家を出ると、頭上には雲ひとつない青空が広がっていた。
太陽は中天へと差し掛かりつつあり、もう正午が近いことを告げている。
今日は土曜日。学業から解放された多くの生徒たちが浮かれ、思い思いに休日を満喫しているであろうこの日に、浮かない顔で歩いている俺は、よく言えば異端。悪く言えばただの不審者だ。
メインストリートを外れた街路。
立ち並ぶ店舗の中でも、睦まじい夫婦が営む花屋には一際人が集まっていた。
店頭を彩る花々に客たちが綻ばせる笑みを、気付けば目で追っている。
平和な喧騒に包まれながら、一瞬、自分の知らない世界に迷い込んだような錯覚に襲われた。
「馬鹿を言え……」
この街には魔女がいて、魔法少女がいる。
今さら普通の休日に溶け込めるほど、俺は器用じゃない。
脳裏を掠めた迷いを振り払い、街路を抜けた先で足を止めた。
「……ここだったな」
『魔法少女体験コース』などという、新手の職業体験か何かに擬した地獄で訪れた場所。
あの薔薇の怪物——『薔薇園の魔女』が潜んでいた廃ビルを見上げる。
つい最近の出来事であるはずなのに、随分と遠い昔のことのように思えるのは、ここ数日で激変した日常のせいだろう。
入り口付近に張り巡らされた黄色と黒の規制テープを見て、ここで魔女に操られ命を落とした女性の姿が脳裏をよぎる。
俺は静かに手を合わせ、名も知らぬ彼女の冥福を祈ってからビルの中へと足を踏み入れた。
階段を登る——と見せかけて壁を蹴り、三角飛びの要領で対向の壁へ。埃っぽい空気を切り裂き、一気に屋上へと駆け上がった。
扉を押し開け、顔を上げた先に彼女はいた。
黄を基調とした衣装に、チェックのスカート。殺風景な廃墟にはあまりにも不釣り合いな、可憐な背中。
「巴先輩……」
掠れた声でその名を呼ぶ。
振り返った彼女は少し丸く目を見開いた後、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「……あの、すみません。時間を取らせてしまって」
「気にしないで。千子君のお誘いだもの」
かつて化け物が巣食っていた屋上で、俺は巴先輩と対峙する。
「……」
「……千子君?」
互いの視線が絡み合う。
これほど近くで二人きりで見つめ合うのは、いつ以来だろうか。
こんな状況だというのに、彼女の佇まいは時を忘れてしまうほどに美しかった。温もりを宿した大きな金色の瞳に、吸い込まれそうになる。
いっそすべての現実を忘れて、このまま見惚れていられたなら——そんな逃避が頭をよぎる。
「……どうしたの?」
穏やかな問いかけ。だが、その一言には無数の意味が込められているように感じられた。
金色の瞳に、自分の見苦しい葛藤が見透かされている気がする。
息が苦しい。鼓動の音が耳奥でやけにうるさく響く。
カラカラに乾いた口内に舌を這わせ、俺は重い言葉を吐き出した。
「巴先輩は……」
「……」
「魔女に……生きる理由があったとしたら。俺たちと変わらない『願い』を持っていたとしたら、どうしますか?」
言ってしまった。
昨日、杏子にも投げかけた問い。
もしも魔女が自分たちと同じ人間らしい願いを秘めていたなら——それでも貴方は銃を向け、戦い続けられるのか、と。
「……」
巴先輩は小さな唇を閉ざした。
要領を得ない質問であるはずなのに、安易に笑い飛ばしも否定もせず、真摯に受け止めて自身の答えを探している。
静寂が流れる。屋上を冷たい風が吹き抜けていく。
やがて、俺から一度も目を逸らさなかった彼女が、静かに口を開いた。
「私は、魔女が人に危害を加えるなら……いいえ」
一度だけ首を振り、言い直す。
「魔女のせいで誰かが傷つくのなら──私は魔女を、倒すわ」
「っ……!?」
肩が 跳ね上がり、呼吸が止まった。
一切の迷いを排した声音。それはあまりにも『巴マミ』らしい答えだった。
どこまでも正しく、優しく……だからこそ、残酷だ。
胸の奥が凍りついていく。
目の前の少女が己の過酷な末路を知った時、その瞳を曇らせて自分自身に銃口を向ける未来が、鮮明に脳裏を掠めた。
この人は、魔女を許さない。
たとえそれが、自分自身だったとしても。
「千子君……? 一体どうしたの? 今日は少し変よ」
気遣うような優しい声が、痛烈に刺さる。
(——どうすればいい)
思考が濁り、視界が明滅する。
立ち尽くすのは選択の瀬戸際。前進か、後退か。
渦巻く感情が胸中を荒らし、動悸と冷や汗が限界に達しようとしていた。
(——終わる)
ここで言葉を誤れば、すべてが終わる。
千子村正は、巴マミの『敵』になるのだ。
次の一言で——。
「巴……先輩!」
「なあに? 千子君」
もつれる言葉を待つ間も、彼女は決して急かさず、柔らかく微笑み続けている。
いつだってそうだ。彼女は俺を待ってくれていた。
どうすればいい。何と言えばいい。
土壇場に至っても腹を括れない己の惰弱さに、反吐が出る。
この無能さと覚悟の無さが、今まさに彼女を追い詰めようとしているのだ。
こんなことなら、最初からしゃしゃり出るべきではなかったのかもしれない。
——その時、ふと昨日の少女の言葉が脳裏をよぎった。
『ゆま、いい子じゃないから怒られるのかな……いらないのかな……?』
あの子も、今の俺と同じような心地だったのだろうか。
あの時、俺はあの子になんと声をかけた?
偉そうなことを口にした責任を、俺は果たさなければならない。
(——でも、あとひとつだけ)
もしもあと一つ、俺が踏み切るための理由があるのなら……。
固直して動かない俺の右手を、巴先輩の手がそっと包み込んだ。
「……な、なんでしょう……?」
「千子君」
巴先輩はじっと俺を見つめていた。
長い付き合いだ。俺が何かを隠していることなど、とうに見抜いているのだろう。言えない事情があることさえ察した上で、
「……話してみて?」
いつもの温かな声音。
何度も自分を救ってくれた、澄んだ瞳。
駆け出しの未熟者だった頃から、ずっと隣で支え続けてくれた信頼すべき先輩の微笑み。
(——ああ、もう、それだけで十分だ)
深く、静かに息を吸い込む。
命を賭けた脅迫も、破滅的な博打もいらない。
俺に必要なのは、目の前の少女を丸ごと受け止める覚悟だけだ。
一歩、踏み出す。
突然の接近に巴先輩が驚きに目を瞬かせるより早く、俺は差し出されていた彼女の両手を、決して解けぬ強さで包み込んだ。
「千子君……?」
「先輩。驚かないで、そのまま聞いてください」
華奢な手首と指先を俺の手の中に固く繋ぎ止める。
魔法を発動する隙すら与えない、素手による穏やかな拘束。
巴先輩は困惑に眉をひそめたが、俺の手から伝わる尋常ではない体温と硬質さに息を呑み、逃れるのをやめた。
「今から話すのは、キュゥべえが俺たちにひた隠しにしている、魔法少女の『真実』です」
「魔法少女の……真実……?」
圧するような俺の視線に、巴先輩が唾を呑み込む。
端的に言えば──。
そう前置きして紡いだ俺の言葉に、場の空気は凍りついた。
「俺たちが『ソウルジェム』と呼んでいるあの宝石は……本当の『魂そのもの』です。ソウルジェムが肉体から百メートル離れれば、体はただの死体になる」
「う……嘘よ。そんなの、たちの悪い冗談じゃない……!」
あなたの肉体は既に人間ではない。
そんな現実を突きつけられて動じない者などいるはずがない。
状況を受け入れられず、動揺のまま手を引き抜こうとする巴先輩。
だが俺はその手を決して離さず、強く握り返した。
「それだけじゃない。ソウルジェムの穢れが極限まで溜まった時、それはグリーフシードへと変質し……新たな魔女に、なっちまうんだ……!」
「——っっ!? な……それじゃあ……! 私が今まで命を懸けて倒してきた魔女たちは……みんな、私と同じ魔法少女だったというの……!?」
もはや涙を堪えることすらできず、巴先輩は悲鳴のような声で詰め寄ってくる。
握りしめた手が激しく震えていた。
困惑、動揺、そして俺に対する糾弾に似た感情。
けれど——俺はその手を離さない。彼女が絶望の淵に沈もうとも、その体温を繋ぎ止め続けるように。
「俺たちが殺してきた魔女は、元は俺たちと同じ魔法少女です。これは嘘でも誤魔化しでもない」
一切の回りくどい弁明は捨てた。
ここで真実を濁せば、元凶であるインキュベーターを糾弾する資格すら失う。
彼女の困惑も、不満も、怒りも。すべてを過不足なく受け止め、己の言葉で告げる。
「じゃあ……私もいつか魔女になるの……? 絶望してソウルジェムが濁れば、私も魔女になって人を襲うの……!?」
すべてに裏切られたような表情で、縋るように俺を見つめる。
「そうです」
「──っ! だったら……!」
その瞬間、巴先輩の指先に鋭い魔力が集まり始めた。
己のソウルジェムを撃ち抜き、死を受け入れるための銃を顕現させようとしている。
「──死ぬしかないじゃない!!」
だが、その兆候を見逃すはずもない。
引き寄せた彼女の手ごと、その体を強く胸の中へ抱きしめた。
「——巴先輩ッ!」
狂気と絶望の叫びとともに召喚されかけたマスケット銃の銃口が、彼女の髪飾りのソウルジェムへと向けられる。
——弾丸が放たれるより早く。
俺は手首を掴み直し、体重をかけて彼女の体を屋上の床へと押し倒した。
放たれた魔法の弾丸が俺の額を浅く掠め、空の彼方へと消えていく。
戦闘経験で勝る彼女であっても、この至近距離での組み合いなら俺に分がある。手首を固定し、頭上のソウルジェムへの視線を遮るように覆いかぶさる。
目と鼻の先にある俺の瞳を、彼女が見つめていた。
一切の揺らぎがない光を宿して、俺は彼女を見つめ返す。
「離してッ!」
「嫌です、離しません! 巴先輩を死なせたりしない!」
「どうしてッ!? どうして私を助けるの!? どうして、私を見捨ててくれないの!?」
必死に目を瞑り、絶叫する巴先輩に、俺は毅然と言い放つ。
「巴先輩だって、絶対に同じことをするからだ!」
その答えに、彼女は言葉を失った。
立場が逆なら俺を見捨てないはずだという確信。それに抗うように、彼女の唇が震える。
「……しないっ。私なら、あなたを助けたりなんて……しないっ!」
「巴先輩は、嘘が下手だ」
断腸の思いで紡がれた言葉を、俺は即座に否定した。
彼女の顔が、今にも泣き出しそうに歪む。
「もういいっ! 私なんて、放っておいて……!」
「嫌です」
きっぱりと拒絶する。
彼女は俺の腕から逃れようと暴れようとしたが、どうしても力を込められないようだった。
俺が今『誰のために』必死になっているのか、気づいているからだろう。
「……千子君」
暴れる力すら失った彼女が、生ける屍のような虚ろさで呟く。
「私ね……パパとママを見殺しにしたの……」
「……っ!」
「ドライブの途中……事故に遭って。二人とも酷い怪我で動けなくなって……そこに、キュゥべえが現れたの」
「……そこで、奴が」
「『みんなを助けて』って……言えなかった。……我が身可愛さに、私は二人を殺したのよ……」
耳元で囁かれる、彼女の『罪』の告白。
これまで固く口を閉ざしていた過去を打ち明けてきたのは、俺に自分を捨てさせるためだ。
「私はね、千子君が思っているような綺麗な先輩じゃない……もっと汚れた、罪人なの……」
心の奥底に澱んでいた、負の刻印。
彼女は泣きそうな顔でそれを吐き出していく。
「私に……救われる価値なんてないのよ……」
それは偽りのない、彼女の本心なのだろう。
事故の光景、動かなくなった両親、惨めな自分。悲しみと絶望が、彼女の心を今も蝕み続けている。
「私には……もう『正義』なんてない」
「俺は『正義』なんて大層なものはわかりません。でも、俺は巴先輩からたくさんのものをもらった」
彼女の闇を打ち払うように、声を張る。
「他人の言葉じゃ慰めにしかならないのもわかってる。でも……」
傷つき、迷うたびに俺を導いてくれたのは彼女の手だ。
彼女の言葉に、助言に、俺はいつだって勇気をもらってきた。
「あなたはいつだって『正義の味方』みたいに、俺を導いてくれた」
溢れ出た言葉が、彼女の胸を撃ち抜く。
揺れる金色の瞳に、熱が宿る。
「ちがう……違うっ! 私は、間違えたの……!」
「巴先輩が間違っていたなんて、誰にも否定させない。たとえ、それが巴先輩自身だとしても」
「っ……!」
「俺は昔の巴先輩を知らない。でも、誰よりも優しい今のあなたを知っている」
水面のように揺れていた彼女の瞳から、とめどなく涙が溢れ出していく。
「あなたが自分を否定するなら、俺が隣でその否定を否定し続けます。巴先輩が自分を許せるようになるまで、何度だって!」
「私は……私はっ……!」
否定する言葉を失い、流れる涙を拭うこともできず、彼女は何度も言葉を詰まらせた。
「あなたは——俺を救ってくれた」
無条件の信頼を込めた言葉。
この過酷な運命が自分たちを許すはずもないと知っていながらも、彼女の瞳に「生きたい」という微かな光が灯るのを俺は見逃さなかった。
「本当に……これからも一緒に戦ってくれるの? 側に……いてくれるの……?」
「あなたがいてくれないと、俺は寂しいです——巴先輩」
俺が笑ってみせると、彼女は指先で涙を拭い、心の底から笑った。
くしゃりと顔を崩して笑い、その端からボロボロと涙をこぼす。
嗚咽と漏れ出る笑い声を隠すように、俺の胸に顔を押し付けてくる彼女を、俺はそのまま強く抱きしめた。
「私……もう、ひとりぼっちじゃないのね。こんな弱くて駄目な私だけど……それでも傍にいてくれる?」
「はい。こんな俺でよければ」
静かに答えると、彼女は胸の中で泣き笑いの声を漏らした。
——運命は変えられる。変えてみせるとも。
魔法少女と魔女の残酷な因果を覆す術を俺はまだ持たない。
ただ、俺は彼女の隣で戦うと決めた。
(強くなろう)
彼女が涙を流さなくて済むように。彼女が未来を望めるように。
——そして、もう誰も失わないように。
俺は廃墟の空の下、彼女の孤独を溶かすように、その髪を静かに撫で続けた。