機動戦艦ナデシコ 前日譚 プラネテス 最後のデブリ屋 ―木星蜥蜴になった人々―【ナデシコ30周年&佐藤竜雄監督追悼作品】 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
――西暦2195年。火星。
空が、裂けた。
青白い光が1輪の花のように宇宙(そら)に咲き、その裂け目から、無数の"それ"が津波のように溢れ出す。人の形をして、人の心を持たぬ軍勢。地球の最新鋭艦隊が、まるで子供の積み木のように、音もなく砕けていく。
逃げ惑う人々は、その怪物をこう呼んだ。
――木星蜥蜴(もくせいとかげ)、と。
木星の方角から来る、爬虫類のように冷たく、言葉の通じない化け物。誰もその正体を知らなかった。かつて地球が、希望という餌をぶら下げて宇宙の彼方へ送り出し、そして無慈悲に見殺しにした、同じ人間であることを。
憎しみの連鎖は、この日、頂点に達しようとしていた。
だが――ここで、1つ、問わねばならない。
なぜ、この怪物どもは、軍事施設だけを的確に狙い、逃げ惑う民間人には、ただの1発も撃たなかったのか。
誰も知らない。氷の底で、たった1人の老いぼれが命がけで刻み込んだ、たった1行の「掟」が、この瞬間、何百万もの命を守っていることを。
――時を、95年、巻き戻す。
西暦2100年。地球低軌道。
かつて宇宙を埋め尽くしたスペースデブリは、驚くほど数を減らしていた。危険が技術に飼い慣らされ、危険を拾う仕事――デブリ屋は、絶滅危惧種になっていた。
テクノーラに「半課(ハーフ・セクション)」と嗤(わら)われた、金にもならぬ良心の吹き溜まり。ヤニ臭い管制室。無重力の珈琲。「いつか自分の船を」と笑った、月生まれの若造。あの熱に浮かされた「開拓の時代」は、いま、静かに幕を下ろそうとしていた。
その黄昏の底で、1人の老作業員が、宇宙(そら)を見上げている。
名を、クリス。
最後のデブリ屋だ。
彼には、誰にも語ったことのない確信があった。夢を追う者が去った空(から)の椅子に、夢を数字に換える連中が座る。豊かさを求める者は、遠い場所の誰かを踏み台にする。地球で幾度も繰り返された悲劇が、こんどは宇宙という桁違いの舞台で、もっと残酷に演じられる。
「歴史ってのは、いつも同じ河を流れる」
彼は呟いた。
「たかがデブリ屋1人に、その流れは堰き止められねえ。だが――溺れてる誰かの手を、1本くらいは、掴めるかもしれん」
それが、この20数年、宇宙の底辺で人の生き死にを見つめてきた男が、胸の奥で育て続けた、たった1つの願いだった。
そのとき。
回収アームが、規定外の反応を捉えた。デブリではない。あまりに規則的で、あまりに――意図的な、金属の反応。
掴み上げたのは、古い遭難信号発信機。25年前、木星圏で消息を絶ったはずの、試験機のもの。その内部メモリには、たった1行、暗号化された座標が刻まれていた。
――木星圏。ガニメデ。
彼の手のひらの上で、赤いランプが規則的に明滅する。まるで、25年ものあいだ、ずっと、誰かを呼び続けていたかのように。
クリスは、まだ知らない。
この1本の発信機が、95年後、火星の空を裂く惨劇の、最初の伏線であることを。地球が見捨てる何百万もの命を、氷の底から救う「掟」の、始まりの1粒であることを。そして――この老いぼれ自身が、命と引き換えに、この宇宙で「いちばん重いゴミ」を拾い上げる、たった1人の記録者になることを。
――記録その1。
開拓の時代は、こうして、終わった。
そして、地獄が、静かに幕を開ける。