夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
噂というものは、育てた覚えがなくても育つ。
「出たんだとよ、白い影」
朝の花市で、荷下ろしの若い衆が声をひそめていた。曰く、三日前の晩、店じまいのあとの花市に、白いものがすうっと立っていたという。提灯を掲げた夜番が腰を抜かして、当番小屋まで走ったそうである。
白い影だけなら、酔っ払いの見間違いで済んだはずである。けれどここは、リンデンタール伯爵家が亡き夫人の墓花を月々あつらえる花市だ。誰かが言い出した。あれは亡くなった伯爵夫人が、ご自分の花の出来を、見にいらしたのだ――と。
三日前の晩。私は棚卸しをしていた。白い前掛けで。在庫の鉢を数えながら、花の間を行ったり来たりして。
「……それ、わたくしですわね」
「はあ?」
「いいえ、こちらの話ですの」
幽霊の正体、白い前掛けの管理人である。腰を抜かした夜番には気の毒だけれど、世間というものは、思いのほか目が悪い。生きて歩いているだけで幽霊にされるのだから、書類の上で死んでいる身としては、笑うしかない。
面白いのは、客の顔ぶれだった。何もやましいところのない常連は「へえ、出たかい」と笑って、いつも通りに花を買って帰る。花好きの隠居のご婦人などは「夫人も花がお好きだったのねえ」と、むしろ嬉しそうである。よくご存じで、と申し上げておいた。事実、お好きである。
青くなるのは、決まって後ろ暗い人たちなのだ。つけ払いを半年も溜めていた仲買人などは、翌朝一番に飛んできて、耳を揃えて払っていった。
「夫人の
「まあ、ご立派な心がけ」
祟った覚えはないが、帳面は綺麗になった。幽霊も、たまには世の役に立つ。生きていた四年より、死んでからのひと月あまりのほうが、世間の役に立っている気さえする。妙な人生である。人生と呼んでよいのかどうかは、この際措く。
ペトロネラに至っては、商売の種くらいにしか思っていない。
「幽霊見たさに客が来るなら、あたしは礼を言うね。ヴェラ、あんた夜もいてくれていいよ」
「お給金が出るなら、考えますわ」
「幽霊に給金を払う店があるかい?」
あるとしたら、ここだと思う。この雇い主は、幽霊が達筆で算盤が立つなら、たぶん本物でも雇う。
◇
午後、伯爵家の使いの小僧が来た。顔色が、悪い。
「月命日の花……こ、今月から、倍にしてほしいって」
「あら。倍」
「旦那様が、倍にせよと。それと、その……」
小僧は帳場に身を乗り出し、震える小声で聞いてきた。
「ここに、で、出るって本当ですか?」
「さあ。わたくしは、見たことがございませんの」
これは嘘ではない。鏡なら別だが。
「で、でも、うちの女中頭が言うんです。悪いことをした家に、亡くなった人は帰ってくるって。……うち、大丈夫かな?」
「あらあら」
坊やの家がどうかは、坊やの旦那様に聞くのが一番だと思う。もちろん、言わないでおいた。小僧は倍の花を抱えて、逃げるように帰っていく。倍の花代は、きっちり頂いてある。故人の墓は、今月から倍、賑やかになるらしい。結構なことである。
◇
夕方、店じまいの帳場に、見知った日傘が寄った。締めの数字を待つ間、彼は往来の噂を聞くともなしに聞いていたらしい。
「……白い影、だそうですね」
「ですって。あの夜は棚卸しでしたのに」
「幽霊のご本人は、どう思われます?」
「よく働く幽霊だと思いますわ。……いえ、感心しておりますの」
彼は笑わない。笑わないまま、目だけが少し柔らかくなる。この人の笑いは、いつも顔のどこか別の場所に出るのである。
「訂正なさらないのですか? 正体は管理人だと」
「あら。訂正して、どなたか得をなさいます?」
常連は面白がり、帳場の借りは返り、花は倍売れる。夜番には、後日こっそり飴を差し入れておいた。
「……なるほど。故人は、否定もしない」
「ええ。故人は、忙しいんですの」
言いながら、帳面を締めて、ふと思う。祟りというものは、外から来るのではないらしい。後ろ暗さが、勝手に育てて、勝手に怯えるのだ。
――だとすると、あのお屋敷は、これからますます賑やかになる。祓っても清めても、育ての親が屋根の下にいるのだから、キリがない。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。……お屋敷の皆様は、お健やかかしらと思いまして」
「それは、また」
彼は日傘の柄を握り直した。
「……故人は、お優しい」
「あら。故人は、他人事ですの」
そこへ、店の小僧が郵便を持ってきた。宛名を見て、手が止まる。
『亡き姪ヴェロニカの、ご縁者どのへ』
差出人は、ゲロルト。領地の町に住む、私の叔父――二十歳の私を、あの縁組へ送り出した人である。
封も切らないうちから、用件の察しがついた。こういう字を書く人の用件は、昔からひとつしかない。