「暁美が……誘拐された!?」
「うそ……ほむらちゃんが……?」
マミの報せに、隣にいた鹿目先輩が血の気を失い、顔を真っ青に染めて言葉を漏らす。
自分でも驚くほど低く濁った声が口から出た。
だが、そんな声の質を気にしている余裕などどこにもなかった。
胸の奥で荒波が逆巻き、猛烈な感情が渦を巻いている。
そんな馬鹿なことがあってたまるか。絶対にあり得るはずがない。
時間を自在に操る彼女を誘拐するなど、並大抵の手段で成し遂げられるわけがないのだ。
なにかの間違いじゃないのか、と否定する言葉が衝いて出ようとしたが、それは声になる前に喉の奥で消え去った。
マミの揺れる金色の瞳と、絞り出すような震える声。
それが理屈や理論をあっさりと飛び越え、突きつけられた現実のすべてが紛れもない『真実』なのだと、本能に理解させたからだ。
胸の奥で暴れる猛動を必死に抑え込み、固く結んでいた唇を無理やりこじ開けた。
「……どこですか。暁美は……彼女は今、どこに?」
努めて平静を装い、硬い声で問いかける。
マミは小さく息を吐くと、細い手首から伸びる一本の光の帯を示した。
「このリボンは、暁美さんに繋がっているわ。これを辿っていけば、彼女の囚われている場所へ行き着けるはずよ」
「——っ! だったら、今すぐに——!」
「落ち着いて、村正君。これは……罠の可能性が極めて高いわ」
静かだが重みのある言葉に打たれ、俺は初めてその可能性に思い至った。
無意識のうちに冷静さを投げ打ち、ただの感情論で動き出そうとしていた自分に、今更ながら気付かされる。
己のみっともない取り乱し様に、俺はぐっと奥歯を噛み締めた。
「……すみません。頭に血が上っていました」
「いいのよ、気にしないで。私だって……まだ完全に気持ちの整理がついているわけじゃないんだから」
そう言ってマミは、痛ましそうな瞳で俺たちを見つめた。
俺と同じなのだ。いや、誘拐の現場に居合わせ、目の前で彼女を連れ去られたマミの心中は、俺など比べものにならないほど酷苛なはずだった。
一番しっかりしていなければならない場面で取り乱し、諫められる己の不甲斐なさ。恥ずかしさと情けなさが混ざり合い、胸の底でドロドロと渦巻いていく。
千子家の居間は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
マミは現状の深刻さを誰よりも噛み締め、今にも脂汗を噴き出しそうなほど強張った表情を浮かべている。
さやかと杏子は眉間に深いシワを寄せ、鋭い眼差しを床の一点に注いでいた。
鹿目先輩の動揺と底知れぬ怯えは、肩の震えに合わせて揺れるツインテールが物語っている。
窓ガラスに映る己の顔だけが、なんとか外っ面だけの平静を必死に取り繕っていた。
「一体何があったんですか……?」
冷静にとなだめられたばかりだというのに、またしても声が荒ぐ。
マミは静かに両目を閉じ、重々しく口を開き、これまでの経緯を語ってくれた。
杏子を守るために暁美と交戦したマミが、暁美を拘束した直後の事だった。
「……魔女を使役する、謎の魔法少女がいたのよ」
「……っ! それって……!」
「暁美さんとの交戦中、その正体不明の魔法少女に急襲されたわ。魔女の群れによって分断された隙に連れ去られた。それが……事の顛末よ」
連れ去られた、と言い切るまでの短い無言の間に、マミが抱える複雑な葛藤と、激しい怒りが滲み出ていた。
魔女を使役する——その言葉を聞いた瞬間、さやかがヒュッと荒い息を呑んだ。
脳裏に浮かぶのは、かつて相まみえた『優木沙々』という魔法少女の姿だ。
彼女もまた魔女を自在に操り、無抵抗な人々を襲撃していた。
さやかの幼馴染を襲い、彼女自身が魔法少女として契約する直接の引き金となったその因縁の存在は、さやかの傷となって刻み込まれているはずだ。
だが、マミはこちらの考えを否定するように、静かに首を振った。
「優木さんではなかったわ。美樹さんたちから聞いていた彼女の特徴とは、あまりにもかけ離れていたもの」
その否定の言葉に、俺の頬が強張るのを自覚する。
つまり、あの狂人とは別に、害意と異能を持った魔法少女が存在するということだ。
この街は、本当の意味で狂ってやがる。
魔法や魔女という強大な力を笠に着て、他人を容赦なく傷つけようとする化け物が、最低でも二人も野放しになっているのだから。
「そこで——救出作戦を決行したいの」
マミは意を決したように宣言した。
その金色の瞳が直視したのは、主に俺と杏子だった。
彼女にとって最も信頼の置ける戦力——同じ師のもとで鍛え上げられた弟子である俺たち二人。
同じ師を持つ者として、出される答えは当然——
「行きましょう!」
「悪いけど、アタシはごめんだね」
……同じ、ではなかった。
革張りのソファへ深々と身を沈めた杏子は、俺の愛用しているクッションへ顔を埋めると、横目でチラリと俺とマミを見上げた。
「アタシはさ、そいつに何の説明もなく殺されかけたんだよ。助けてやる義理がどこにあるってんだ?」
「それは……まあ、強制できることじゃないな」
佐倉杏子——不参加。
窓に映る俺の影が悲しげに影を落とし、俺は杏子の主張を素直に受け入れた。
俺は暁美の秘められた事情を知っている。
だからこそ鹿目先輩の契約という存在が、暁美にとって触れてはならない逆鱗であることも理解していた。
何度も繰り返されたループの果てに、過激な手段を選ばざるを得ないほど彼女の精神が追い詰められていることも。
だが、だからといって理不尽に攻撃された側の杏子に「納得しろ」などと強いられるはずもないし、強いる気もなかった。
俺にとって杏子は掛け替えのない『友人』だ。
敵を倒すための便利な『兵器』でもなければ、こちらの要求に何でも頷く『人形』でもない。
命を賭けることになるであろう苛烈な救出作戦に、心身を傷つけられた杏子を巻き込むわけにはいかなかった。
「……そういえばさ、あんたはどうしてそこまでほむらのことを気にかけるわけ?」
ジロッと不躾な視線でこちらを射抜いてきたのはさやかだった。
なぜ、俺は暁美ほむらという少女を放っておけないのか。
冷酷で淡白だと周囲から誤解されがちな彼女だが、その頑なな仮面の奥底には、繊細な弱さが隠されている。
彼女の手を取ったあの瞬間、俺は知ってしまったのだ。
彼女が高慢や孤高を気取っているわけではなく、誰にも知られない暗闇の中で自分を奮い立たせ、今を必死に生きている、強くて儚い少女なのだと。
関わりを深めていく中で、ごく自然に悟っていた。
だから、突放すことなどできるはずがなかった。
……それ以外の理由を強いて挙げるならば──祖父がまだ存命で元気だった頃、千子家の居間に勝手に上がり込んでは飯を強だりしていた、一匹の野良猫に暁美が重なって見えたからだ。
俺にだけは懐いていたあの黒猫も、如才なく立ち回りながら、どこか不器用で儚い存在だった。
「…………理由なんてない。気づいたら、放っておけなくなってただけだ。まあ……強いて言うなら、昔飼っていた野良猫に似ているからか?」
「マジかよお前。そんな理由で命張れんの……?」
ツッコミを入れつつ、呆れを通り越して『未知の珍獣』でも見るような目へと変わる杏子。
さやかは酸素欠乏に陥りそうなほど腹を抱えてゲラゲラと爆笑し始め、マミは口元を手で覆い、上品にクスクスと肩を揺らしている。
鹿目先輩も口元を押さえ、花がほころぶような笑みを咲かせていた。
別に狙ったわけでもないのに場が和んでしまったことに若干の気恥ずかしさを覚え、俺は頭をかいた。
……そんなにおかしいだろうか?
気づけば居間に居座っていたり、一緒に飯を食ったりしている暁美の挙動は、あの黒猫と何一つ変わらないと思うのだが。
「…………懸けられるさ。俺の『魂』のために」
「……へいへい。そうだったわ、こいつは最初からこういうバカヤローだった」
何かを完全に諦めたかのように、「付き合ってらんねー」と背中を向けて食事を再開してしまった。
その理不尽な反応には困惑するしかない。まったく、わけが分からないよ。
そんな俺たちの遣り取りを温かな眼差しで見守っていたマミが、こほん、と表情を引き締めた。
「冗談はここまでにしましょう。残された時間は少ないわ。手遅れになる前に動きましょう」
「ちょっと待ってください。確か……この辺にあったはずだ」
俺は自分の作品の入った棚を漁り、そこから一振りの刀を引き抜くと、さやかへ向けて差し出した。
思わず目を丸くしたさやかは、反射的にそれを受け取り、不思議そうにしげしげと眺め回す。
「これ……紅い刀?」
鞘から静かに引き抜かれた刀身は、透き通るような深い紅色を帯びていた。
さやかの愛用する西洋サーベルと比べると幾分か細く、しなやかに長い。
まるで炎の結晶をそのまま鍛え上げたかのように色鮮やかな打刀。
思わず見惚れていたさやかは、ハッと顔を上げた。
「これを……あたしに?」
「お守り代わりだ。手ぶらで飛び込むよりはマシだろう」
「あはは、わかった! ありがとね、村正!」
年相応の無邪気な笑みを浮かべるさやかに、俺は一回瞬きをしてから、釣られて苦笑いを漏らした。
そんなやり取りを杏子がジロッと半眼で見つめてくる中、さやかは再び視線を刀身へと戻した。
「ちなみに、この子に銘はあるの?」
「いや、まだ付けていない。個人的には『暁美ほむら』を救い出すための『焔』の妖刀……略して『ほむほむ』にしようと思っているんだが」
「えっ?」
「「えっ?」」
その瞬間——さやかだけでなく鹿目先輩も、そして鍋をつついていた杏子までもがピタリと動きを止めた。
「どうだろう、我ながら会心の出来なんだが」
「あ、うん……は、はい! すっごく……イイ名前だねー! あははは……!」
「あのさやかちゃんが……困ってる……!」
顔をヒクヒクと引きつらせるさやかの背後で、鹿目先輩がひそひそと小声を漏らしている。
杏子に至っては、深いため息をつきながら器に鍋をよそっていた。
「あ、あはは! 便宜上、あたしは『炎の妖刀』って呼ばせてもらうね! いやー、せっかくの会心の命名なのに残念だなー!?」
「そうか……」
少し残念だが、本人がそう言うなら仕方がない。
無性に居たたまれなくなり、視線を彷徨わせる俺を見かねて、マミが「コホン!」と大袈裟な咳払いをした。
「無駄話はここまでよ。全員、準備はいいかしら?」
話を見守っていたマミの凛とした一言に、俺とさやかは無言で強く頷いた。
鹿目先輩たちの心配そうな視線に見送られながら、俺たち三人は迷いなく飛び出した。
マミの手首から伸びる、目に見えない光のリボンを唯一の道標にして——敵陣へと疾走する。
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「巫女様、新たな我等が同胞にどうか、その恩恵を」
カイコガを思わせる禍々しい意匠が施された、白と黒のフードローブを纏った者たちが、広い石造りの大部屋を埋め尽くしていた。
その光景は、地下組織、あるいは狂信的な秘密教団——そんな禍々しい表現が恐ろしいほどしっくりと当てはまる。
厳かで、粛々としていながらも、全員の瞳には狂気に満ちた『熱』が宿っていた。
静寂に寄り添う異様な熱気が、地下の冷気をドロドロと押し流している。
ひざまずく無数のローブたちの前に、巫女装束を纏った千子蓮華が悠然と佇んでいた。
「み、巫女様……本当なのですか……っ!? 本当に私の願いを叶えてくださるのですか⁉︎」
蓮華の足元にひざまずいた黒いローブの少女が、すがるように尋ねる。
その傍らには、焼き焦げた少女より一回り小さな少女——おそらく少女の妹の遺体が横たわっている。
大雨による落雷によって、運悪く命を落としたところに、蓮華の同胞が居合わせ、この場所に招待したのだ。
「ああ、私と魂の契りを結ぶというのなら。魔法少女の末路についてはすでに話したね? その覚悟があるのなら、必ずや君の願いを叶えよう」
妖しくも神聖な雰囲気を纏った、慈悲深い微笑みが投げかけられる。
ここに来る途中で、魔法少女の実態や、その末路を隠さず明かされた少女は、その決断を迫られる。
縋りつくような眼差しを向けていた少女は、震える細い手でそっとフードを脱ぎ捨て、己の素顔を晒した。
「妹を……助けてください……!」
「いいだろう。君の願いはエントロピーを凌駕した」
その眼前へ洗礼を施すかのように、蓮華は少女の手を包み込むように優しく両手で包み込んだ瞬間、少女の全身に、これまでとは比べものにならないほどの膨大な力が脈打ち、溢れ出していく。
そして、輝きを放つソウルジェムが現れ、新たな魔法少女が誕生する。
その宝石を受領した少女は、恐る恐る妹に視線を向けると、雷に打たれたことなどなかったかのように、すやすやと安らかな寝息をたてる妹の姿がそこにあった。
妹が助かった現実に少女は、歓喜に全身を震わせた。
「お前たちもだ! 私──この千子蓮華がすべての誓いを成就させてみせよう! 必ずや魔法少女のための理想郷を打ち立て、永劫の宿業から解き放ってみせる!」
瞬間、石室を満たしていたローブの群衆から、割れんばかりの歓声と叫喚が巻き起こった。
感極まったように身体を激しく折り曲げて震わせ、ある者は頬に感涙を流しながら、恐ろしいほどの熱狂に呑まれていく。
巫女の名を称えるシュプレヒコールはやがて一つに重なり合い、重厚な石造りの広間をバリバリと震わせた。
声の波が途切れないうちに蓮華はくるりと背を向け、広間の外へと続く薄暗い地下通路へと足を進めた。
薄暗い通路に反響していく一人分の足音。
歩いてしばらくすると、一匹の獣が蓮華の前に現れる。
「やぁ、蓮華。また一人魔法少女を増やしたみたいだね」
「キュゥべえじゃないか。私のことが嫌いになったのかと思ったよ」
「機能を奪われたことに関しては謝罪の一つでも欲しいところだけどね。それよりも偉大な巫女の振る舞いも板についてきたみたいじゃないか」
「──いやぁ、キャラは立つけど疲れるんだよ。よかったら交代しない、キューちゃん?」
「それは不可能だ。感情のない僕達には君のような真似はできないよ」
「わかってるんだけどさ。戦力はいくらいても足りないし、先の抗争で、ごっそり減らされたからねぇ。組織を大きくするのも大変だよねぇ」
それまでの神秘的な雰囲気が嘘のように霧散し、目尻を下げた軽薄な笑みが浮かんできた。
威厳など跡形もなく消え去り、後に残ったのは腐臭の漂うような退廃的な空気のみだ。
「それにさ、私のおかげで魔法少女も魔女もかなり増えたはずだよ? 私の——お・か・げ・で♡」
「……君の活躍によって、エネルギーを効率よく集められていることは認めるよ。もっとも、誰かの弟のせいで鹿目まどかとの契約は阻止されているけどね。誰かの弟のせいで」
「いつになく棘があるなぁ!? 君、ほんとは感情あるでしょ!?」
「それはあり得ない。感情なんて、僕たちにとって単なる精神疾患でしかないんだから」
目の前のキュゥべえ——正確にはインキュベーターが言う通り、彼らという種族に感情はない。
しかし、ごく稀に精神疾患を患った個体が現れるそうだ。
つまり、インキュベーターにも感情が芽生えるための土壌は存在している。
ひょっとしたらこの個体は、村正というイレギュラーに関わってしまったことで、既に精神疾患を患い始めているのではないか、と蓮華は密かに推測して嗤う。
キュゥべえとの会話の途中、一匹の黒い蝙蝠が滑空し、蓮華の華奢な肩へと静かに舞い降りた。
「おおっ! ついに動いたみたいだねぇ」
見張りとして放っていた使い魔たちが、囚われの姫君を奪還しにやってくる『勇者』の動向を告げ、蓮華は心底楽しそうに口元を歪めた。
「私の迷宮には、素晴らしい罠も恐ろしい魔女もいっぱい配置して君たちを待っているよ。ねぇ……『ミノス』? 君もそう思うだろう?」
蓮華は暗闇の奥底から立ち込める圧倒的な瘴気に向けて、まるでお気に入りのペットに語りかけるように、可愛らしく首をかしげて見せた。
通路の闇の向こうから現れたのは、重厚で猛悪な牛の頭部を持ち、血に飢えたように巨大な鉄斧を握りしめ、荒い鼻息を撒き散らすギリシャ神話に登場する異形の怪物だった。
名を『ミノタウロス』。蓮華は親しみを込めて彼を『ミノス』と呼んでいる。
魔法少女でも魔女でもない、彼女の手によっ『具現化』された芸術作品。
この迷宮と同様に、どこぞの街で『ウワサ』と呼ばれる怪異と同種の存在が彼だった。
「ねぇ、ミノスや『羽根』の皆も……あの愛くるしい侵入者たちを、盛大に『歓迎』してあげたいと思わないかい?」
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「——作戦はいたってシンプルよ」
地下へ至る階段の途中で、雨上がりの冷たい空気が吹き抜けた。
空を覆っていた分厚い暗雲は少しずつ切れ始め、日の沈む頃には雲も消え去り、今宵は美しい満月が顔を出すだろうとニュースキャスターが言っていた。
だが、そんな空模様とは正反対に険しい表情を浮かべたさやかが、天に向けてビシッと指を突き立てた。
「みんなでこの大迷宮へ突っ込んで、元凶の巫女をブチのめす。それでほむらを救い出す。作戦おわり!」
「さすがに雑すぎるわよ美樹さん!? なんだか変なところが村正君に似てきちゃって……」
さやかとマミさんの掛け合いが、寂れた廃区画の地下階段に響き渡る。
俺たちが向かっているのは、禍々しい力によって歪み、迷宮へと変貌した、旧風見野市美術館の地下。
かつて俺が、優木沙々と刃を交えた最悪の因縁の場所だが、その廃墟は見る影もなく変貌していた。
「迷宮内部では使い魔や魔女たちが待ち構えているのは当然として、あらゆる罠やカラクリを使ってこちらを殺しにかかってくるはずだ」
「あたしたちだけで一切の障害を排除して、この長い迷路を突破して、奥に潜む『巫女』を討ち取らなきゃいけない……」
暗く湿った階段に、三人分の靴底の音が重く響く。
階段を下りながら、俺たちはこれから立ち向かうであろう敵の強大な戦力に思いを巡らせ、思考を巡らせていた。
地の利も戦力も圧倒的な不利——そんな言葉すら生ぬるく思えるほど、この突入は『無謀』の極みだった。
巫女本人の未知の戦闘力もさることながら、もしここに彼女の協力者や配下が群れているとすれば、わずかな勝算すらさらに小さく擦り減っていく。
長い階段を下りきった俺たちの前に、高さ三メートルを優に超える巨大な銀の鉄扉が立ちふさがっていた。
扉から溢れ出る重厚な質感と、魔女とも魔法少女とも違う不気味な魔力から見て、生半可な魔法攻撃では、この扉を力任せに破壊することは不可能だと直感する。
これほどまでに仰々しい扉を構えている時点で、この先へ進めと招かれているようなものだった。
苦虫を噛み潰したような顔で、さやかがポツリと呟く。
「……まるで見つけてと言わんばかりに、ここに来るまでリボンを一度も切られてない。やっぱりマミさんの言った通り、罠の可能性が高い……よね」
さやかの強張った声が、静まり返った石造りの通路に虚しく反響する。
押し寄せる不安を押し殺すように、彼女はサーベルの柄をぎりりと強く握りしめ、ごくりと喉を鳴らした。
一瞬訪れた重苦しい静寂が、彼女の呟いた不安を肯定するように。
——ゴゴゴゴゴゴゴッ!
重厚な鉄扉が、地響きを立ててゆっくりと上昇を始めた。
「っ!?」
まるで侵入者の到来をあざ笑うように滑らかに滑り上がり、重々しい『鉄の口』が開かれていく。
目を見張る俺たちの目の前で、濃密な薄闇が渦巻く巨大な通路があらわになった。
生者を冥府へと誘う不気味な鬼火のように怪しく揺らめきながら、大迷宮のさらに深い深淵へと、真っ直ぐに伸びている。
「……村正君と二人で内部に侵入して、周辺の偵察に向かうわ。すぐに戻るからここで待っていて」
「っ、マミさん、大丈夫ですか!?」
「大丈夫よ。入り口から離れすぎないように注意するわ。何か異常があればすぐに戻ってくる」
そう告げると、マミと俺は迷宮の暗がりの中へと足を踏み入れ、一瞬で闇の中へ消えた。
それから数分後、俺たちは静かにさやかの元へと帰還した。
「ど、どうでした……!?」
「内部の入り口付近には、人の気配も使い魔の姿も見当たらなかったわ」
「だが、少し進んだ先で道が複雑に分岐していた。まるで巨大な迷路……いや、正真正銘の迷宮だ」
見てきた光景をありのまま報告する俺とマミの話を聞き、さやかは険しい顔で思索を巡らせていた。
「結論から言えば……行くしかないわね。暁美さんがこの奥に囚われている以上、私たちに迷っている時間はないのだから」
敵はこの奥に潜んでいる。それは疑いようのない事実だ。
どれほど陰湿な罠が待ち受けていようとも、ここで足を止めることは事態の悪化しか招かない。
俺たちは腹を括り、覚悟を決めた眼差しで前を向いた。
ぽっかりと暗い口を開けて俺たちを待ち受ける敵の巣窟を、黙って見据えながら。
アラもう聞いた?誰から聞いた?
『クノッソスの迷宮』のそのウワサ!
右へ左へ、ぐるぐるぐるり!
どこまで歩いても出口は見えず、どこからともなく牛の鳴き声!
だけど、だけども、ダイジョーブ!
お姫様の糸さえ手にすれば、どんな迷宮も抜けられる!
でもでも、気をつけて!
その糸、本当に出口につながってる?
糸をたどって、くるくるくるり!
帰ったつもりが元どおり!
迷宮の奥ではもっぱらのウワサ!
モウデラレナーイ!