夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
義母の名代は、香水のきつい親戚夫人である。
伯爵家の遠縁で、大奥様の茶飲み仲間だという触れ込みである。山査子の家の応接間に通すなり、彼女は値踏みの目で天井から床までを一往復させた。
「まあ……思ったより、ちゃんとしたお家ですこと」
「故人の祖母の家ですので」
「そうそう、その話ですのよ」
夫人は扇を開いて、身を乗り出した。
「形見分けの儀、と申し上げましたけれどね。伯爵家としては、亡き奥様のお身の回りの品を、ご縁者のあなたにもお分けしたいの。ありがたいでしょう?」
「まあ、ご丁寧に」
言いながら、目録らしき紙を出してくる。象牙の櫛、一。肩掛け、二。祈祷書、一。見覚えのある品書きである。どれも、あの別邸に置いてきた私の持ち物だ。四年間で増えたものが、この一枚に収まる量しかないという事実のほうに、うっかり感心してしまった。
「それでね。その、代わりと申しては何ですけれど――このお家。亡き奥様のお祖母様のお家は、いずれ伯爵家がお預かりして、供養のよすがにしてはどうかと、大奥様が仰っていて」
来た。
形見の小物と引き換えに、家を寄越せという算段である。しかも口ぶりからして、寄越せと言っているのは義母――大奥様その人だ。あの家で私が使っていた櫛だの肩掛けだのと、祖母の家一軒を、釣り合うとお思いらしい。
「大奥様は、それはそれは、亡き奥様を悼んでおいでで」
「さようでございましょうねえ」
悼んでいるでしょうとも。毎晩、露見の夢を見るくらいには。
私は茶を注ぎ足し、にっこりと申し上げた。
「ですけれど、あいにくですわ。故人に義理はございませんの」
「……は?」
「亡き奥様は、伯爵家に何のご恩もお持ちでないでしょう、と申し上げましたの。四年間、別邸で誰にもお会いにならず、何も与えられず。ご葬儀だけは、たいそう立派にしていただいたそうですけれど」
夫人の扇が、ぱちりと止まり、こちらを覗き込んでくる。
「そそそ、葬儀、葬儀よ! あれに大変な費えを……」
「それにこの家、凍っておりますのよ」
私はそう言って静かにお茶を口に含む。
「凍って……?」
「遺言の執行が済むまで、誰にも渡せない決まりですの。執行人はバルドゥイン子爵様。ご不服でしたら、公証人のヴェンツェル先生と、教会の文書庫をお相手になさいませ」
教会、のところで夫人の顔色が変わった。なるほど、通告状の中身は、あの家の中では知れ渡っているらしい。
「きょ、教会だなんて、大袈裟な。こちらは善意で」
「まあ嬉しい。では善意だけ、頂戴いたしますわ。お品物とお家は、結構ですので」
深い、深い礼。夫人は何度か口を開閉させ、扇をせわしなく動かしながら帰っていった。廊下に残った香水の匂いが消えるまで、窓を開け放しておく。山査子の生垣を抜けてきた風は、雨の匂いがした。
◇
リンデンタール伯爵家の墓所に、新しい石が立った。先代よりも、先々代よりも立派な、磨き上げた白大理石である。石屋には「亡き妻への、せめてもの」と語ったという。ダンクマールは近ごろ、石屋にばかり金払いがいい。夜、書斎の窓から墓所の方角を見ては、カーテンを閉める。それが、日課になりつつある。石屋の請求書だけが、几帳面に増えていく。
◇
夕方、店じまいの刻限に、空が破れた。
夏の走りの、大粒の夕立である。帳場の
「お帰りですか? 送ります」
「日傘で、雨を、ですの?」
「傘は傘です」
まっすぐな理屈である。二人でひとつの傘に入り、水たまりを避けながら歩いた。石畳を打つ雨の音が、傘の布一枚向こうで鳴っている。傘は小さく、彼の右肩はぐっしょり濡れて、それでも傘は、きっちり私の側に傾いていた。
「……子爵様。濡れてらっしゃいますわよ」
「か、管理人が風邪を引くと、家が困ります」
視線をこちらに向けることもなく言い放つ。
「まあ。家のためですの」
「そう、家のためです」
家のため、と言った耳が、少し赤い気がしたけれど、雨の夕方は何もかも色が濃く見えるものである。詮索はやめておく。
◇
山査子の生垣を過ぎ、玄関のひさしまで来て傘を出る。
彼は濡れた肩を手巾で慌ててぬぐった。
礼を言いかけて、ふと思いつく。
「その手巾、お借りしてよろしいかしら? お返しがてら、洗って干しておきますわ」
「お、おぉ! そ、それは助かりますな。では、金曜に!」
「では、金曜に……」
彼が雨の中を帰っていく。まっすぐな背中が、角を曲がって見えなくなる。
私は台所で手帳を開き、ペンを執って――一度、止まった。
弔いの日付と、仕入れの刻限。そこに書き足そうとしているのは、初めての、約束の日付である。誰かと会う約束。四年間、この手が一度も書いたことのなかった種類の、一行である。
書きかけて、やめようか、と思う。約束というものは、あてにすると、外れたときに痛い。四年の別邸暮らしで身につけた、欲しがる前に諦めておく癖である。ペン先が頁の上で迷って――それから、私は思い出す――。
わたくし、死んだのだった。
死んだ女に、いまさら用心するものなど、何ひとつないのである。
『金曜、手巾をお返しする』
書いてしまえば、ただの一行である。ただの一行が、妙に、頁の上で明るい。
――その晩、花市の当番小屋で、若い衆がひとつ噂話を仕入れてきたそうだ。曰く。
「閉店後の花市に、白い影が出る」