夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
司祭様は、ほんとうにすぐ参られたのである。
文から十日と経たない昼、旅装のまま山査子の家の木戸をくぐり、出迎えた私の顔を見て、
「……奥様」
一目である。四年前、婚礼で顔を伏せてばかりいた花嫁を、この目は覚えていたのである。誤魔化す必要のない客というのは、なんと楽なお客だろう。楽で、そして、少しだけ喉の奥が詰まる。この王都で「奥様」と呼んでくれる声は、ズザンネとこの方の、ふたつきりである。
「お久しゅうございます、ザハリアス様。……あいにく、死んでおりませんの」
「存じております。存じておりますとも」
老司祭は何度もうなずき、それから、堪えるように長く息を吐いた。ズザンネが台所から飛んできて、「司祭様!」と声を上げ、また泣いた。この家の涙の量は、近ごろ少し多い。多いぶんだけ、湯気も多いから、釣り合いは取れている。
卓に着くと、司祭様は旅嚢から油紙の包みを出した。婚礼記録の写しである。四年前の日付、二人の名、立会人の署名。花嫁の欄の署名の字は、いま見ると、ずいぶん強張っている。二十歳の「はい」の字である。いまの帳場の字と、同じ手が書いたとは思えない。
私の結婚は、こんなに薄い紙一枚なのだった。薄い紙一枚が、今度は私を生き返らせる側に回るのである。紙というものは、書く者次第で、どちらの味方もする。
「申立ての証人、お引き受けくださいますのね?」
「そのために参りました。……四十年、婚礼と葬儀を執り行ってきましたが、執り行った婚礼の花嫁を生き返らせるのは、初めてです」
真顔でそう言うから、教会の方々というのは、皆こういう芸風なのかもしれない。
◇
午後、連れ立って北の丘へ上る。
冬枯れの糸杉の下、白い石の前で、司祭様は祈りを上げてくださった。亡き人の安息を、ではない。生きて立つ者の道行きの無事を、である。冬の風が糸杉を鳴らして、祈りの声だけが、静かな丘にまっすぐ通る。その隣で、私は伯爵家の倍の花の傾きを直し、しおれた一輪を抜いた。
「手前の墓で祈っていただくのは、妙な心地ですわね」
「四十年勤めて、初めての務めです」
「お花が、見事ですな」
「毎月、身内価格ですの」
「……なるほど」
祈り終えて、司祭様はしばらく、墓碑銘を眺めていた。それから、静かに言う。
「あの日、あなたは一度も顔をお上げにならなかった。……わたしは、あれからずっと、あの婚礼を悔いております。祝福の言葉を口にしながら、祝われる人の顔を、一度も見ないままだったことを」
四年前の礼拝堂を、思い出す。伏せた目に映っていたのは、石の床と、自分の裾ばかりだった。あの日の私は、顔の上げ方というものを、知らなかったのである。
「――今日は、上げておりますでしょう?」
顔を上げて、そう申し上げる。司祭様は目を細め、深く、深くうなずいた。
「ええ。……ようやく、祝福の続きができます」
◇
夕方の台所は、三人ぶんの茶と、領地の話でできている。
「司祭様、お変わりのう」
「ズザンネさんこそ。……別邸が閉じてから、案じておりました」
領地の者同士の再会は、訛りまであたたかい。ズザンネの淹れた茶を、司祭様は「別邸の畑の味がする」と褒め、ズザンネはまた前掛けを目に当てる。話は自然、祖母のことになった。
「大奥様は……ウルズラ様は、婚礼の前の月に、ひそかにわたしの教会へおいでになりました」
「まあ。祖母が?」
「ええ。孫娘の嫁ぎ先は、どういう土地か。司祭のわたしから見て、どういう家か。……ずいぶん長いこと、お尋ねになった。帰り際に、一言だけ。『あの子に何かあったら、あんたが気づいておやり』と」
そこで司祭様は、湯呑みに目を落とす。
「ですが、わたしは、その頼みを果たせませんでした。婚礼のあと、二度、別邸をお訪ねして――二度とも、門前で『ご静養中』の一点張りで。文を出せば、返るのは家令どのの代筆の定型文ばかり。大奥様への報せには『息災のご様子』としか書けず……訃報のときには、確かめるより先に、ご葬儀が済んでいたのです」
「門は、内側からも簡単には開きませんでしたのよ。……あの別邸は、そういう普請ですわ」
慰めではなく、事実である。あの門は、訪う人を止めるためではなく、中の人を仕舞っておくための普請だったのだ。止められた側に、責め心は湧かない。
湯呑みの中の茶が、静かに揺れた。遺言の執行人に、夫家で唯一帳面の綺麗な子を選んだ人である。婚礼の前から、祖母はもう、疑っていたのだ。疑って、見張り役を頼んで回って、それでも婚礼は止められなくて――せめて家一軒と、釘一本の条項を遺したのである。
「……気づいてくださいましたのね。四年、遅れましたけれど」
「ええ。遅れましたが」
司祭様は、湯呑みを置いて言った。
「間に合いました」
間に合いました、の一言を、私はたぶん一生、この湯呑みの茶の色と一緒に覚えている。見張り役は、四年、門前で止められ続けた。止められ続けて、それでも文一通で駆けつけて、頼まれた役目を果たしに来てくれたのである。釘一本の条項と、この老司祭の旅装とで、あの遺言はようやく全部の意味が繋がったのだ。
日が落ちる頃、木戸の外に見知った足音がして、生真面目な人が司祭様を宿へ案内に現れた。荷を持ち、深く一礼して、「聖具室の子爵様」と紹介されるなり、司祭様にしげしげと眺められている。
「あなたが。……なるほど、大奥様のお見立ての通りだ」
「み、見立て、とは」
「『夫家で唯一、帳面の綺麗な子』と」
耳の赤くなる速さで、帳面の綺麗さまで知れるというものである。戸口で、司祭様がふと問うた。
「時に子爵殿。この糺しが済んだら、あなたは、どうなさる?」
一拍。例の、誠実の長さの一拍である。
「……済んでから、申し上げます」
何が済んでから、何を申し上げるのか。聞かないでおいた。聞かない楽しみ、というものを、私は近ごろ覚えはじめている。
二人を送り出して、卓の帳面を閉じる。
「――残るは、お医者様ですわね」
誰もいない台所に、声だけ置いた。次の金曜の、議題である。