「――! ぐっ、う……うん? ここはどこだ?」
「…………?」
俺が目を覚ますと、何故か夜の公園のベンチに寝かされており、体には緑色のパーカーがかけられていた。
たしか……杏子にぶん殴られて……それから?
「…………」
「…………?」
…………。
彼女に殴られて俺が気絶したところまでは覚えてる。
おそらく、彼女がここまで連れてきてくれたんだろうが、それよりも。
俺は、さっきから気になっていた視線に、思わず顔を横に向ける。
「…………?」
「…………」
今度こそ、ばっちりと目が合った。
…………ツッコんだ方がいいのか? それとも見なかったことにした方がいいのか。
横になっていた俺の顔を覗き込んでいる黄緑色の髪の小学校低学年くらいの女の子の存在を。
とりあえず、防犯ブザーを鳴らされないように注意して柔和な笑みを浮かべて挨拶しよう。
俺は怪しいお兄さんじゃないよ?
「えーっと、こんばんは、お嬢さん」
「……! こ、こんばんは。お兄さん!」
うん、挨拶ができる良い子なようだ。
偉いね。中学生でもできない奴はたまにいるんだよ。
そんな知能指数が極限まで下がった思考回路を可能な限り作動させる。
「お嬢さん、お名前は? ちなみにお兄さんは
不審者として通報された時のため、偽名を使う。
小さな女の子にいきなり嘘を吐くことに罪悪感があるが、自己保身は基本中の基本だ。
「お名前? ゆまはゆまって言うの!」
「そうかゆまちゃんか! 良い名前だね。ところでゆまちゃんはこんな時間に公園で何してるんだい?」
時刻は大体午後八時頃——正確には七時五十三分だ。
良い子は家に帰って晩飯を食うなり、風呂に入るなりしている時間帯だろう。
最近の子がどうなのかは分からないが、こんな時間まで彷徨いて良い時間じゃないのは確かだ。
すると、ゆまちゃんの顔が暗くなり、俯いてしまう。
(こいつは……訳アリ、かな)
こんな寒い夜に一人で歩かせてるんだ。
他人の家庭の事情にとやかく言うのは気が進まないが、失礼な言い方をすればまともじゃない。
「……ママがおこってる。おうち帰ってくるなって」
「……そうか」
「ゆま、いい子じゃないからおこられるのかな……いらないのかな……?」
ゆまちゃんは——ぽつり、と呟くように一人で夜の公園にいる理由を話してくれた。
その言葉が妙に耳に残った。
まるで昔の自分が、どこか遠くから同じことを聞いているような気がした。
いや、俺のことはどうでもいい。
虐待児か、それとも何かやらかして罰として締め出されたか。
後者ならこのまま家に一緒に出向いて親に一言文句でも言ってやりたいが……いや、まさかこの歳で家出か? 可能性の範疇でしかないが、あり得ないことでもないだろう。
俺がゆまちゃんの家庭環境について、頭を悩ませている時——強い風が吹いた。
「うおっ! 寒っ⁉︎」
「へくちっ!」
冷気を帯びた風が吹き抜け、思わず身震いしたその時——ゆまちゃんの額に『あるもの』が見えた。
「——あぁ?」
俺は『ソレ』を見た瞬間——思わず、唸るような声を出してしまった。
見間違いでなければ、それはケロイド状に盛り上がり、硬くなっている『火傷』の痕だった。
明らかに偶然できたものじゃない人為的な傷。
丁度——タバコの火を押し付けたりすれば、このような傷ができるかもしれない。
「……見た?」
「ああ。ゆまちゃん……もしかして君は」
「だめ! ゆまは、おいしゃさんに行っちゃだめなの!」
慌てたように声をあげるゆまちゃんを見て、何となく事情を察する。
決して愉快ではない彼女の過去が。
そりゃ、こんな傷を医者に診せたら一発で虐待が明るみに出るだろう。
いっそ、このまま彼女の家に乗り込んで両親を叩きのめしてやろうか、と危険な思考に陥ってしまい、その考えを脳内で振り払う。
「おいしゃさん行くとね。『じどうそうだんじょ』って人達がうちに来るの。そしたらママ……すごく怒るの。だから、おいしゃさん……だめなの」
「……だろうね。でも、ゆまちゃんはこんな目に遭っても苦しくないの?」
「……ゆまは平気だよ! ありがとうお兄さん!」
「ゆまちゃんは良い子だね。……でもな、我慢しなくていい」
俺は立ち去ろうとするゆまちゃんに「悪い、ちょっと見せてくれ」と、そう断って袖口を少し持ち上げると、予想通り夥しい数の痣があった。
「こんな目に遭って平気だって? なんで嫌だって助けを求めねぇ?」
「いやなんかじゃ……」
「ここに逃げてきたんじゃねぇのか?」
その言葉にゆまちゃんの双眸が大きく見開かれる。
その反応を見て確信する。
締め出されたんじゃない。やっぱり家出だったんだ。
「ゆま……へいき、だもん……!」
「やめとけゆまちゃん。そんなの君が苦しいだけだ」
きっとこの子は我慢していれば母親が変わってくれると信じていたんだろう。
いい子にしてれば、いつか自分を愛してくれると疑わなかったのだろう。
俺は母親について良い印象はないから、ゆまちゃんの気持ちはわかってやれないのかもしれない。
だからこそ——子供にとって当たり前の権利を叫ぶ。
「嫌な時はな、助けてって言って良いんだよ。ゆまちゃんは子供なんだから」
「でも……ゆまは……!」
「必要なのは勇気だけさ。誰かのためにいい子になる必要なんてない。ゆまちゃんはなりたい自分になっていいんだ」
決して、俺のようにならないでくれ——その言葉を呑み込んだ。
俯くゆまちゃんに手を差し伸べ、告げる。
「さあ、行こうか」
「え、どこに……?」
「決まってるだろう——おまわりさんの所だ」
ゆまちゃんの手を引いて交番を目指す。
といっても、赤の他人の中学生がこれ以上首を突っ込むと、色々と面倒なことになりそうな気がするので、あくまで交番の前まで案内するだけだ。
そこから先は、無責任だがゆまちゃん次第だ。
俺にできるのは、交番まで連れていくことくらいだ。
そこから先は、警察や児童相談所みたいな、その道の大人に任せるしかない。
一介の中学生として、やれるだけのことはもうやり尽くした……はずだ。
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中学生にとって、夜の十時は比較的遅い時間と言えるだろう。
場所によってはこのくらいの時間になるとシャッターを下ろした店舗が増え、その代わりに居酒屋などの『大人向けのお店ばかりが開いている』状態となる。
街中には一部の教師や警備員が巡回しているため、補導覚悟で出歩いているような
逆に言えば見滝原に限らず、夜の街とはそういう不良連中や危ない筋の連中が跋扈する時間帯でもあり、不用意に普通の学生が出歩くと『トラブル』に巻き込まれやすい訳だが。
そんな夜の街を、俺はとぼとぼ歩いていた。
(あーあー……。結構遅くなっちまったなぁ……)
交番を後にした俺は、真っ直ぐ帰宅する。
ゆまちゃんを交番に送った後、こっそり帰るはずだったのだが、運悪く交番へ向かう途中で巡回中の警察に発見され、事情を説明するハメになった。
しばらくの聴取を経て、ゆまちゃんは警察に保護され、俺は解放された。
ゆまちゃんの家族がこの後どうなるかは分からないが、きっと警察や児童相談所が動いてくれるだろう。
そしてゆまちゃん本人は……おそらく親戚に引き取られるか、あるいは施設に送られるか。
最終的な選択はゆまちゃんに任せるはずが……結局、最後まで余計な首を突っ込んでしまった。
本当に、何もかもうまくいかない。
これが最善であったかは分からないが、最悪の事態は免れた……そう思わなければやってられない。
冷たい夜風を吸い込み、ようやく肩の力を抜く。
俺のやったことが余計な世話だったとしても、あの子が安心して眠れるなら、それでいい。
「さて……コンビニ寄ってコーヒーでも買って帰るかな……」
今から帰って、明日の朝の支度を済ませなければならず、カフェインを入れて眠気を飛ばそうと考えながら、進行方向をわずかに変えた。
明日は土曜日であり、学校がないことだけが救いだ。
蛍光灯に惹かれる蛾のように、その辺のコンビニへ向かった所で、
「うぅ、うーん……」
ふと、誰かの寝言みたいな声が聞こえた。
しかしそこに人間はいないはずだ。
だって、そこにあるのは赤い郵便ポストだけなのだから。
メール全盛のこの時代、ちゃんと現役なのかすら怪しいポストが一本立っているだけで、どう見てもそこにベッドなんてあるわけない。
そのはずなのだが。
「お、おえー……気持ち悪い……」
「…………」
変な酔っ払いの女性が、道端に寝転がっていた。
ポストの支柱を両手で抱えて。
ショートヘアにスーツ姿のキャリアウーマン風の格好。
少し離れた所には、おそらくこの女性の持ち物と思われる小型のハンドバッグが無造作に転がっている。
どうぞ襲ってくださいと、あまりにも無防備すぎて逆に構う気が起きなくなる。
さてと、コンビニ行くか、と素通りしようとしたが、
(ん? この顔、どっかで見たような気が……?)
ふと、立ち止まった。
酔っ払いOLの顔を改めて見ると、妙に『鹿目先輩』の事が頭にちらつく。
(……何だろう? 他人の空似ってヤツか……?)
どうにも気になって、女性の近くに寄ってじろじろと顔を見ていたのだが、
「うぁぁー……ともひさぁー、みずぅ……」
女性の双眸が開いたと思ったら、酔っ払いがこちらに抱きついてきて、道路に転がる。
腰の辺りに抱きついた女性は、自分の体が密着している事を全く気に留めない。
「……あぁん? ともひさじゃない……? わらひに馴れ馴れしく触るんじゃねー」
そう言うと、俺を押しのけて、ちょっと離れた所にぺたんと座り込んだ。
ほんの一瞬だけ、その頭に冷水をぶっかけてやりたくなる衝動に駆られたが、
「……んの、スダレハゲ……呑みたきゃ手酌してろっつーの……」
もはや、この酔っ払いは無敵だった。
多分この女性は、今ならワルプルギスの夜が襲ってこようが平気で生き残ってそうだ。
(相手にするとひたすら面倒くさそうだ……。さっさとコーヒー買って帰ろう)
ゆっくりと立ち上がり、ズボンについた汚れを片手で簡単に払うと、ため息をついてその場から離れようとして、
「おいちょっと、つれねぇなー。無視すんなよたつやー……」
ガシッと、酔っ払いに足首を掴まれた。
ほわぁっ!? という叫びと共に再び転ぶ。
無敵の酔っ払いは俺の背中に乗りかかりつつ、
「たつやー、いつの間にこんなに大きくなりやがったんだ……?」
「クソッ、イカれてんのか⁉︎ さっきから俺を誰と見間違ってやがるんです⁉︎」
思わず叫んでから、しまったと己の失敗を悟った。
後ろを見ると、ようやくまともに相手にしてもらった寂しい酔っ払いが、にやぁ……と、すごく嫌な笑みを浮かべている。
「ともひさー、おんぶー」
「たつやは何処に行ったんですか⁉︎ いや、俺はともひさでもねぇけどな‼︎」
「あぁん……わたしの目は騙されねぇぞ……ぷはー」
「酒臭ぇ!! 現在進行形でチョロすぎるほどに騙されてますが⁉︎」
もうコンビニとかコーヒーとかはどうでも良い。
とにかく一刻も早く背中に乗っている最強の酔っ払いから解放されたかった。
これ以上こんなものに絡まれたら、それこそ朝になって酔いが覚めるまで延々とトラブルに巻き込まれ続けるに決まっている。
かといって、こんな無差別に混沌を撒き散らす災厄を放置するような無責任なことはできない。
ならば、どうするべきか——当然、迅速に処理するべきだ。
「……ったく、家はどちらですか?」
「……うーん、あっち……」
支離滅裂な泥酔状態の女性を背負ったまま、俺はなんとか立ち上がった。
ずっしりとした重みが背中に伝わる。背広からはうっすら香水の香りと、それを台無しにするレベルの強烈なアルコール臭が漂っていた。
……まあ、路上で放置して凍死されるか、変な事件に巻き込まれるよりはマシか。
魔女退治ではないが、魔法少女として治安維持に貢献してやろう。
転がっていたハンドバッグを回収し、肩に掛ける。
指さされた「あっち」の方向へ、とぼとぼと歩き出した。
見滝原の夜の住宅街。
街灯の下を、中学生が泥酔したキャリアウーマンをおんぶして歩くという奇妙すぎる構図にため息を吐く。
「これが残業……サービス残業か」
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「……まったく、酒癖の悪い女性だった。俺も気をつけよっと」
深夜の見滝原の住宅街。
背中にずっしりと乗しかかる酔っ払いの重みからの解放感を感じながら俺は何度目になるかもわからないため息を吐いた。
上司の愚痴を耳元で零され、適当に相槌を打っていたが、社会人の苦労話は中学一年生にはまだ早いと思うんだ。
どうにか家であろう場所に送り届け、帰路に着く。
彼女の誘導のままに歩いていたため、彼女が『ここ』と差し示した場所が本当に彼女の住居であれば、の話だ。
悪いが、それ以上の面倒は見きれない。
最後の最後で無責任だったかもしれないが、魔法少女? も人間であり、苦手なものの一つはある。
「……あら、千子君?」
「——っ!」
すっかり人気のなくなった広場を横切って歩いていると、偶然に巴先輩と出会った。
魔法少女の姿に変身しているところを見るに、魔女と戦った後だったのかもしれない。
「こんばんは」
「あ……こ、こんばんは……巴先輩。こんな遅くまでお疲れ様です」
「ええ……千子君は魔女退治じゃないの?」
にこやかに訊ねてくる巴先輩の表情を見るに、特に他意はないようだ。
魔法少女が夜遅くまで出歩く理由など、魔女退治くらいなものだから、きっと巴先輩はそう訊いたのだろう。
(巴先輩……今だけは、俺はあなたに会いたくなかった)
強がって、無理しすぎて、誰よりも強くて繊細な心の持ち主。
この人に魔法少女の秘密を告げるのは、残酷すぎて——辛い。
「巴先輩」
「どうしたの?」
柔らかな笑みを浮かべ、俺の言葉を待つ巴先輩を見て、奥歯が鳴り、胃の中が逆流しそうになる。
(言え……! 言えよッ! 覚悟はしてきたはずだろ⁉︎)
しかし、意志に反して言葉は喉から出ず、心臓が痛いほどに暴れるだけ。
そんな俺の様子を不審に思ったのか、巴先輩も不安そうな顔をしている。
そんな中、俺がようやく絞り出せた言葉は、
「明日、予定とか……ありますか……?」
「え……?」
「もしよければ……明日、俺に付き合ってください」
「え……えぇっ⁉︎」
何やら目を丸くして、珍しく大きな声を出す巴先輩だが、俺は情けなさやら不甲斐なさやらで胸がいっぱいになる。
覚悟はしていたつもりだった。しかし、いざ対面すると恐怖や罪悪感で崩れ落ちそうになる。
事前に鹿目先輩達の反応を見てしまったのが、良くなかったのかもしれない。
この人を傷つけることが、こんなに怖いとは思わなかった。
「……わかったわ。じゃあ、また明日会いましょう」
「……ありがとうございます。では、また明日……」
巴先輩に背を向けて、まるで彼女から逃げるように歩き出す。
(俺は……弱いな……)
そんな俺に巴先輩は訝しげな視線を向けてくるが、今の俺には、うつむく以上のことはできなかった。