夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
花市は、うるさかった。
水売りの声。荷車の車輪。競りの手を叩く音。四方八方から呼び交わす女たちの声、声、声。四年、風の音だけを聞いて暮らした耳には、まるで祭りの只中である。
そして、匂い。百合と薔薇と、土と青葉と、朝の水の匂いが、いっぺんに押し寄せてくる。目の奥が、つんとした。うるさくて、匂いが濃くて、まぶしい。生きている場所というのは、こんなにも騒々しいものだったか。
最初の半刻は、正直、少し痛かった。音も光も匂いも、四年ぶんの静けさに慣れた体には強すぎるのである。それでも帳場の椅子に座り、インク壺の蓋を開けるころには、痛みは妙な高揚に変わっていた。心の臓が、久しぶりに仕事をしている。
「おや、あんたが子爵様の言ってた達筆かい?」
女主人のペトロネラは、腕の太い、声の大きな人だった。帳場の帳面を三頁めくり、私の書いた見本の字を眺めて、にやりと笑う。
「よし、雇った。週に銀貨二枚。相場より一枚高いのは、達筆と算盤の分だ。逃げるんじゃないよ」
「故人ですので、逃げ足には自信がございませんの」
「何だって?」
「いいえ。よろしくお願いいたしますわ」
こうして、故人の勤めが始まったのである。
帳場の仕事は、性に合っていた。数字は嘘をつかないし、花は文句を言わない。仕入れの帳面を昼までに整えたら、ペトロネラが「うちの帳場は今日から達筆だよ!」と市場じゅうに触れて回って、少し困った。
「あんた、その手つき、帳場は初めてじゃないね?」
「家の帳面を、長く。……暇だけは、たっぷりございましたの」
「結構。暇だった女は、よく働くんだ」
雇い主の人生訓は、乱暴で、悪くない。
その昼である。店先に、見知った日傘が立った。
「ヴェラ嬢。初日のご様子を伺いに」
「まあ、子爵様。ご覧のとおりですわ。……匂いが、すごいんですの」
「匂い?」
「別邸は、無音無臭でしたのよ。ここは音と匂いの洪水ですわ。溺れそうですの」
彼は生真面目な顔で市場を見回し、屋台で串焼きを二本買ってきた。一本を、こちらへ差し出す。
「溺れる前に、腹ごしらえを」
「往来で、ですの?」
「伯爵夫人は往来で物を食べませんが……故人は、いかがです?」
私は串を受け取った。熱い。肉汁が指に垂れて、慌てて口に運ぶ。熱くて、塩辛くて、少し焦げていて――おいしい。四年ぶんの舌が、一斉に目を覚ますような味である。
「故人は、行儀が自由ですのね」
「それは何よりです」
◇
午後、小さな客が来た。伯爵家のお仕着せを着た、使いの小僧である。
「月命日の花を、頼まれてきました。白いのを、ひと抱え」
「お供えのご用途で?」
「はい。亡くなった奥様に」
……あら。
私は帳面に「リンデンタール伯爵家・月命日・白」と書きつけた。自分のお墓の花の注文を、自分の手で帳面につけて、自分の手で束ねるのである。世の中は、広い。
「かしこまりました。心を込めて、お作りいたしますわ」
嘘ではない。何しろ、故人のお好みを、この世で一番よく存じ上げている。
仕事場の隅を借りて、束を組んだ。白百合を減らして、野の白い花を多めに。あの方、大仰な花は苦手なのだ。別邸の庭の隅に、誰にも言わずに野の花の一角を作っていたくらいである。茎を切り、丈を揃え、麻紐をかける。指が花の冷たさを覚えていく。自分の墓に供える花を束ねる手つきとしては、我ながら、ずいぶん機嫌がいい。
できあがった束を見て、小僧が首をひねった。
「なんだか、お墓っぽくないですね」
「ええ。お墓っぽくないのが、お好みですの」
「ねえ、坊や。お屋敷は、近ごろいかが?」
「へえ。それが、妙に静かで」
小僧は釣り銭を数えながら、大人びた溜め息をついた。
「旦那様は書斎にこもりっきりだし、大奥様はぴりぴりしてるし。……幽霊でも出そうです」
「あらあら」
出るとしたら、それは幽霊ではないと思うけれど、黙っておいた。
◇
夕方、店じまいの帳面を締めて、山査子の家へ帰る。台所で湯を沸かし、ふと気づいた。今日一日、一度も「静かだ」と思わなかったのである。耳の奥で、まだ市場ががやがやと鳴っている。悪くない残響である。
手帳を開いて、明日の仕入れの刻限を書き込んだ。弔いの日付の隣に、初めて並んだ、勤めの予定である。ペンの先が、頁の上でことりと軽い。
そこへ、山査子の生垣の向こうから声がした。近所の子どもが、垣根越しに首を出している。
「ねえ、おばさん。この家、誰か住んでるの? ずっと真っ暗だったのに」
「ええ。今日から、灯りがつきますのよ」
私はやかんを持ったまま、にっこりした。
「管理人が、住み込みましたの」
「ふうん」
子どもはつまらなそうに帰っていった。空き家が空き家でなくなるのは、子どもには退屈な報せらしい。
――ただし翌日、家の前に弔問の先触れが立つのである。曰く、「亡き夫人のご縁者様に、ご挨拶を申し上げたい」。故人の家は、存外に忙しい。