夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~   作:kuratn

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23. 署名の重さ

 医師モーザーの診療所は、西の区の角にある。

 

 夕暮れどき、患者の絶えた待合に、薬草と樟脳(しょうのう)の匂いが薄く漂っている。長椅子の端が擦り切れて、窓口の払い箱には薄く埃が積もっていた。春から患者足が遠のいた、と近所の噂で聞いている。医者の顔色が悪い医院に、人は掛かりたがらないものである。

 

 取り次ぎに出た当人は、バルドゥイン子爵の顔を見て、それからその後ろの私を見て――どういうわけか、最初から観念した顔をしていた。

 

「……いつか、どなたかが見えると思っておりましたよ」

 

 診察室の椅子に、医者は自分が患者のように腰を下ろした。追い詰める芸は、要らなかったのである。この人は春からずっと、自分で自分を追い詰めていたらしい。

 

「署名一枚が、金貨十枚。……高いか安いか、あれからずっと、毎晩考えましたよ。診てもいない人の死に顔が、夢に出るのだから、安かったんでしょうな」

 

「診断書の日付の日、先生は競馬場においででしたわね」

 

「……ご存じでしたか。ええ、おりました。負けが込み、薬種代も溜まり、そこへ周旋屋が話を持ってきましてな。診なくていい、書くだけでいい、と。書くだけ。……書くだけの紙で、人がひとり、この世からいなくなるとは」

 

「どなたのお指図かは?」

 

「周旋屋は、お屋敷の御用としか。金は後日、葬儀の帳面から出たと聞きました。……弔慰、という名目で。医者が弔慰をもらう葬式なんぞ、あるものですか?」

 

 ないと思う。当のご本人も、かねてそう思っていたところである。

 

 医者は顔を上げ、私をまじまじと見た。それから、何かに気づいたように、ゆっくりと血の気が引いていく。

 

「先生に、ひとつ伺いますわ。……わたくしを、診ていただいたことは?」

 

「…………一度も」

 

「では、初診ですわね。おかげさまで、息災ですの」

 

「……へ? ま、まさか……」

 

 医者は椅子から立ち上がり、それから、膝が抜けたように座り直した。夢に出た死に顔が、目の前で茶目を言っているのだから、無理もない。この人の祟りは、今日で終わりである。生きた本人が、終わらせに来たのだから。

 

「……証言を、なさいますのね?」

 

「いたします。糺しの場でも、どこでも。……先生と呼ばれる資格ごと、お返しするつもりで」

 

 誓約の書付に、医者は署名した。春に一枚、書いてはいけない紙に署名した手が、今日は書くべき紙に署名する。ペンの音は、同じ音である。同じ音で、逆のものが書けるのが、紙というものである。

 

       ◇

 

 帰り道、生真面目な人が言う。

 

「これで、図の線が見えました。書面は家令。署名は医師。指図の窓口は、周旋屋。……残るは、窓口の向こうの支払い主を、紙に言わせることです」

 

 それから彼は、鞄の綴りを叩いた。

 

「基金の調べは一式、王室評定所へ移します。わたしは目付を降りて、証人に退きます。……ここから先は、身内が裁いてはいけません」

 

「周旋屋の帳面は、どうなさいますの? 御用の出入りが、みんな載っておりますでしょうに」

 

「移した先で、評定官の名により、写しの差し出しが命ぜられます。周旋屋は商人です。お屋敷の義理と評定所の命なら、迷わず命を取る。……金貨の出入りが、日付ごと写しで出ます」

 

 商人の帳面が、商人を語るのである。彼の得意の土俵だった。

 

「出れば、図は」

 

「線で繋がります。診断書の手配も、葬儀の口入れも、お祓いも、窓口はひとつ。その窓口への支払い主は、春より前は従兄ひとりで――義母上の名が出てくるのは、葬儀のあとからです。つまり、計画は従兄。知って隠したのが、母君。……断じるのはわたしではなく、写しの日付です」

 

 断じるのは日付、と言い切る横顔は、どこまでも目付の顔である。

 

「あなたの帳面ですのに」

 

「帳面は、誰がめくっても同じ数字が出るから帳面なのです。……ひとつだけ、言わせていただければ」

 

 彼の声が、一段だけ低くなる。

 

「流行病の備えの基金を食った男が、妻を流行病で死んだことにした。……従兄は、帳尻というものを知らない」

 

 この皮肉を、彼は春からずっと、一度も口にしなかったのである。医者の署名が揃った今日にだけ、一度だけ、言った。言い終えた横顔は、もう、いつもの帳面の顔に戻っている。

 

       ◇

 

 リンデンタール伯爵邸では、婚礼の招待状が刷り上がった。新しい刷り屋の、上等の紙である。当主は満足げに一枚を撫でたが、母は目を落としたきり、長く黙った。書体が、似ているのである。春に出した、あの黒枠の触れと。刷り屋を替えても、王都の活字の型は、そう何種類もない。同じ型で、弔いと祝いが順に刷られていく。それを縁起が悪いと言い出す者は、あの屋敷には、もういない。

 

 ――帰りの橋の上で、川風に当たった。

 

 冬の川は音が硬い。(はしけ)(かい)のひと掻きまで、はっきり届く。欄干に並んで、どちらからともなく足が止まる。

 

「終わりが、見えましたわね」

 

「ええ。……見えてしまいました」

 

 見えてしまいました、の言い方が、妙に静かだった。問い返す前に、彼は「さ、冷えます」と歩き出してしまう。終わりが見えて、この人が何を仕舞ったのか、私はまだ知らずにいる。

 

 ――数日ののち、店じまいの帳場の前に、供の一人もつけない老貴婦人が立った。

 

 喪の色の外套。手にした扇。四年前の婚礼で一度、遠目に見たきりの――義母である。

 

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