夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
芽吹きの季節の山査子は、白い蕾を数えきれないほどつける。
朝から、家の中が妙だった。ズザンネが山査子の家じゅうを磨き上げ、庭の椅子に真新しい敷物を掛け、それでいて何を聞いても「さあて、なんのことやら」と口笛を吹くのである。口笛の下手な人の口笛ほど、雄弁なものはない。
昼下がり、約束の人は、なぜか木戸から入り直した。一度入って、出て、また入ったのである。散歩の癖にしては、忙しない。
「……何をしてらっしゃるの?」
「仕切り直しです」
彼は帽子を取り、姿勢を正し、初対面の礼をした。
「まず――司祭様に『済んでから申し上げる』と言った件を、申し上げに参りました」
済んでから。冬の戸口の、あの預かりの一言である。あれから糺しが済み、裁きが済み、故人の廃業まで済んだ。……つまり、今日がその日なのである。心の臓が、勝手に速くなった。
「初めまして、から始めさせてください。――バルドゥインと申します。帳面ばかり見て、生きてきました」
名乗り直し、である。聖具室から数えて一年と少し、週の半分を同じ台所で過ごした人が、春の庭で、初対面の口上を述べている。可笑しいような、可笑しくないような、胸の詰まるような。
乗って差し上げるのが、礼儀である。
「……ヴェロニカと申しますわ。ブランデルの。花市の帳場で、達筆をしております」
「存じ上げています。王都でいちばんの達筆です」
生真面目な顔は、いつも通りである。いつも通りでないのは、握った帽子の縁が、少し歪んでいることくらいで。
「ヴェロニカ嬢。折り入って、申し上げたいことがあります」
「伺いますわ」
「故人との結婚は、教会が渋りますので。――生きていただけますか。わたしのために、ではなく……いえ」
彼はそこで言葉を切り、例の、誠実の長さの一拍を置いた。言い直しの終わるまでを、私は春の庭で、息を止めて待つ。風がやみ、蜂の羽音が遠のいて、世界がこの一拍に付き合ってくれている。
「――あなたのために生きるあなたの、隣をください」
返済の言葉で生きてきた人が、初めて、欲しいものを欲しいと言ったのである。
隣、と言われた。妻の座でも、奥方の椅子でもなく、隣である。座る場所ではなく、歩く場所である。四年、座らされることばかりだった女に、この人は最初から最後まで、歩く話しかしないのだ。
返事は、決めてあった。決めてあったのに、いざ声にしようとすると、喉の奥が急に狭くなる。四年、欲しがることを仕舞い込んで生きた女は、こういうとき、言葉より先に手が動くのである。いつかの夕立の日、傘の下で覚えた手順だ。書くのが怖くて、それでも書いた最初の一行から、この頁まで、手はずっと、心より半歩先に動いてくれた。
私は、予定帳を開いた。
未来の日付で埋まった頁の、今日の行を、彼のほうへ向ける。朝のうちに書いておいた、一行である。
『バルドゥイン様に、「はい」と、お返事』
「――本日の予定ですの」
朝、この一行を書いた手は、少しも迷わなかった。五年前、婚礼の記録に強張った署名をした手と、同じ手である。同じ手が迷わずに書ける日付というものを、この一年、ひとつずつ増やしてきたのだ。
彼は頁を長いこと見つめていた。それから、聞いたことのない不器用な声で笑う。笑いながら、目の縁が光っていた気がするけれど、春の庭は光るものが多いので、詮索はやめておく。
「朝のうちに、とは」
「ええ。あなたより先に、決めておりましたのよ」
「……敵いませんね」
「敵わなくてよろしいの。帳面の勝負は、これから一生ぶん、ございますわ」
彼は困ったように笑い、それから山査子の蕾の下で、彼の手が、私の手を取った。帳面焼けした、インクの匂いのする指である。四年と一年、誰にも取られなかった手は、存外あっさりと、その中に納まった。納まりのいい場所というものは、世の中に、ちゃんとあるのである。
「……ときに、ヴェロニカ嬢。祝いの菓子は、焦げたのと焦げていないのと、どちらがよろしいですか?」
「まあ。それはもちろん――両方ですわ」
――家の中から、皿の割れる音と、盛大な泣き声が聞こえたのは、その直後である。扉の陰のズザンネが、盆ごと感極まったらしい。おかげで祝いの菓子より先に、割れた皿の片づけから、私たちの婚約は始まった。誰も泣かない婚約より、よほど上等な始まりである。
――のちに聞いた話だが、教会は二度目の式には、格別に念入りだという。書類の検めが、それはそれは細かいそうである。
望むところである。こちらの書類は、今度こそ、一枚残らず本物なのだから。