——さやかと杏子が死闘を繰り広げる一方で。
「……ん、今日は鮭が安いな」
スーパーマーケットの自動ドアが開くと、冷気と共に漂う惣菜の匂いが鼻腔をくすぐった。
店頭に掲示された特売チラシの紙面を横目で見やりながら、俺は小さく呟く。
さやかとの苛烈な稽古を終えた帰り道。
日々の喧騒をそっと脇に置き、夕食の材料を調達するために立ち寄ったこの場所には、穏やかな日常の時間が流れていた。
「鮭か……」
鮮魚コーナーの棚にひとつだけ売れ残っていたパッケージ。
そこに貼られた『半額』のシールに視線が吸い寄せられる。
香ばしく焼き上げるか、あるいは蒸しあげるか。
我が家の食材のストック——玉ねぎ、にんじん、キャベツ、えのき茸、そしてバターの塊など。
しばし献立を思案した後。
「ホイル焼きにするか」
至極簡単でありながら、素材の旨味を逃さない。
何より失敗の余地が少ないのが魅力だ。
献立を確定させ、狙いを定めた鮭のパックへと指先を伸ばした——その瞬間。
横からぬっと伸びてきた別の手が、俺の指先とわずかに掠れ合った。
「すみません……!」
「いえいえ、お気になさらず」
咄嗟に手を引いて謝罪を口にすると、そこにいたのは温和な笑みを湛えた男性だった。
買い出し用のカートには、三歳くらいだろうか、幼い男の子がちょこんと座っている。
この柔らかな物腰の男性が、その子の父親であることは一目瞭然だった。
「おつかいかな? 感心だね」
「ええ、そんなところです」
男性は親しみやすい笑みを深めながら尋ねてくる。
『育ての親が他界したため、今は一人暮らしです』などという重苦しい事実を、初対面の相手に馬鹿正直に開示する必要もないだろう。
しかし……この男性の雰囲気が誰かに似てる気がしてならない。
「あの……この鮭どうぞ」
「ええっ⁉︎ 悪いよ、君も買おうとしてたんだろう?」
「お構いなく、では」
「ちょっと、君……!」
呼び止める声を背に受けながら、俺は鮭を諦めてその場を去った。
半額の鮭は惜しいが、あのままでは向こうが遠慮して譲ってきそうだった。
別にどうしても鮭を食べたい訳でもないし、俺一人の晩飯より、家族の食卓に並ぶ方が鮭の奴も本望だろう。
——子育て、頑張ってください。
二度と交わることもないであろう男性の後姿に、心の中でそっとエールを贈る。
……それにしても、あの半額の鮭は惜しかったが。
————————————————————
買い物を終えた後、俺は公園のベンチで先ほどの鮭の男性と並んでいた。
「あはは……さっきはありがとう」
「……いえ、お気になさらず」
苦笑いを浮かべて礼を言う男性の横で、彼の息子——幼児を膝の上に乗せた俺は、まるで油の切れた機械のような掠れ声を出していた。
結局、特売だったスパゲッティを見つけ、献立を『野菜と醤油バターのパスタ』に変更して帰路に就いたのだが、途中で聞こえた子供の泣き声に引き寄せられ、立ち寄った公園で奇跡的な再会を果たしてしまったのだ。
あれほど格好をつけて譲り、立ち去った後だけに、猛烈な羞恥と気まずさが胸を焼き焦がす。
「タツヤは随分と君のことを気に入ってしまったようだね」
「この子はタツヤ君って言うんですね……素敵な名前だと思います」
俺の膝の上で機嫌よくキャッキャと声を上げ、服の胸元をよじ登ろうとしてくる幼子の名前は『タツヤ』君というらしい。
——やっぱり誰かに似てる気がするんだよなぁ……。
既視感の正体が掴めず、俺は横目でそっと父親の方へと視線を滑らせた。
男性は我が子に愛おしげな眼差しを向けているものの、その目元には隠しきれない疲労と、深く重い陰影が刻まれていた。
「何か……お悩みでも?」
「え? いつの間にか顔に出ていたかな。どうしてそう思ったんだい?」
「なんとなく、です。こうして出会ったのも何かの縁。俺でよければ話を聞きますよ? 力になれるかは分かりませんが、初対面の人間の方が都合が良いこともあるでしょう?」
「……君、変わった子だね」
男性は力なく微笑むと、視線を遠くの空へと投げた。
そして、胸の奥に溜め込んでいた澱を絞り出すように呟き始める。
「……君は、見たところ見滝原中学の生徒かい?」
「はい。それがどうしましたか?」
「うん……最近、ちょっと悩みがあってね。僕には、君と同じ見滝原中学校に通ってる娘がいるんだけど、様子がおかしいというか……思い詰めてるような感じなんだよねえ」
男性は深刻そうな顔をして、呟くように語り出した。
どうやら娘さんのことで悩んでいるようだ。
大人にしか分からない事があるように、大人では分からなくなった事もあるだろう。
だから娘さんと歳が近そうな俺に話してくれたのだろうが、お世辞にも『普通の生徒』とは言えない俺が上手く助言できるか分からない。
とりあえず、自分の意見を話すとしよう。
「親バカに聞こえるかもしれないけど、全く手の掛からない良い子だったんだ。言う事は素直に聞いてくれたし、困らされた記憶もほとんどない」
「よく出来た娘さんですね。俺とは大違いです」
「……ただその代わりあの子は気を遣いすぎる子になってしまった。僕たち家族にすら心配をかけまいと一人で問題を抱え込んでしまうところがあるんだ」
「…………」
「優しい子……と言えば聞こえはいいけど、それは時に痛々しく感じるほどなんだ。そうさせてしまった原因は、きっと父親として至らなかった僕にあるんだと思う」
男性の声は震えていた。
それは、相談というより懺悔のようで、己を恥じているようでもあり、責めているようでもある。
「今も………表向きは明るく振舞っているけど何か大きな悩みを抱えてるみたいで………もし僕がもう少し頼りがいのある父親だったら彼女も悩みを打ち明けてくれたんじゃないかって考えることがあるんだ」
「俺は——あなたはとても優しいお父さんなんだなって、いま話していて感じました」
「——!」
「事情はわかりませんけど……娘さんを想って、そこまで本気で心配しているあなたは、とても立派な父親だって思います」
俺は両親の顔を知らない。
育ての親である爺さんもいなくなった。
そんな俺にとって、我が子のためにこんなにも悩んでいる父親を見て、羨望のような感情を抱いてしまった。
「俺は、あなたのような父親が欲しかったですよ」
「君……まさか、ご両親を……」
「同情して欲しい訳じゃありません。でも、本当に大切なものは、失くした奴の方が知ってるものです」
そこにあることが当たり前だと思っている日常ほど、失われた時に、その穴の大きさを思い知る。
それが二度と取り戻せないものなら、なおさらだ。
「だから、娘さんのこと、これからも大切にしてあげてくださいね」
「……ありがとう。励まされてしまったね」
「そんなつもりはなかったのですが……あまり、くよくよされてると『魔女』に取り憑かれてしまいますよ?」
俺は柄にもない事を言ってしまった恥ずかしさや、大人に対して、偉そうに説教みたいなことをしてしまったバツの悪さを誤魔化すように、戯けた調子で言うと、男性はそれをただの冗談と受け取ったようで、憑き物が落ちたように穏やかに笑った。
「それは大変だ。子供達のためにも、僕がしっかりしないとね」
「お役に立てたようで何よりです。では失礼します」
顔色の戻った男性に背を向け、俺はその場を後にした。
去り際、膝の上から降りた男の子がちいさな手を振り返してくれていた気がしたが、俺は二度と振り向かなかった。
俺にとって父親とは……そもそも親というものの顔すら覚えていない。
しかし、伝え聞いた話では、碌でもない連中だということは知っている。
ふと視線を泳がせれば、仲睦まじく歩く幼子と老人の姿が視界を横切っていく。
前を走る孫が祖父を急かし、老人は愛おしそうに目を細めながらその背中を追う。
「…………」
かつて、『魔法少女』という因果に囚われる以前の自分にも存在していたはずの、平穏な人間の日常。
胸の奥で渦巻くこの感情を、一体なんと呼べばいいのだろう。
喪失した過去への未練か、手に入らないものへの嫉妬か、あるいは果てしない憧憬か。
……いや、そのどれでもない。
己の存在そのものを根底から否定されるような、果てしない虚無感。
「……帰ろう」
分かっている。俺にはもう、あちら側の日常へと戻る術はないのだと。
なぜなら——俺は既にこの手で魂を質に入れて奇跡を求め、願いを叶えてしまったのだから。
失われた命は戻らない。過ぎ去った過去を振り返ることに意味などない。
ならば、足元にある泥沼を踏み越えて、前に進むしかないのだ。
踏み出そうとしたその瞬間。
「——見つけた」
「杏子……?」
背後から落ちてきた鋭い声に振り返る。
そこに佇んでいたのは、赤毛をなびかせた不良……ではなく魔法少女——佐倉杏子だった。
―――――――――――――――――――――
佐倉杏子という少女との最初の遭遇は、確か魔女退治の最中だったはずだ。
マミから必殺技の課題を課せられ、頭を悩ませていた時、彼女と出会ったのだ。
それから、紆余曲折あってパフェを奢らされたり、技の名前を聞いただけで殴り飛ばされたりと、散々な……いや、奇妙な出会いだった。
そして、次に出会ったのは鹿目先輩を守るために、必殺技を繰り出して、道端にぶっ倒れた時だった。
倒れた俺を介抱してくれて、その後は助けてくれた礼に彼女に手料理を振る舞ったり、その次はゲーセンで彼女の胸に触れてぶっ飛ばされたり……なんとも言葉にしがたい腐れ縁が続いていた。
さて、そんな彼女が俺を探していた理由は何か。
マグロを目の前にした猫のような瞳で俺を見つめる理由は何か。
見当もつかないが——都合がいい。
こちらとしても、彼女に渡さなければならないものがあった。
「丁度良かった。これ、返してなかったな」
「あん?」
彼女に連れて来られた夕暮れの河川敷で、ポケットからカプセル状の結界を取り出し、彼女に投げ渡す。
彼女がそれを掴んだのを確認して、結界を解除すると、緑色の上着が現れた。
「これって……」
「この前ゲームセンターで俺を殴り飛ばした後、俺にかけてくれたやつ。洗濯してあるから安心してくれ」
「おお、サンキュー。これ、お気に入りだったんだよ」
上機嫌で渡した上着を羽織る彼女の頬に一筋の傷があることに今更気付く。
まぁ……彼女も修羅場を潜る魔法少女。荒事は日常茶飯事なのだろう。
そんなことを考えていた矢先だった。
「……ん?」
「……チッ」
胸元のソウルジェムが激しく点滅し、異物の存在を告げる。
極めて近い。しかしこの反応は魔女ではなく、使い魔のものみたいだが………魔女も使い魔も、見つけた以上は放っておかない。
「話の途中だが、使い魔だ。悪いな、話はまた後で——何のつもりだ?」
使い魔の反応へ向けて地を蹴ろうとした俺の前に、杏子が素早く割り込み、その身体で道を塞いだ。
「アンタこそ、ありゃ使い魔だよ? グリーフシード持ってる訳ないじゃん」
「それがどうした? 人に害を加える前に抹殺するんだよ」
「だぁからさぁ、四、五人食って魔女になるまで待てっての。そうすりゃ、グリーフシードを孕むんだからさ」
……正直、一緒に夕食を食べた時から薄々気付いていた。
杏子が、使い魔を狩ろうとしない……そのような魔法少女であることを。
「……杏子、以前言っていたな。お前は、魔法は自分の為だけに使うものなのだと。自分のために生きればそれで良いのだと……」
「ああ、魔法は全て自分の為だけに使う。他人のために使っちゃいけねぇんだ」
「そうか……だが、俺には守りたいものがあってな。使い魔とも戦わなくちゃいけねぇ理由があるんだ」
それが今の俺の道標。
マミに教わり、自分で決めた生き方。
改めて使い魔を倒すべく、走りだした瞬間——その時だった。
皮膚を刺すような強烈な殺気が背後から膨れ上がったのは。
「——!」
ドサッ、と地を這うように身を投げ出す。
直後、俺がコンマ数秒前まで立っていた空間を、一筋の紅い閃光が薙いでいた。
その時に、一瞬だけ見えた杏子の瞳。
そこにあったのは純粋な怒りというより、見たくない現実を突きつけられた者の苦悶だった。
「何しやがんだ! 危ねぇな!」
「どいつもこいつも……他人のために戦ってどうすんだっての! 魔法少女ってのは、そんなんじゃねぇだろうがッッ!」
杏子の槍の振り下ろしを、紙一重で躱すと、砕けた地面から砂煙が巻き上がる。
「──そんな物騒なもん、プラプラ振り回してんじゃねぇッ‼︎」
視界を遮る砂煙を利用し、俺は彼女の肩口を目がけて鋭い蹴りを叩き込んだ。
だが杏子は、その衝撃を逃がすように空中で身を躍らせ、回転の勢いをそのまま殺傷力に変えて槍を跳ね上げる。
「——ぐぅっ!」
吹き飛ばされ、肩の皮膚が裂けて鮮血が舞った。
恐ろしいほどの戦闘センス。
だが、激痛の中で俺の思考は妙に冷えていた。
今の、身体の軸をずらしながらのカウンター。
その時、ふと閃いた! さっきの動きはさやかとの特訓に活かせるかもしれない!
「痛っ……! そういや……お前は俺に用があったみたいだが……」
「そうそう、お前——アタシと組め」
「……? それは一体どういう……?」
「アタシがお前に正しい魔法少女の生き方を教えてやるって言ってんの」
杏子の瞳に嘘はなかった。
真剣そのものの提案に、俺は一瞬言葉を詰まらせる。
「アンタみたいな奴が、マミ側で潰れていくのを見てらんねのさ。教えてやるよ。マミの甘い理想とは違う。魔法少女の現実ってヤツをさ」
「……マミを知ってんのか」
「呼び捨て……? へぇ、あいつ随分と懐かれてんじゃん。アンタ、マミより話が分かると思ってたんだけどな」
杏子は口の端を釣り上げ、酷く歪んだ笑みを浮かべた。
そして、遠い過去を追うような瞳で言葉を継ぐ
「昔、あいつと組んでた時期があったのさ。まぁ、アイツの甘っちょろい理想に嫌気が差して解散したけど」
マミ——その名前を聞いた時、瞬間、胸の中で幾つかのパズルのピースが噛み合わさった。
俺に戦い方を教えてくれたのはマミだ。
しかし、彼女の主兵装は単発のマスケット銃であり、俺の刀とは戦い方がまるで違う。
ならば何故、彼女は俺に戦い方を教える事ができたのか——その答えの一端が彼女だ。
俺の足運びも、間合いの詰め方も、敵の攻撃を流す癖も。
そのどこかに、目の前の少女の影がある。
マミが俺に教えてくれた技は、きっと、この少女と一緒に磨いたものだったのだろう。
そんな彼女が、今やマミと正反対のスタイルを取るということは、きっと彼女にも事情があったのだろう
胸をえぐるような、悲劇的な何かが。
——それはそれとして。
「何だよ。思春期かよ」
「あぁん?」
俺の中で、静かに怒りが静かに沸点を越えた。
瞼の裏が灼熱の火で焼かれるように熱い。
肩を切り裂かれた激痛など頭から吹き飛び、決定的な怒りが全身の血を駆け巡る。
それは使い魔を見逃すと言い放ったことでもない。マミの理想を笑ったことでもない。
自分自身を偽るように、傷つくことから逃げるように歪んで笑う杏子のその顔が——無性に気に食わなかった。
「そんな下手くそな笑い方で、嫌気が差したなんて信じられるかよ。お前、全く楽しそうじゃねぇぞ」
「…………お前に、何が分かるッッ!」
俺は彼女の過去を何も知らない。だが、本当の笑顔を知っている。
杏子は顔を歪めて凄味を利かせてくるが、俺も眉間にありったけの力を入れる。
剣呑な空気が俺達を包み込んだ。充満する怒気に怯えるように、頭上で広がっている木の枝葉がざわざわと揺れる。
「——勝負しよう」
「あぁ?」
「杏子が勝ったら、俺はお前に従う」
「へぇ……! 良い度胸じゃん。で? 万が一にもアンタが勝ったらどうすんの? まさか、マミに謝れとか?」
「いや、そんなこと言わねぇよ」
杏子がせせら笑うように言う。
きっと、彼女は自分の実力に自信があるのだろう。
彼女は強い——多分、俺よりも。
だが、そんなこと関係なかった。彼女が俺を否定するように、俺も彼女を否定しなければならない。
「そうだな——二度と汚い言葉を使うな」