鈍く重い打撃音が薄暗い廃工場に響き渡り、さやかの身体がまたしても冷たいコンクリートの床へと崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……き、恭介は……あたしの……」
「いいえ、私のものです!」
地べたに手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら呻くように執念の言葉を吐き出すさやか。
そんな泥臭い彼女とは対照的に、息一つ乱さず、ステップの乱れすらない無傷の仁美が、毅然とした態度で力強く宣言する。
(——強い。まさかここまでとは)
死闘を見守りながら、村正は内心で舌を巻いた。
肝臓を狙う強烈なボディブローにより、さやかの体が『くの字』に曲がり、そこへすかさずダッキングから跳び込むように踏み込み、下から突き上げるようなアッパーを放ち、上体を大きく八の字の軌道で左右に揺すり、遠心力と体重を乗せた超高速の左右フックを連続で叩き込み、さやかの顔面が弾かれる度、汗と涙が宙を舞う。
もう何回あの重い拳を貰い、何回あの冷たい床に倒れ伏したのかさえわからない。
彼我の力の差は、誰の目にも歴然だった。
さやかの大振りな拳は仁美の滑らかなステップに掠りもせず、空を切るばかり。
逆に仁美のコンパクトで鋭い拳だけが、的確にさやかの顔面や腹部を捉え続けていた。
当然だろう。さやかは魔法少女として魔女と戦うために剣術や立ち回りを訓練しているとはいえ、素手の武道経験など皆無の素人なのだから。
むしろ、仁美の容赦のないボディブローを何度ももらいながら、今まで意識を失わずに何度も立ち上がり続けているだけでも充分賞賛に値する
しかし、村正だけは理解していた。
さやかがここまで一方的に追い詰められている、最大の要因を。
『さやか、魔法の力を使わないのか?』
倒れ伏すさやかに村正が念話で声を届ける。
さやかがここまで無様に追い詰められている本当の理由。
それは——魔力による強化を一切使っていないこと。
魔法少女は、自身の肉体を魔力で超常的に強化することで、魔女という規格外の怪物と渡り合うことを可能としている。
もし今のさやかが少しでもその力を使えば、いくら仁美が複数の格闘技に精通した達人であろうと、ただの『一般人』である彼女など指先一つで吹き飛ばせるはずなのだ。
しかし、今のさやかは魔力の使用を『肉体を最低限維持して動かすため』だけに留め、自身の身体能力を、キュゥべえと契約する前の『普通の女の子』のレベルにまで意図的に制限している。
それ故に、純粋な格闘技術で勝る一般人の仁美に、これほどまでに圧倒されているのだ。
『あのね……そんなもん使っちゃダメなんだ』
『……それはどうして?』
『これは……あたしと仁美の、ただの女の子同士のケンカだから』
床に這いつくばったまま、さやかは息も絶え絶えにテレパシーを返してきた。
その震える声には、彼女なりの絶対に譲れない『意地』と『矜持』が滲んでいた。
『魔女と戦うための力で……人間じゃないこのゾンビみたいな体の力で勝ったって、そんなの、恭介への想いが勝ったことにはならない……っ』
そうだ。彼女は魔法少女として優位に立つことを、自ら固く禁じているのだ。
先程まで『人間じゃない自分』に絶望していたさやかが、同じ土俵で、同じ『普通の女の子』として、親友と真っ向からぶつかり合うために。
「……そうだったな。お前はそういう奴だもんな」
村正は思わず小さく口角を上げる。
不器用で、愚直で、意地っ張りで——最高に格好いい少女の勇姿。
なら、外野のヤジなどこれ以上は野暮だった。
「まだ……まだ、倒れないから……っ!」
青いボクシンググローブを震わせながら、さやかは再びフラフラと立ち上がった。
どれだけ殴られても、何度膝をついても、彼女の瞳から闘志の炎が消えることはなかった。
死にかけだ——でも、半分生きている。
半分生きてれば何が起きても不思議じゃない。
「——ぐっ!」
再び鈍い音が響き、さやかの顔面が真横に弾かれた。
口の端から血がツーッと流れ落ちる。
完全に脳が揺らされているはずだ。
足元は生まれたての小鹿のように震え、ガードの腕を上げる体力すらもう残っていない。
それでも。
「……まだ、だ……!」
さやかは倒れなかった。
焦点の合わない目で、それでも真っ直ぐに目の前の『恋敵』を睨みつける。
「——っ!」
その決して折れない執念に、圧倒的優位に立っていたはずの仁美の顔に、初めて明確な『焦り』と『驚愕』が浮かんだ。
理屈ではない。どれだけ完璧に急所を打ち抜いても、何度ダウンを奪っても、目の前の少女は『恋慕』というその一念だけで立ち上がってくるのだ。
「あたしの想いは……魔法なんかよりも、強いんだぁあああッッ!!」
雄叫びと共に、さやかが踏み込んだ。
ステップも、腰の回転も、フォームも何もない。格闘技のセオリーからすれば、ただの隙だらけの素人の大振り。
本来の仁美であれば、容易く躱し、ガラ空きの顔面にカウンターを叩き込めるはずの、無謀な右ストレート。
だが——。
「……上等ですわッ!!」
仁美は、退かなかった。
親友が、『一人の女の子』として、血反吐を吐きながらもぶつけてきた渾身の『想い』。
それを小手先の技術で躱すことなど、志筑仁美の誇りが許さなかった。
仁美もまたガードを捨て、全身全霊の力を込めて右の拳を振りかぶる。
「「やぁああああああああああッッ!!」」
廃工場に、二人の少女の叫びが木霊する。
青と赤のグローブが、互いの頬を同時にぶち抜いた。
汗と涙、そしてほんの少しの血しぶきが、薄暗い空間に綺麗な弧を描いて散り、そして。
——決着がついた。
——————————————————
「あーあ……負け、ちゃった……仁美、強すぎ……」
「さやかさんこそ……あんなに殴ったのに、ゾンビみたいに起き上がってくるんですもの……本当に、怖かったですわよ……?」
さやかと仁美の拳が同時にお互いの頬を打ち、一瞬早く立て直した仁美の返しの一撃によって、さやかは力尽きた。
大の字になって天井を見上げながら、二人は可笑しそうに笑い合う。
しかし、そこにはもう、魔女の影も、嫉妬も、魔法少女の理不尽な運命による絶望も存在しなかった。
あるのはただ、同じ男の子に恋をした、二人の普通の女の子の『青春』だけ。
「ねぇ、仁美……」
「なんですの……?」
「明日……恭介に、ちゃんと告白してきなよ」
「——っ。よろしいのですか……?」
床に転がったまま、さやかは青いグローブで顔を覆い、少しだけ声を震わせた。
「うん……。だって、あたし負けちゃったし……それに、恭介を支えてあげられるのは、あたしより仁美の方が向いてるもん」
「さやかさん……」
「でもね! もし少しでも隙を見せたら、容赦なくあたしが貰っていくからね!」
「ふふっ……ええ。望むところですわ」
さやかの激励に笑みを溢した仁美は、恭しく一礼すると、黒服達とこの場を去っていった。
この場に残されたのは、さやかと彼女のセコンドの
それまでの戦いがまるで幻だったかのように、静寂が辺りを包んだ。
——終わった。
美樹さやかの、初恋が、今、ようやく終わったのだ。
ここにいる今が、ふわふわとした夢のようにも感じられる。
ともすれば、仁美とのやり取りもどこか現実感がないように思えた。
全身を苛む激痛は本物で、現実から逃避することは許されなかったが。
「…………敗けたん、だ」
唇からこぼれた呟きが、雨空へと消えていく。
「ふっ、ぁ、うぁぁっ……!」
情けない嗚咽を必死に堪える。
意識を離れて喉が何度もしゃくり上げた。
冷たいコンクリートの床に、ポタポタと温かい涙が染み込んでいく。
薄暗い廃工場に響くのは、少女の痛切な泣き声と、外で降りしきる雨の音だけだった。
「う、あ、ぁあああああああああああっ……!!」
目を腕で覆いながら、さやかはみっともなく、声を上げて泣き始めた。
身体中の打撲の痛みなど、心に開いたぽっかりとした穴の痛みに比べればどうということはなかった。
好きだった。本当に、大好きだった。
彼が再びヴァイオリンを弾けるようになるなら、自分の命すら惜しくないと思えるほどに。
だけど、その隣で微笑むのは自分ではない。その残酷な結末を、さやかは今、自身の全身全霊をもって受け入れたのだ。
そんなさやかの傍らに、静かな足音が近づいてくる。
村正は何も言わず、泣きじゃくるさやかの隣——冷たく汚れたコンクリートの床に、どっかりとあぐらをかいて腰を下ろした。
「……痛ぇか」
「……うんっ……すっごく……痛いよぉ……っ」
「そりゃそうだ。あれだけボコボコに殴り合って、おまけに一番好きだった男まで失恋したんだ。痛くねぇわけがねぇ」
村正の口から紡がれるのは、優しい慰撫の言葉でも、誤魔化しでもない。
ただの、残酷な事実の確認。
だが、今のさやかにはそれが何よりの救いだった。
自分のこの胸が張り裂けそうな痛みを、真正面から肯定してくれたのだから。
「でも、そりゃあ——お前が生きてるからだ」
「……え?」
さやかは顔を覆っていた腕をわずかに退け、涙でぐしゃぐしゃになった顔で隣の少年を見上げた。
「お前の魂は確かにソウルジェムになっちまったのかもしれねぇが、その胸の奥にある心までは、誰にも奪われちゃいねぇ」
「……っ」
「さやかは誰よりも真っ直ぐで、人間らしくて、最高に格好いい女の子だ」
その言葉に、さやかは耐えきれず、再び声を上げて泣き崩れた。
しかし、今度は一人じゃない。
村正の肩に額を押し付け、子どものようにしゃくり上げながら、これまでの我慢や強がり、恐れ、嫉妬——そのすべてを涙と一緒に外へと吐き出していく。
村正はただ黙って、さやかの気が済むまでその背中を不器用な手つきで叩き続けていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがてさやかの嗚咽が小さく、静かなしゃくり上げへと変わっていく。
泣き疲れて村正の肩にもたれかかっていたさやかは、腫らした目で、それでもさやかは憑き物が落ちたような清々しい笑みを浮かべた。
失恋の傷が癒えたわけじゃない。きっと明日、学校で恭介と仁美の並ぶ姿を見たら、またチクリと胸が痛むのだろう。
それでも、もう逃げない。この痛みごと抱えて、明日を生きていくことができる。
「さて。それじゃあ、グリーフシードをやるからウチに寄ってけ。それと鹿目先輩達が待ってるだろうからな」
「まどかが? ……そっか、早く安心させてやんなきゃ……待って、なんでまどかがあんたの家にいんのよ?」
「色々あったんだよ……」
村正が差し出した手を取り、さやかはしっかりと自身の足で立ち上がる。
廃工場の外に出ると、鉛色に淀んでいた空の雲間から、微かに夕陽のオレンジ色が差し込み始めていた。
激しかった雨はいつの間にか上がり、アスファルトにはキラキラと光を反射する水たまりができている。
「……ありがとね、村正」
「ん? 俺が何かしたか?」
「あんたがいなかったら、あたし……きっと、魔女になってたと思う」
歩き出しながら、さやかは照れくさそうに、けれど誤魔化すことなく真っ直ぐな言葉を伝えた。
「馬鹿言え。お前が自分で掴み取ったんだ。俺は何もしてねぇよ」
「あーあ、そこは素直に『どういたしまして』って言えないかなー。ほんと、ひねくれ者」
「うるせぇ。てめぇの頑固さに比べたら可愛いもんだ」
軽口を叩き合いながら、二人は並んで帰路につく。
その背中は、ほんの少し前までの迷い子のような足取りとは違う、確かな希望を持った足取りだった。
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「……何でコイツがここにいんのよ」
「あん? アタシがコイツの家にいたら、なんか悪いのかよ?」
「二人とも頼むから喧嘩しないでくれ」
居間でくつろぎ、煎餅をかじる杏子に対し、さやかが親の仇でも見るかのように警戒して睨みつける。
すると杏子も負けじと、凶悪な笑みを浮かべて睨み返した。
バチバチと火花を散らす二人を必死に宥める村正は、眉間の皺を抑えてしまう。
あの後、完全復活とまではいかなかったものの、精神的に大きく持ち直したさやか。
しかし、極度の緊張の糸が切れた途端、彼女の腹の虫が盛大に鳴り響いたため、ひとまずソウルジェムの浄化のついでに食事に誘ったのだ。
しかし、彼は失念していたのだ。
さやかと杏子が、つい先日、命がけの殺し合いを演じたばかりの最悪の犬猿の仲だということを。
顔を合わせるなり殺気を放つ二人だったが、いきなり武器を出して殺し合いに発展しないのは、ひとえにここが『人の家』であり、村正というストッパーがいるからだろう。
とりあえず飯を出して一緒に食卓を囲めば、お互いの関係も少しはマシになるだろうか——出汁の香りを嗅ぎながら、そんな一縷の期待を抱きながら作業する。
「まったく……鹿目先輩も何とか言ってやって……鹿目先輩?」
「ふぇっ!? な、なにかな?」
「どうしたんですか。まるで幽霊にでも会ったみたいな顔してますけど」
「——っっ!? なんでもないよ!」
「だったら良いんですけど……何かあったら遠慮なく言ってくださいね」
「ううん、本当に何でもないの! ちょっと、その……お出汁のいい匂いがして、お腹空いちゃったなって……あはは」
引き攣った愛想笑いを浮かべて誤魔化すまどか。
明らかに挙動不審な態度に、村正は首を傾げるが、これ以上無理に問い詰めるのことはしなかった。
「……まぁいい。ほら、出来たぞ。冷めないうちに食え」
卓の中央にドン、と置かれたのは、グツグツと湯気を立てる土鍋——人数分の特製鍋焼きうどんだ。
鶏肉、ネギ、椎茸、かまぼこ、そして中央に落とされた半熟卵。食欲を暴力的に刺激するカツオと昆布の出汁の香りが、居間いっぱいに広がる。
「「…………っ!」」
先程までバチバチと火花を散らしていたさやかと杏子の視線が、見事に土鍋へと釘付けになった。
二人は無言で自分用の小鉢と箸を手に取ると、凄まじい勢いでうどんを啜り始めると、千子邸の居間に、熱いうどんを啜る豪快な音が響き渡る。
「あつっ! はふっ、はむっ……! う、美味い……!」
「お、おい! 卵はアタシが狙ってたんだぞ! 勝手に食ってんじゃねぇ!」
「はぁ!? 自分の小鉢に入れたもん勝ちでしょ! あんたはそっちの椎茸でも食ってなさいよ!」
「んだとコラァ! お前マジで一回ぶっ殺すぞ!」
「やれるもんならやってみなさいよ!」
先程までの殺伐とした空気はどこへやら。
さやかと杏子は、土鍋から立ち昇る湯気の向こう側で、箸を剣のように交えながら、小鉢の具材を巡って熾烈な争いを繰り広げていた。
口喧嘩はしているものの、その表情に殺意はない。
ただの食い意地の張った同年代の少女のそれだ。
(……まぁ、飯を食ってる間は、人間そう簡単にいがみ合えねぇからな)
俺は台所の隅でその様子を見て小さく安堵の息を吐いた。
傷つき、迷い、それでも生きるために足掻く。
彼女たちは魔法少女である前に、まだ育ち盛りのただの中学生なのだ。
腹を空かせて飯を食う。その当たり前の光景が、今はひどく尊いものに思えた。
しかし、そんな和やかな食卓の中で、一人だけ異質な空気を纏っている少女がいた。
「…………」
まどかだ。
彼女は自分の小鉢に分けられたうどんを、箸でつつくだけで一向に口に運ぼうとしない。
その視線は、時折、台所に立つ俺の方をチラチラと不安げに盗み見ては、すぐに俯くという不審な動作を繰り返している。
(さっきから、どうしたんだ……?)
熱でもあるのだろうか。それとも、嵐の中を駆け抜けた疲労が今になって出たのか。
村正が心配になって声をかけようと一歩踏み出した——まさに、その時だった。
雨風の音を切り裂いて、千子邸の玄関の引き戸が、木枠が軋むほどの勢いで乱暴に開け放たれたのは。
「「「っ!?」」」
居間にいた全員の動きがピタリと止まる。
箸を構えたままのさやかと杏子が、瞬時に警戒の色を強めて玄関の方へと視線を向けた。
村正はすぐさま台所から身を乗り出し、玄関の方へと目を凝らす。
「村正君ッ!!」
「え……マミ、さん……?」
しかし、そこから現れたのは、全身ずぶ濡れになり、肩で激しく息をするマミの姿だった。
金色の縦ロールの髪は雨水を吸って重たく垂れ下がり、制服のあちこちには泥やコンクリートの粉塵がこびりついている。
何より異常だったのは、見滝原のベテラン魔法少女として常に余裕を崩さなかった彼女の表情が、これまでに見たことがないほど焦燥に歪んでいたことだ。
「マ、マミさん!? どうしたの、その怪我……!」
「一体誰にやられたんだよ!?」
さやかとまどかが慌てて駆け寄ろうとするが、マミはそれを片手で制止し、フラフラと覚束ない足取りで居間へと上がり込んだ。
そして、痛哭に等しい悲鳴のような声で、その事実を口にした。
「暁美さんが——誘拐されたわ……!!
次回、ラスボス(仮)とほむら。