夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
糺しは、よく整えられた帳面のように進んだ。
まず、身元の検めである。司祭ザハリアスが進み出て、宣誓の上、私の顔をまっすぐに見た。
「四年前……いえ、五年前の春になりますか。わたしが婚礼を執り行った花嫁、ヴェロニカ様ご本人に相違ないこと、神の御名にかけて誓います」
婚礼記録の写しが卓に開かれ、私はその場で、同じ署名を書いてみせる。ヴェンツェル先生が新旧二つの署名を引き合わせて、うなずいた。ズザンネが続く。「四年お仕えした、奥様ご本人でございます」。これで、記録の上のヴェロニカと、ヴェールを上げた女とが、一本の線で結ばれたのである。
次は、指図の検めである。審問官が、証言台の家令に問う。
「届書と、触れと、医師の手配。指図した者は、誰か?」
「……だ、旦那様で、ございます。ダンクマール様、おひとりで」
周旋屋の帳面の写しが、震える声を裏書きした。医師の口利きも、葬儀の口入れも、支払い主は春より前、当主ただひとり。日付の並びは、家令の証言と一枚に重なる。
「反証のある者は、申し出よ」
大聖堂は、静まり返っていた。反証というものは、あるところにはあるが、ないところには、ないのである。
――かくして、裁きの口上である。二人がかりであった。
まず、教会。アンゼルム師が祭壇の前に立ち、三つ、数えるように宣する。
「一つ。リンデンタール伯爵夫人ヴェロニカの死亡の記録は、虚偽として抹消する」
「二つ。当該の婚姻は、〈配偶者の偽りの葬礼〉という誓約の重大な冒涜、ならびに四年の遺棄の実体により、無効である」
「三つ。夫人には、いかなる咎めもない。……死んだ覚えのない者に、死んだ届を直させる法はない」
三つ目のところで、四角四面の声が、初めてほんの少しだけやわらいだ。
咎めなし。分かっていた言葉のはずなのに、聞いた途端、膝の力がわずかに緩んだ。一年、胸の底のどこかで身構えていたらしい。隠れた女、逃げた女と、いつか誰かに指を差される日を。差す指は、ないのである。教会法のいちばん固い声が、いま、満座の前でそう言い切ったのだ。
次に、王権である。評定官エーヴァルト様が立ち、沙汰の口上だけを、簿を読む声で下していく。伯爵は爵位を王命預かりとし、領地にて
沙汰のひとつごとに、満座のどこかで息を呑む音がする。私はといえば、妙に静かな心地で聞いていた。一年かけて積んだ紙の山が、いま、ひとつずつ言葉になって崩れていく。崩れた山の下から出てきたのは、復讐の甘みではなく、風通しである。胸の中を、春の風が抜ける場所ができたのだ。四年と一年、そこには物置のように、言えないものばかりが積んであったのである。
夫は、沙汰のあいだ、一度も顔を上げなかった。義母は逆に、最後まで背筋を伸ばしている。伸ばしたまま、修道院預かりの沙汰を受け、伸ばしたまま、退出の列に立つ。あの背筋だけは、本物なのである。敵ながら、というのも妙だけれど、あの背筋の張り方だけ、少し覚えておこうと思った。
沙汰が終わると、ヴィーデマン商会の主人が立つ。
「本縁談、白紙に戻させていただく。……商人は、看板に偽りのある店とは取引せぬのが、家訓での」
持参金は婚礼時払いの条項どおり、一枚も渡っていない。商人の算盤は最後まで正確だった――半分は、娘の調べのおかげである。その娘が父の隣で立ち上がり、よく通る声で言った。
「お断りの理由は、父とは別ですわ。……わたくし、先の奥様と、お友達ですの」
満座が、また少しどよめく。当の「先の奥様」には、友達の初耳である。初耳だけれど、悪くない初耳である。
夫が、最後に口を開いた。絞りかすのような声である。
「墓は……どうする?」
墓。この期に及んで、墓である。石で始まり、石で終わる人なのだ。私は答えなかった。答える義理が、もうないのである。義理のなさは、故人時代からの、数少ない持ち越し財産である。
――それから、事務の時間である。
ヴェンツェル先生が進み出て、祖母の遺言の執行を宣する。受取人ヴェロニカの名乗り出により、〈山査子の家〉の凍結は解かれ、あの家はほんとうに、私のものになった。署名の欄に、私は旧姓で書く。ヴェロニカ・ブランデル。四年ぶりに書く綴りは、指が少し迷って、それから、ちゃんと思い出した。書き慣れるまで、そう間はかかるまい。
書き終えると、ロザリンデ嬢が駆け寄ってくる。
「ヴェラさん……いいえ」
「ヴェロニカですわ。初めまして」
差し出した手を、彼女は両手で握った。守られた娘と守った女、ではない。調べた娘と、調べた女。対等の、初めましてである。
人の波が引いた祭壇の脇で、生真面目な人が待っていた。
「で――あなたは、どなたに戻られます?」
伯爵夫人には、戻らない。ブランデルの娘の暮らしは、二十歳の春に終わっている。戻れる場所を指折り数えて、ふと可笑しくなった。数えるまでもないのである。この問いの答えなら、とうに帳面に書いてある。
「戻りませんの。進みますのよ」
彼は目を細め、深くうなずいた。それから、荷物を持ちましょう、と手を出してくる。渡すほどの荷物は、ない。ないので、代わりに空の手を渡しておいた。大聖堂の石段を、そうして下りる。一年前、ひとりで上った石段である。
石段の下で、春の王都が、いつも通りに騒がしかった。荷車の音、呼び売りの声、どこかの鐘。一年前、この騒がしさの中へ、私は名前を捨てて降りていった。今日は名前ごと、同じ騒がしさへ降りていく。持ち物は増えたが、身軽さは、あまり変わらない。身軽というものは、どうやら名前の問題ではなかったらしい。
――翌朝。花市は、いつも通りに開く。
いつも通りでないものは、帳場へ押し寄せた、王都じゅうの野次馬だけである。