「さやかの奴……特訓を休みにして欲しいってのは、どういうこった……?」
降り頻る雨の中、折り畳み傘を差して一人街を歩く。
急遽、さやかからの申し出により特訓が休みになってしまった今、完全に手持ち無沙汰となっていた。
さやかの方から休みを乞うてくるなんて、今まで一度もなかったことだ。
今まで……と言っても、まだそんなに日は経っていないのだが。
しかし、俺とマミのスパルタ気味な実技と座学に食らいついていたさやかだ。
まさか三日坊主ってことは考え難いが、それでも嫌な胸騒ぎが消えない。
……少し、追い込みすぎただろうか。
最近まで戦闘経験なんてない、ごく普通の女子中学生だったさやかを、急に厳しい実戦訓練に放り込んでしまった己の配慮不足を反省する。
「仕方ない……適当な使い魔か魔女の首級でも挙げに行くか……」
せっかく時間が浮いたのだ、無駄にはできない。
生憎の雨だが、来るべき『最悪の魔女』に備えて、ひとつでも多くグリーフシードを確保しておかねばならない。
『グリーフシードのリサイクル法』のおかげで、我が家の木箱からは溢れるほどのストックがあるが、相手が『ワルプルギスの夜』となれば、いくら準備しても『しすぎ』ということはないのだ。
それと並行して、妖刀の鍛造も進めなければならない。
一体何本の刀を使い潰すことになるか予想もつかない相手だ。
数打ちゃ当たるではないが、ワルプルギスの夜に有効な一振りを打ち上げることができれば万々歳だ。
「さて……ひとつずつこなしていきますかねっと……ん?」
雨煙の向こう側。傘も差さずに歩く、黒髪の少女の姿が視界に入った。
物好きの酔狂——という雰囲気ではない。というか、普通によく知る顔だった。
「キリカ? こんな雨の中、傘も差さずに何してんだ?」
「あ……村正!? どうしてここに……っ」
驚きに目を丸くしたのは、最近親しくなった友人のキリカだった。
毎朝気さくにメッセージを送ってきてくれる、俺にとって数少ない大切な友人の一人だ。
「まさか、傘を忘れたのか?」
「ち、違うよ! ちゃんと天気予報は見てきたんだ。……ただ、盗難に遭ったのさ」
「ああ……いるよな。自分が濡れたくないからって、他人の傘を平然とくすねる不届き者が」
「まったくさ。いい迷惑だよ」
肩をすくめて溜息をつくキリカ。
こういう真似を平然と行う輩の神経は、本当に理解に苦しむ。
しかも、たいてい翌日には何食わぬ顔で適当な場所に放置されていたりするのだ。
愚痴を言っても仕方ないので、俺は手に持っていた傘をキリカに差し出す。
「良ければ、俺の傘を使ってくれ」
「ええっ!? そんなの悪いよ、君が濡れてしまう!」
「俺なら平気だ。身体は鍛えているからな」
実のところ、結界魔法を展開すれば雨粒など全て弾くことができる。
だから遠慮なく受け取ってほしいのだが、彼女にとっては酷く気が引けるらしい。
「さあ、遠慮しないで受け取ってくれ。キリカに風邪をひいてほしくない俺を助けると思ってさ」
「君は……卑怯だよ! そんな風に言われたら……っ」
葛藤するキリカは頭を抱えて唸っている。
女性の身体は冷やすと良くないと爺さんが言っていた気がする。
もう既ににずぶ濡れで手遅れかもしれないが、これ以上雨に打たれ続ければ本当に体調を崩してしまうかもしれない。
それは、自分が濡れるよりも嫌だった。
「……だったらさ」
意を決したように顔を上げたキリカの発案は、俺の予想を遥かに超えるものだった。
「二人で……一緒に使おう?」
—————————————————————
「クソッ! どこに行きやがったんだあいつ……!」
濡れたアスファルトを蹴りつけ、杏子は激しい怒りを吐き散らしていた。
鹿目まどかへの交渉は最悪の形で破綻した。
会話を途中で切られたため、次の接触を約束することもできていない。
だが、このまま指をくわえて待っていても絶望的な未来は変わらないのだ。
ワルプルギスの夜は、もう目と鼻の先まで迫っている。
打てる手は全て打たなければ、またしても誰も守れずに終わってしまう恐怖に駆られる。
(そりゃあ……アタシだって無理強いなんかしたくねぇよ……っ)
何も知らない一般人を巻き込むことに、罪悪感や後ろめたさがないわけではない。
だが、強大な理不尽が目の前に立ちはだかった時、綺麗な手段だけでは立ち行かない現実を、杏子は嫌というほど知っていた。
ワルプルギスの夜さえ倒せば、見滝原だけでなく、周辺の都市、そしてこれから先殺されるはずだった多くの命を救うことができる。
正義感をこじらせた魔法少女にとっても、決して悪くない話のはずなのだ。
「——あ?」
葛藤と自己矛盾に苛まれながら大きな橋を渡っていた杏子は、対岸から歩み寄ってくる影に気づいた。
見滝原中学の制服に身を包んだ長くしなやかな黒髪。
暁美ほむらだった。
「お前……! まどかって奴をどこへやった!?」
「過去に一度」
「……は? 何言ってんだアンタ?」
雨音を激しく弾く大橋の上。
ほむらの透き通るような声は、不気味なほどよく届いた。
深く俯いたその表情を、杏子が窺い知ることはできない。
「多少の差異はあっても、ほとんどあの時と同じ流れ……あなたは、まどかを魔法少女に変えてしまう」
「……頭でもおかしくなったのか? 話が噛み合ってねぇぞ」
「最初こそ……まどかの意志を尊重するわ。けれど、巴マミと美樹さやかを失いたくなかったあなたは、徐々にまどかを追い詰め……最後には、魔法少女にしてしまったの」
杏子の息が凍りついた。
脳が言葉の意味を拒絶する。
だが、その衝撃を置き去りにするように、ほむらはソウルジェムを掲げた。
眩い紫の燐光が彼女の身体を包み、魔法少女の装身へと変貌させる。
解き放たれた苛烈な殺意に反応し、杏子も咄嗟にソウルジェムへ魔力を流し込んだ。
「あなたも戦力に引き込もうと考えたけれど、もう必要ないわ。あなたの穴は、千子村正が埋めてくれる」
「てめぇ……っ!」
「この時間軸には巴マミがいて、美樹さやかがいて、千子村正がいる……これ以上の世界なんて存在しない! それを台無しにするつもりなら——殺してあげるわ、佐倉杏子!」
いま最も耳にしたくない男の名を告げたほむらを、杏子は激越した瞳で睨み据える。
己の実力には絶対の自負があった。死線を潜り抜けて研ぎ澄ませてきた技と経験こそが、彼女の誇りだ。
目の前の少女も尋常ならざる手練れには違いない。
だが、彼女から溢れ出る魔力そのものは、村正やマミ、そして杏子自身と比べても明らかに小さい。
警戒すべきは、先ほどまどかを連れ去った正体不明の『魔法』。
杏子は全身の神経を研ぎ澄まし、槍を構えた。
——次の瞬間、目の前にいたはずのほむらが、虚空へと掻き消える。
「!? くっ——あぁっ!?」
次の刹那、杏子の至近距離で爆炎が炸裂した。
手榴弾の断片が肌を容赦なく切り裂き、激しい衝撃波が彼女の華奢な身体を宙へと吹き飛ばす。
水たまりの残る床へ打ち付けられ、吐血する杏子。
その衰弱した視界を埋め尽くしたのは、分隊支援火器の砲口から吐き出される鉛の濁流だった。
迫り来る死の弾雨を前に、杏子は諦めて目を閉じる——その時。
ほむらが放った弾丸のすべてが、完璧な精密射撃によって空中で撃ち落とされた。
「なっ……きゃあ!?」
絶対の殺傷を確信していた弾幕を塞がれ、目を見開くほむら。
その一瞬の隙を逃さず、足元から伸びた『黄色のリボン』が彼女の足首を拘束し、宙へと逆さ吊りに跳ね上げた。
「事情は分からないけれど……これ以上、私の後輩を傷つけるのは見過ごせないわ」
傷ついた杏子の前に立ち、凛とした声音で言い放つ少女。
ほむらは歯噛みしながら、その名を吐き捨てる。
「……巴、マミ……!」
「さて、説明してもらえるかしら? どうして佐倉さんを狙ったのかを」
ほむらは無言で拳銃を抜き放ち、杏子へ向けて引き金を引いた。
だが、それよりも早くマミのリボンが杏子を優しく抱き上げ、己の腕の中へと引き寄せると、瞬時に傷を癒やし、自身の背後へと匿った。
「佐倉さん、逃げて」
「で、でも……っ!」
「いいから、私に任せなさい」
「……すまねぇ」
マミの気迫に押され、杏子は一時撤退を決断する。
直後——世界から、一切の色と音が失われた。宙を舞う枯葉も、降り注ぐ雨滴さえも、その場に空間ごと縫い付けられたかのように停止する。
ほむらの固有魔法——『時間停止』。
強力無比な絶対の権能だが、明確な弱点が存在する。
それは「ほむら自身に直接、または間接的に触れている者の時間は止められない」という物理的制約だ。
マミはリボンを解さずほむらと繋がり続けることで、時間停止の影響を無効化していた。
ほむらがリボンを切断できぬよう不可視の魔力を透過させ、同時に杏子へもリボンを伝わせることで、停止した彼女の時間を正常へと繋ぎ止める。
「どうあっても……そいつを守る気?」
「追いかけようなんて思わないことね。さもないと……本気で私と戦うはめになるわよ?」
遠ざかっていく杏子の背中を視界の端に収めつつ、ほむらとマミは互いに視線を交錯させる。
一触即発の緊迫感が空間を支配した。
——そして、ほむらが音もなく跳躍した瞬間が、開戦の合図となった。
—————————————————————
——キリカは、子供という生き物が嫌いだった。
席が隣だったから、家が近所だったから、名前が似ていたから。
そんなくだらない理由で相手をあっさり信用してしまう愚かな子供が、反吐が出るほど嫌いだった。
そしてキリカは——かつて、そんな愚かな子供の一人だった。
村正の差す小さな傘に身を寄せ合い、土砂降りの雨の中を歩きながら、キリカは苦い過去に思いを馳せていた。
傘を盗まれた時は犯人への殺意で頭が煮え滾っていたが、その災難のおかげで今こんな夢のような時間を過ごせているのだから、むしろ泥棒に礼を言いたい気分だった。
ふと横顔を盗み見ると、少年の左肩がしっとりと雨に濡れていた。
一人用の小さな折り畳み傘を二人で使っているのだ、はみ出る者がいるのは当たり前だった。
キリカがこれ以上、雨に濡れないよう、村正は自分の身体を傘の外へ押し出していたのだ。
その無言の気遣いに、胸の奥が熱く疼く。
『初めて出会ったあの日』から何一つ変わらない彼の在り方に、心が跳ねる。
「村正、もう少しこっちによりなよ。肩が濡れてるじゃないか」
「気にしないでくれ。キリカさえ濡れなければそれでいい」
「……また、そうやって平気で格好つける」
わざとやっているのだろうか、と少年の横顔を覗き込むが、彼にそんな狡猾さがないことくらい、自分が一番よく知っている。
「村正はさ……私と初めて出会った時のこと、覚えてる?」
「ああ。スーパーのレジの前で、小銭を派手にぶちまけた時だろ?」
その回答に、少しだけ苦笑する。
忘れられている寂しさはあっても、失望などするはずもない。
「まあ、覚えてなくても無理はないよ。何しろ、私がまだ小学四年生の頃の話なんだから」
「嘘だろ!? そんな昔のことかよ!?」
キリカの予想通り、全く覚えていなかった少年が素で驚いた声を上げた。
幼い頃のキリカには、えりかという親友がいた。
『名前が似ている』という他愛もないきっかけで仲良くなった二人だったが、えりかは親の再婚という家庭の事情で、遠くの街へ転校することになってしまった。
環境の激変と親友との別離。
心の余裕を失ったえりかは、ある日万引きという過ちに手を染めてしまったのだ。
現場を目撃したキリカは必死で彼女を止めようとしたが、パニックを起こしたえりかは逃走。
残されたキリカが、冤罪で店員に詰め寄られる羽目になった。
その時だった。
——『その子、やってないよ』
店員に怯えるキリカの前へ躍り出たのは、自分より少し背の低い小さな少年だった。
呆然とするキリカを背中に庇い、拙いながらも懸命な言葉で目撃した一部始終を説明してくれた少年のおかげで、誤解は解けた。
そのまま走ってえりかを追いかけたキリカは、揉み合いの末に彼女の謝罪を受け入れ、親友としての絆を守ったまま別れを告げることができたのだ。
お礼を言おうと店へ戻った時には、もう少年の姿はなかった。名前すら聞けなかったことを、キリカは死ぬほど悔やんだ。
小学校を卒業し、中学を卒業する年になっても、あの背中を忘れたことは一度としてなかった。
むしろ歳を重ねるごとに、少年の記憶は彼女の中で神聖なまでに鮮明になっていったのだ。
そしてあの日——スーパーで小銭をぶちまけた時。あの頃と変わらない真っ直ぐな手で、少年は再びキリカに手を差し伸べてくれた。
「だからね。再び君が私の前に現れてくれた時……本当に、夢みたいに嬉しかったんだ」
「……思い出した。そうか、あの時の……!」
他人が聞けば、よくある子供同士の他愛もない昔話と笑うかもしれない。
けれど、キリカにとってあの出会いは、間違いなく運命そのものだったのだ。
「私、家こっちだから……! ありがとう!」
「え、ちょっと待て……!?」
曲がり角を指差し、キリカは裏返った声で叫んだ。
本音を言えば、もっと遠回りをしてこの時間を永遠に引き延ばしたかった。
けれど、破裂しそうなほどの羞恥心と、これ以上彼を雨に濡らすわけにはいかないという想いが、彼女の足を弾ませた。
赤く火照った顔を見られないよう、キリカは背を向けたまま走り去っていく。
——————————————————
「……行っちまった。傘、持っていけばよかったのに……」
雨の中に一人置き去りにされた俺は、彼女の背中を見送りながらぽつりと呟いた。
いつまでも立ち尽くしているわけにもいかず、気を取り直してグリーフシードの調達へ向かおうとした——その瞬間だった。
数十メートル先の歩道の端。激しい雨に打たれながら、弱々しく屈み込む影があった。
見滝原中学校の制服。所々が不気味な黒赤に汚れている。
怪我人だと直感した俺は、傘を投げ捨てて駆け出し——そして、息を呑んだ。
「さやか……!?」
「……村、正……?」
そこにあったのは、見慣れたはずの友の顔だった。
これほどまでに衰弱し、疲れ果てた表情のさやかを、俺は見たことがなかった。
瑞々しかった肌は泥と血に塗れ、細い手足には生々しい裂傷が無数に刻まれており、溢れ出る血が足元の水たまりをじわり、と濁らせていた。
「ひでぇ怪我じゃねぇか。ちょっと待ってろ」
急いで彼女の傷を魔法で癒しながら、ソウルジェムにグリーフシードを押し当てていると、さやかが消えてしまいそうな声で呟く。
「……ねぇ、村正……」
そして、次の発言に俺は耳を疑った。
「あたし達、組むのやめよう?」