落ちる模様も控えめである。高い天井の下は冷えて静かで、燭台の火だけが暖色の点で並んでいる。春の葬儀の日、聖歌隊はここで、私の安らかな眠りを歌ったのである。祭壇の前で、私たちはどちらからともなく足を止め、並んで座った。
「祈られる側は、春からこっち、堪能いたしましたの。祈る側は、久しぶりですわ」
「何を祈られます?」
「内緒ですわ」
手を組んで、目を閉じる。祈りの中身は、内緒である。四年の別邸で、祈りというものはとうにやめていた。祈っても届かない場所がある、と覚えてしまったからである。届くかどうかは、今も知らない。知らないまま、それでも手を組みたくなる朝がある、ということだけを、春からの半年余りで覚え直した。内緒だけれど、隣の気配が同じように手を組むのが分かって、祈りの中身がひとつ、増える。
◇
同じ頃、リンデンタール伯爵邸は婚礼支度の色に沸いていた。仕立て屋と飾り職人が出入りし、廊下には反物と目録が積まれる。当主は上機嫌の日が増えた。母がその袖を引いて何か言うたび、上機嫌は一枚だけ薄くなる。反物の山の陰で、家令だけが、触れの綴りの置き場を今月三度変えた。屋敷でいちばん静かなのは、亡き夫人の墓のある北の丘の方角へ向いた、書斎の窓である。
――数日ののち、領地から返事が届いた。
司祭ザハリアスの、几帳面な手跡である。文面は、たった一行である。
『すぐ参ります』