今回、ほぼ蓮華しか出てきません。
——魂。
ほぼすべての宗教は、例外なく『魂』という概念をその教義に取り入れている。
人は古来より、肉体が朽ち果てて灰となった後もなお残る『何か』を想像し、それを魂と呼んで崇めてきた。
しかし、千子蓮華が魂の存在を信じているのは、神仏への篤い信仰心などではない。
知っているのだ。その眼で、確かにそれを見たからだ。
もちろん、彼女の手にあるソウルジェムのことではない。
己の幼い腕の中で絶命しようとしている弟の額から、たとえようもなく美しく輝く光の集合体が飛び立つさまを、確かにその目で見届けたからだ。
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千子蓮華は、見滝原の街から遥か遠く離れた地方都市で生まれ育った。
両親は多忙を極めていたが、娘である蓮華へ対する精神的・物質的な情愛に不自由させたことはなかった。
蓮華がよく預けられていた祖父——千子一心の屋敷は広大で、幼子の遊び場には事欠かなかったが、幼少期の蓮華が最も執着した場所は、父親の趣味が詰まったコレクション保管庫だった。
父は趣味として世界各地の昆虫標本を蒐集することに情熱を注いでおり、吹き抜けの広い保管庫には、数え切れないほどのガラスケースが整然と並べられていた。
蓮華は暇さえあれば暗い保管庫に立て籠もり、小さな手に握りしめた拡大鏡片手に、色とりどりの虫たちの体を舐めるように観察したり、部屋の中央に置かれた革張りのソファに深く腰掛けてぼんやりと空想に耽ったりしていた。
高い天井と薄暗い静寂に包まれた部屋でたった一人、周囲を数万匹もの物言わぬ死骸に囲まれていると、幼い蓮華の心には、時として奇妙な感慨が芽生えた。
ここに飾られている虫たちは、ほんのある瞬間までは確かに生きていたのだ。
緑豊かな草原で、乾いた砂漠で、あるいは密林の奥深くで巣を作り、餌を求め、子を成していた。
しかしある時、人間の勝手な都合で捕らえられ、薬品で処理され、標本箱に固定され、市場で売買を経て、最後はこうして千子家のガラスケースの奥深くに並べられることになった。
つまり——この部屋は豪奢な昆虫標本のコレクション・ルームであると同時に、人間によって殺戮された骸を何万とも並べ立てた、巨大な墓場でもあるのだと。
蓮華は静かに瞼を閉じ、もしも周囲を囲む無数の虫たちが、突如として失われた命を取り戻したら……と想像を膨らませる。
六本の細い足が懸命に宙を掻き、かさかさ、かさかさ、と乾いた摩擦音が無数に重なり合い、音の波となって蓮華の鼓膜へと押し寄せてくる不気味な感覚。
ふと、正面のケースの隅にピンで刺された緑色の甲虫の足が、微かにピクリと動いた気がした。
蓮華は弾かれたようにソファから飛び降りる。
ガラスケースへ駆け寄り、食い入るように息を止めて見つめ返すが、そこにいるのは死骸でしかなかった。
金属のように艶やかなエメラルドグリーンの甲殻、鋭い棘が整然と生えた脚、極小の網目が美しく並ぶ複眼。
この恐ろしいほど精緻な物体を、かつて動かしていた原動力はいったい何なのだろう——幼い蓮華の思考は、深淵へと潜っていく。
ある時、「昆虫には人間のような脳の構造はない」と父親が教えてくれたことがあった。
ならば彼らはどこで物事を考え、命を動かしているのか。蓮華が首を傾げて問い詰めると、父は苦笑しながらひとつの記録映像を見せてくれた。
画面に映し出されていたのは、交尾中のカマキリの姿だった。
丸々と腹の膨らんだメスの背後から、小さなオスカマキリがしがみつき、交接器を固く繋ぎ合わせている。
メスはしばらく身動き一つしなかったが、突如として両腕の鋭い鎌でオスの前半身をガッチリと捕獲すると、その首元からバリバリと咀嚼し始めた。
蓮華が息を呑んで見守る間も、オスは逃げ出すことも抵抗することもなく、じっと交尾を続け、己の頭部が跡形もなく喰らい尽くされた瞬間、静かに交接器を離した。
そして頭を失った体でメスの鎌をすり抜けると、一目散に草むらの中へ逃走したのだった。
頭部を完全に喪失しているにもかかわらず、オスカマキリは巧みに草の葉を伝い、枝をよじ登り、正確な逃走を続けた。
映像を指差しながら、父は幼い蓮華にも解る言葉で語りかけた。
『カマキリをはじめとする昆虫はね、全身の神経そのものが脳のような役割を果たしているんだ。だから頭を失っても、しばらくはそのまま生きていられるんだよ』
その映像を見て以来、蓮華は「ならカマキリの魂はいったいどこにあるのだろう」と何日も考え続けた。
頭を食べられても生きていられるなら、脚をすべて失ったところでさしたる問題ではないはずだ。
ならば腹だろうか。それとも胸なのだろうか。
しかし、彼らは柔らかい腹を押し潰されようが、金属のピンで胸を貫かれようが、しばらくは勢いよく足をバタつかせ、生きようと抗い続ける。
体のどの部位を失っても即死しないのであれば、カマキリの魂は、体全体に薄く等しく満たされているのではないか。
当時四歳か五歳だった蓮華は、祖父の屋敷の周囲で捕獲した無数の昆虫を相手に、幾度となく残虐な『実験』を繰り返した末、その結論に達した。
昆虫という精緻な器を動かす不可思議な力——『魂』は、器のどの部位を壊されようともしぶとく内に留まろうとする。しかしある限界を迎えた瞬間、器を捨てて離脱していくのだ。
離れていくその『魂』を、この目で見たい。できれば手で捕まえたい。
蓮華の胸には、狂おしいほどの熱望が吹き荒れた。
しかし、どれほど拡大鏡越しに目を凝らし、慎重に切り刻む実験を重ねても、昆虫の体から抜け出していく『魂』の姿を捉えることはおろか、感じ取ることすらできなかった。
祖父の屋敷の裏手にある『初代村正』の墓がひっそりと祀られた森に作った実験場。
その奥深くに築いた秘密の実験場で、膨大な時間と幼い情熱を費やしても、そのささやかな望みが叶うことはなかった。
己のこの欲求が、両親や世間には決して受け入れられない異常なものであることを、幼い蓮華は本能的に察していた。
だからカマキリの一件以来、父に二度と同じ質問を投げかけることはしなかったし、裏森での秘密の実験についても決して口にしなかった。
だが、ひた隠せば隠すほど、その禁忌の欲求は蓮華の内で肥大化し、心を支配していった。
その頃、蓮華には一人の双子の弟がいた。
鍛冶師の家系に生まれながら、満足に金槌を振るうことすらできないほど生まれつき身体が弱い弟。
そのため厳格な両親からは「出来損ない」として期待されず、見向きもされずに扱われていた。
しかし、そんな彼が過酷な環境の中で唯一育んだもの——それこそが『優しさ』だった。
身体が弱く、常に誰かの助けを借りなければ生きられなかったからこそ、命の尊さを身を以て知り、傷ついた他者へ惜しみない優しさを分け与えられる少年だった。
それこそ、一族の面汚しとして疎まれていた『千子一心』すらもが、唯一心を許してしまうほどに。
いつだったか、親の付き合いで参加させられたとある議員の妻の葬式で、どういうわけかその議員の娘が弟の胸で涙を流しながら、仲睦まじく笑い合っていた光景を目撃した時、蓮華は「何が起きているのだろう」と首をかしげたものだった。
そんな弟を冷ややかな眼差しで見つめながら、蓮華は思索を巡らせる。
——弟の魂は、いったいどこにあるのだろう、と。
昆虫と人間とでは構造が違う。
人間は頭部を失えば即座に命を落とす。
ならば、人間の魂は頭の……脳の奥底に存在するはずだ。
脳の損傷が必ずしも即死に繋がらない事例は、テレビのドキュメンタリーで知っていた。
太い鉄パイプが顎下から頭頂部へと貫通しながらも、命を取り留めた人間の例がある。
ならば、脳の特定の領域なのだ。
分厚い頭蓋骨と複雑な脳のさらに奥深くに、弟の魂はひっそりと隠されている。
いつの日か、弟の魂をこの目で拝むことができるかもしれない。
天使のように無垢で、清らかで、優しい弟の魂は、きっと言葉では表現し尽くせないほど美しく輝いているに違いない。
——だから、殺すことにした。
弟は体が弱いため、蓮華と共に祖父の屋敷に預けられることが多かった。
祖父が留守にする絶好の機会を狙い、蓮華は弟の華奢な手を取り、秘密の実験場へと誘導した。
邸宅の塀に張り巡らされた防犯カメラの死角を巧みに縫い、誰の視線も惹きつけないよう注意を払いながら森の深部へ入る。
足跡を残さぬよう分厚い落ち葉の上を選んで踏みしめ、鬱蒼と茂る灌木に隠された『実験場』へと弟を引き入れた。
かつてこの場所で、何百匹もの虫たちが切り刻まれて命を落としたことなど知る由もない弟は、まるでピクニックへ出かける幼子のように無邪気な笑みを浮かべ、姉の背中を追ってきた。
木漏れ日が斑模様を描く、静寂に包まれた秘密の実験場。
蓮華は振り返り、自分を全幅の信頼の目で見つめる弟の首筋に、冷たく小さな両手をそっと宛がった。
『——ごめんね、村正。お姉ちゃん、どうしても見たいの』
小さな指先に、幼子とは思えぬ力を込める。
必死に呼吸を求め、もがき、やがて生への執着を失ってガラスケースの標本のように動かなくなっていく弟の身体。
そして——蓮華はその日、人生で初めて『至高の美』をその目に焼き付けたのだった。
焦点を完全に失った弟の瞳。
その額の中央から、きらきらと眩い光を放つ小さな雲のような粒子が現れた。
それはふわふわと宙を漂いながら蓮華の眉間へと近づくと、何らの抵抗もなく彼女の頭の中へと吸い込まれてきた。
周囲を包んでいた春のうららかな陽光が消え去った。
頭上高く聳える木の梢を貫き、幾条もの純白の光束が降り注ぎ、耳裏にはかすかに神聖な鐘の音まで響き渡った。
絶頂のような高揚感に包まれ、蓮華の両眼からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
自分はいま、弟——千子村正の魂を目撃している……そればかりか、村正の魂が見つめている世界の風景を共有しているのだと、蓮華は直感した。
輝く光の雲は、永遠とも思える数秒の奇跡を残して蓮華の頭を通り抜け、そのまま天からの光に導かれるように上昇し、やがて空の彼方へ消えた。
周囲には再び、春の穏やかな日差しと鳥たちのさえずりが戻っていた。
魂を失い、完全に冷たくなった村正の遺体を抱きかかえながら、蓮華は今の体験が現実だったのか、それとも興奮による幻覚だったのかを狂おしく反芻した。
その後の警察の取り調べや祖父の狂乱など、記憶にすら残っていない。どうでもよかったのだ。
自分はこれから先、生涯をかけていま見たあの光を追い求めて生きていくのだと確信したからだ。
そう——つい数週間前、理想の世界を築く足がかりとして、魔法少女でもない祖父のもとへ魔女をけしかけるため屋敷を訪れた際、殺したはずの弟が何事もなかったかのように生活している姿を目撃するまでは。
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短くも濃厚な記憶のフラッシュバックから醒めた十三歳の千子蓮華は、マジックミラーに映る己の無表情な姿から視線を逸らすと、静かに後ろを振り返った。
「…………」
そこには相変わらず重厚な銀の鎖で天井から吊るされ、束縛された暁美ほむらの姿があった。蓮華の唇に、残忍な笑みが浮かぶ。
捕らえられた当初との違いがあるとすれば、執拗な精神尋問の果てに心身を苛まれ、光を失った瞳から幼子のように涙を流し、譫言のように誰かへの謝罪を呟き続けていることくらいだ。
肉体的な苦痛では彼女の鋼の意志を挫けないと判断した蓮華は、相手の精神に介入し、本人にとって最も恐ろしいトラウマの記憶をビデオテープのように脳内で無限再生させるという術を施したのだ。
「ワルプルギスの夜か……なかなか面白い体験をしてるじゃないか」
彼女が夢の中で何を目撃し、何に絶望し、涙を流しているのかは、術者である蓮華にも克明に共有されている。
ほむらが何度も何度も挑んでは敗れてきた最悪の魔女——ワルプルギスの夜。
ワルプルギスの夜に痛めつけられ、最後には桃色の少女——『まどか』が魔法少女になり、世界を滅ぼす魔女になったところで時間遡行が開始されるパターンがほとんどだ。
だが、蓮華にとってそんな少女の苦悶など、心に波風一つ立てるものではなかった。
幼少期に裏森で昆虫の足を一本ずつ引きちぎっていた時となんら変わりはない。
目の前に吊るされた魔法少女など、ガラスケースの中に固定された虫の標本と同等なのだから。
むしろ、蓮華の興味は『ワルプルギスの夜』に注がれていた。
真意のほどは定かではないが、ワルプルギスの夜とは、一体の魔女ではなく、複数の魔女の集合体であると聞いている。
ならば、大量のグリーフシードやソウルジェムを取り込み、魔力を蓄え続けた自分も、ひょっとしたら彼女になれるのではないか、と考えて笑みを浮かべる。
「魔法少女……本当に素晴らしい存在だよ」
精神を壊されたほむらの脇を静かな足取りで通り抜け、奥にある重厚な扉を押し開ける。
そこは壁も床も無機質な白一色で塗られた、さながら実験室を思わせる空間だった。
部屋の中央には不釣り合いなほど高級な革張りソファが置かれ、壁沿いにはショーウィンドウのように整然と並べられた無数のガラスケース。
そしてそのケースの内部には、蓮華の手によって蒐集された数々のソウルジェムが、怪しい光を放ちながら飾られていた。
魔法少女——言葉を換えれば、観察しにくい『魂』を宝石という形で物質化された存在。
記憶が定かではないが、蓮華が十歳の頃——まだ純粋な人間だった蓮華は、魔女の襲撃に巻き込まれた際、初めて魔法少女という存在を知った。
一目見た瞬間から人間とは決定的に異なるその在り方に強い興味を抱いた蓮華は、その魔法少女に言葉巧みに近づいて親交を深め、何度か魔女退治の現場へと同行した。
そしてある日、その魔法少女が魔女の猛攻に屈し、ソウルジェムを粉砕されたその瞬間——蓮華ははっきりと、再び『それ』を目撃したのだ。
砕け散るソウルジェムの破片から、あの日に弟の肉体から飛び出したものと全く同じ、眩く輝く光の粒子が立ち昇るのを、間違いなく観測した。
その後、現れたインキュベーター——キュゥべえを詰問した蓮華は、己の眼に狂いがなかったことを確信した。
魔法少女——彼女たちの魂は一般人と異なり、外側から明確に観測できるよう物質化されているのだと。
その事実を知った時、蓮華は胸が破れるほどの歓喜を覚えた。この世のすべての人間がそうであれば良いとさえ思えた。
観測できるのであれば、干渉ができる。干渉ができるのであれば、己の手中に収めることも可能なはずだ。
そのためには、魔法少女という検体を用いた大量の実験が必要不可欠となる。
そして実験の分母を増やすためには、魔法少女たちがより活発に繁殖し、活動しやすい環境を社会全体に構築しなければならない。
もしも魔法少女が支配する優位な社会を作り上げることができたなら、あの日に見た至高の魂に再び巡り会えるかもしれない。あるいは、それ以上に強い輝きをこの手に掴むことができるかもしれないのだ。
『君の力を私に譲ってもらおう』
蓮華はキュゥべえと契約を交わし、新たな魔法少女の勧誘を手助けする見返りとして、彼らの持つ権能を魔法として譲り受けた。
すべては幼き日に観測した、あの美しく輝く魂を手に入れるために。
「まだまだ世の中に退屈する必要はなさそうだね。あれほど美しい魂を! その願いを! このまま無為に潰えさせていいものか! そんな勿体無いこと、誰が許すものか!」
蓮華は英国製の柔らかい革ソファに深く身を沈めると、ふと、かつてその手で首を絞め殺した弟の顔を思い浮かべた。
魂を抜き取られたはずの弟が、なぜかいまも生きているという事実に、ゾクゾクとするような興奮が背筋を駆け上がる。
しかも彼が何らかの『願い』によって、自分たちと同じ魔法少女へと変貌を遂げたと知った時など、脳が沸き立つほどの歓喜に震えたものだ。
もうすぐ……もうすぐだ。
あの日弟を殺して以来、何人もの人間で実験を重ねてきたがいまだ届かなかった『魂の本質』へ、ついに手を伸ばすことができる。
もう一度、あの美しく完璧な光を拝むことができるのだ。
「あの美しい魂を……その光を私の手中に収める! それ以上の快楽がこの世のどこにあるというんだい! 楽しいだろうなぁ! 儚いだろうなぁ! 美しいだろうなぁ! あの子の魂は、いったいどんな輝きを放つのだろうか!」
蓮華は足元に這い回り、蛇のようにへばりついてくる黄色い『魔法のリボン』を見下ろし、狂気を含んだ薄笑いを浮かべながら、再び静かに瞼を閉じた。
きっと彼らはここへやってくる。奪われた仲間を奪還するために。
ならば、足元に連なるこの黄色いリボンは、さしずめ獲物を誘い込む
「そして私は……囚われの姫を攫った悪しき魔物、というわけだ」
今度こそ、弟の魂を完璧に手中に納めてみせる。
その前準備として、現在
そうすれば、あの子は怒りに身を焼くのだろうか。それとも悲しみの海に沈むのだろうか。あるいは絶望に呑まれ、おぞましい魔女へと変貌を遂げるのだろうか。
どの結末を辿ろうとも、己を至高の歓喜で満たしてくれることだけは間違いなかった。
「…………君の魂は……きっと狂おしいほどに、美しいだろうね…………」
ちなみに蓮華はインキュベーター同様に魔法少女の契約ができます。