「たのもーッ!!」
よどんだ、鉛色の空の下。
アスファルトに固められた大地へと無数の雫が落ちては弾け、雨粒が砕ける悲鳴のようなノイズが街の音を覆い隠していく中、陰鬱な天気をぶち破るような、一人の少女の威勢のいい声が響き渡った。
目の前に広がるのは、見上げるほどに立派な三階建ての大邸宅——見滝原でも有数の名家である志筑家のお屋敷である。
敷地は背の高い豪奢な鉄柵に囲まれており、美しく整えられた花や庭木が並ぶ広い前庭まで備わっている。
そんな威風堂々たる門前で、傘も差さずに力一杯叫んでいる少女の姿は——どこに出しても恥ずかしくない、立派な不審者だった。
ちなみに結界によって不可視化している鍛冶師の少年は、少女——さやかの背後に控えている。
「さやかさんですの……? まぁ! さやかさんったら、ずぶ濡れではありませんの!?」
「や、やぁ仁美……こんな時に悪いね……」
『——ゴホン』
「ちょっ、わかってるわよ……」
「?」
さやかの道場破りのような叫び声に驚き、慌てて扉の奥から駆けつけてきたのは、さやかの親友にして恋敵——志筑仁美である。
傘を差して現れた仁美は、門扉の向こうに立つ親友の姿を見るなり、信じられないものを見たように目を丸くした。
一方、さやかは仁美からすれば『誰もいないはずの後ろ』を気にしながら、覚悟を決めたように声を張った。
「こんな雨の中に傘も差さずに……早く中へ——」
「仁美!! あんたに、これを渡しに来たっ!」
駆け寄ろうとする仁美の言葉を勢いよく遮り、雨に打たれてずぶ濡れのさやかが、懐からバシッと『何か』を突き出した。
それは、彼女の全身が水も滴る状態であるにも関わらず、なぜか一滴たりとも濡れていない、真っ白な長方形の封筒。
差し出されたそれを受け取った仁美は、訝しげに表面を見つめ——やたらと達筆な文字を、思わず声に出して読み上げた。
「こ、これは、なんでしょう……? えっ! 『果たし状』?」
「そ、そうだ! あたしは仁美に決闘を申しわたーーす!」
『……その言い方、どこかで勉強したのか?』
『冷静に言わないでよ!』
後ろから呆れたような声でテレパシーを送ってくる『元凶』に、さやかもまた、テレパシーで叫び返す。
——どうしてこうなった。
さやかの心中はこの一言に尽きる。
事の発端は、数十分前に遡る。
————————————————————
「むーりー!」
理不尽な命令に対して、さやかは二秒でそれを拒否した。
「でもよ、ずっと懸想してたし、奇跡も使っちまった。そんで友達にも想いがバレちまってんなら、もういいだろ。さっさと告白するがいいさ」
「でもさ……仁美も大事な友達だし、傷つけたくないんだよね」
「てめぇが傷つくのは嫌なのにか?」
「そんなことないよ! 本当に……仁美との友情と恭介への想いに差がないんだ」
普段のさやかからは想像できない、苦悩と焦燥が入り混じった声音だった。
「仁美も、恭介も、みんな大事で……大好きなんだ。どっちか選べなんて、そんなのできるわけない」
「そうかよ。でも、もし——その二人が付き合うことになったら今まで通りの関係でいられるか?」
「いられるよ!」
照れもせず、真っ向から俺を見据えてさやかは言った。
正直、変わりたくないという、その気持ちは理解できる。
想いを伝えることが、本当に正しいとは限らない。
物語の世界では、それを踏み越えてハッピーエンドを描く。
けれど、現実はそうじゃない。
大事なものは、替えが効かない。かけがえのないものは失ったら二度と手に入らない。
卑怯だと詰れなかった、臆病だと馬鹿にできなかった。
踏み出さないのが正解でもいい。ダラダラとぬるま湯に浸かっていてもいい。
誰かが傷つき、何かが壊れる。
それに苦悩する者を、踏み込まないでいることの正義を誰が否定できるだろうか。
だが——。
「なら、二人が『これからCDショップに行くから』」って言うのを見送れるのか?」
「……見送れるよ! 恭介が退院したから、あたしは用事がなくなっちゃったし……」
「なら、二人が『今度の休日どこに行こうか?』『私、遊園地行きたーい』ってイチャついてるのは?」
「…………だ、大丈夫だよ! 付き合ってるなら遊園地くらい行くだろうし!」
……なかなか粘るじゃないか。
ならば、音を上げるまで畳み掛けるのみ。
「なら、公園のベンチでいい感じになってる二人……そこを通りかかったら目が合っちまって明らかに邪魔者扱いされるのはどうだ?」
「ぜっったい、嫌!!」
「だろ?」
「……それ、友情とか関係なく、人として耐えられないと思うけど……」
図星を突かれ、さやかはうめき声を上げて俯いた。
「結局のところ、てめぇは『振られて今までの関係が壊れる』のが怖いだけだ。親友を傷つけたくないってのは、自分を守るための言い訳に過ぎねぇよ」
「うっ……」
「嘘ついて誤魔化しても仕方ねぇよ。グジグジ悩むくらいからケリつけんぞ」
どこからか取り出した紙に、スラスラと文字を書き連ね、封筒に収める。
そして、それをさやかの額にペシッと押し付けた。
「なにこれ……『果たし状』!?」
「決闘の作法だ。これ叩きつけて、真っ向から勝負受けて立ちますって伝えてこい」
「いやいやいや! いくらなんでも時代錯誤すぎない!? 今時果たし状って!」
「形から入るのは大事だぞ? ほら、グズグズすんな! 行くぞ!」
「えっ、ちょっ、待って! 心の準備が! そういうところだぞ村正ぁーーー!」
————————————————————
——そして、現在に至る。
そんな村正の強引な背中押し(物理)をよそに、仁美は果たし状を見つめると、さやかの奇行の心当たりに行きついたようだ。
「あの……まさか、これがさやかさんの答えですの?」
「そうだ、これがあたしの答えだよ。仁美」
叩きつけるような雨音に負けないよう、さやかははっきりと告げた。
いつもはおどけてばかりで、どこか自分を誤魔化すように笑っていた少女の顔に、もう迷いはなかった。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、逃げることなく真っ直ぐに仁美を——大切な親友にして恋敵を見据えている。
「あたしは……恭介のこと、誰にも譲りたくない。今までずっと逃げてたけど……あたし、あいつのことが好きなんだ」
絞り出すような、けれど力強い告白。
親友の口から飛び出した明確な『宣戦布告』を受け、仁美は一瞬だけ目を丸くし——やがて、張り詰めていた糸が解けたように、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
「……ええ。そうですわね、そうでなくては」
仁美は自身が雨に濡れるのも構わず傘を少しずらし、さやかと真正面から視線を交える。
突きつけられた真っ白な果たし状を大切に胸に抱きかかえ、深々と、優雅に一礼した。
「この挑戦、謹んでお受けいたしますわ、さやかさん。お互い、悔いのないように全力を尽くしましょう」
「うん……! 絶対に負けないからね、仁美!」
「ふふっ、わたくしだって負けませんわ」
雨の中で視線を交わし、笑い合う二人の少女。
そこには同じ人を好きになったライバルとしての、清々しい決意だけがある。
————————————————————
「ここなら邪魔は入りませんわ」
「……ねぇ、ここって前にみんなで自殺しかけた場所だよね……!? なんでここなの!?」
決闘の場として仁美が指定し、彼女の執事らしき黒服の男性の運転によって二人がやってきたのは、市外れにある薄暗い廃工場。
具体的に言うと、あの『ハコの魔女』が巣食い、大勢の人間が自殺しようとしていた、いわくつきの廃工場である。
「だって、果たし状には『決闘を申し込む』と書いてありましたもの」
「いや、それでも普通、恋愛の決着つけるのに自分が自殺しかけた場所選ぶ!?」
「ふふっ。さやかさん、油断していると足元をすくわれますわよ?」
怯えるさやかをよそに、仁美は制服の袖を優雅にまくり上げ、なぜか臨戦態勢の構えをとっていた。
セコンドとして同行した黒服達が、真っ赤なボクシンググローブを仁美に差し出し、それを装着する。
それに対して。
「なんか……予想の斜め上の展開になってきたぞ」
「あんたが焚き付けたんでしょうが!?」
さやかに青いグローブを渡しながら呟くのは、この珍事の元凶であり、さやか側のセコンドの村正。
「どうやら……さやかさんが吹っ切れたのは、あなたのおかげのようですわね」
「俺は少し焚き付けただけですよ。志筑先輩」
「それでも感謝しますわ。実は……さやかさんとは一度、こうしてぶつかってみたかったので」
「……なるほど。悩んでたのは同じってことかね」
きっとさやかのように悩んで、踏み出せずにいたのは仁美も同じだったのだろう。
でなければ『一日』なんて時間は切らなかったはずだ。
世の中には、どんなに悔やんでも悔やみきれないことが、取り返しのつかない一言がある。
一度壊れた友情を確かめるように、どこか遠慮して、その気まずさからどちらともなく離れていって、そうしてそれっきりなんてよくあることだ。
「誰だって、友情は大事ですから」
中学生という期間は限られている。
学校という狭い世界の中で、青春という短い時間の中で生きている。
その中で育んだ『友情』。それを惜しむことは、きっと間違いじゃない。
「だったら……どうして恭介を好きになったのよっ!? 仁美が割り込んでこなければ、あたしだって……!」
「私でなければ、いきなり失っていたことに気付きませんの?」
「喧々諤々だな」
「「っ!?」」
「二人揃って睨むなよ……」
村正の呟きに、揃って眦を吊り上げるさやかと仁美。
その気迫に押されながらも、村正の視界にちらつく
「だったら二人で一緒に告白して選んでもらえばいいんじゃねぇのか? 俺はそういう意図での『決闘』だったんだが」
「「それは無理!」ですわ!」
「なんでだ? それが一番わかりやすいだろうに」
二人の剣幕に押され狼狽えながら疑問を投げる村正。
村正にとっては二人揃って告白して恭介本人に選んでもらうのが一番手っ取り早い方法だと思っていたのだ。
しかし、二人は妙に歯切れ悪く答える。
「だって……それってどっちかが断られるのを見るってことでしょう」
「そうですね。二人まとめて『ごめんなさい』ってのもあると思いますが」
「それならまだいいよ。目の前二人がくっついて、一人が振られるのはダメージが……」
「そうですわ! ダメージが……」
「……やっぱり、仲良いんだな、二人とも」
「「親友なんだって!」です!」
息の合いすぎた叫び声が廃工場に木霊し、互いに顔を真っ赤にする二人。
話は終わりだ、とばかりにさやか達から背を向けて、少し離れた位置で振り返る仁美。
「さぁ、さやかさん」
その瞳は、先程までの親友に向ける温かなものではなく、獲物を狙う『武道家』のそれに近い。
赤いグローブを装着した両腕が胸の位置で構えられる。
「決闘を」
廃墟に意志の声が響き渡る。
穏やかな笑顔で、穏やかではない台詞を口にしながらファイティングポーズを取る仁美。
そして。
「——参ります」
「え……? ぐはぁっ!?」
仁美は行儀よくさやかにお辞儀した直後──ドゴッッッ!! と。
「うわ、すごい音」
瞬時に鋭いステップとともに間合いを詰めて、鮮やかなボディブローをさやかの腹部に炸裂させる。
油断していたところに、重い一撃をくらったさやかが思わず呻き声をあげる。
「さやかさんは、私が色々と習い事をしているのはご存知ですね」
「……っ、へ……!?」
「その中には、いざという時の護身術として、いくつかの武術も嗜んでおりますの。そして——それら全てで好成績を残していますのよ」
その意味するところを瞬時に理解したさやかは、凍りついた。
お淑やかな深窓の令嬢かと思いきや、格闘技に精通しているとんでもないお嬢様だったのだ。
殴られたさやかが目にしたものは、いつもと変わらない、綺麗で上品な印象を与える微笑み。
「さぁ、本気で私にぶつかって来て下さい、こちらも本気で勝たせてもらいますわ」
その瞬間——『死』の一文字が脳裏によぎる。
額から大量の汗を流し、思い切り顔を引き攣らせたさやかの目には、いつもの笑顔を浮かべているはずの親友が『魔王』に映った。
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千子邸。
家主の少年がさやかを追いかけて家を飛び出していった後。
しばらく居間で、ちょこんと正座してお茶を飲んでいたまどかが、ぽつりと呟いた。
「……そういえば、男の子のお家にお邪魔したの、初めてかも……」
静寂に包まれた和室。
歳下とはいえ、異性の家にいるという事実に、まどかの頬は湯気のせいだけではない微かな朱色に染まっていた。
小作りな木製のテーブルに二人分の椅子。
部屋を見渡せば、ソファの上に無造作に転がっているクッションは二つ。
本棚の隅には、彼が絶対に読まないであろう年齢層向けの雑誌が積まれ、彼のパーソナルスペースであるはずのこのワンルームには、確実に『彼以外の誰か』の静かな呼吸が満ちている。
最低限の調度品、シンプルで機能的な家具に、少年の生活の痕跡を感じるとともに、こんなに広い家に、今は一人で過ごしているんだと、それが少し悲しく感じた。
すると、勢いよく居間の扉が開かれる。
茶請けの菓子類を探しに行った杏子が、一冊の白い本を持って帰ってきた。
「杏子ちゃん……それは?」
「ん? 多分アルバム」
「えぇっ!? ダメだよ、勝手に持ってきちゃ……!」
慌てて止めようとするまどかをよそに、杏子は悪びれる様子もなく、ひょいと躱して表紙をめくった。
そこにあったのは、病弱そうな印象を与える儚げな笑顔を浮かべる幼い少年と、その少年と瓜二つな美しい『少女』が映っていた。
「まさか、こいつが村正か? まるっきり別人じゃねぇか……!」
「…わぁ、ホントだ。なんだかすごく繊細そうで……可愛い男の子だね」
結局、好奇心が勝ったまどかがアルバムを覗き込み、驚きと同時にどこか切なそうな声を漏らした。
写真に写る幼い頃の村正は、肌も白く、まるでガラス細工のように儚げだった。
そしてその隣で、彼の小さな手を優しく握りしめ、包み込むように微笑んでいる綺麗な少女。
「隣の女の子は、前に話してたお姉さん……かな」
以前、村正が語っていた『姉』の写真。
しかし、仲睦まじく映る写真とは裏腹に、村正は自身の姉のことをほとんど覚えていない様子だった。
そして、優秀だった姉だけを両親は連れて行き、自分は置いていかれたのだとも。
本人は他人事のように軽く流していたが、一体どんな気分なのだろう、まどかは思案する。
ある日突然、姉——まどかでいえば弟のタツヤだけが——両親に選ばれて、離れ離れになるというのは。
心に黒い靄がかかるのを感じたまどかは、嫌な想像を振り払うように思わず次のページを捲る。
すると、一枚の古い、黄ばんだ『紙』が現れた。
まどかは、何気なくその紙を手に取って、そこに印字された文字を読んで——思わず、息を呑んだ。
——○○年○月○日、千子村正——逝去。
「……え?」
まどかの口から、掠れた声が漏れた。
指先がかすかに震え、挟まれていた紙の端を握りしめる。
そこに記されていたのは、どこかの病院か行政が発行した公的な記録の控え——死亡診断書のコピーのようだった。
日付は、数年前。
彼がまだ、幼い子供だった頃の年号が刻まれている。
「ん? どうした?」
「——っ!? な、なんでもないよっ!」
杏子の問いかけに、まどかは慌てて紙を背中に隠す。
先程まで確かに目の前にいた少年の姿が、まるで揺らめく幻影であるかのような、冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。
千子村正は——とっくの昔に死んでいる?