機動戦艦ナデシコ 前日譚 プラネテス 最後のデブリ屋 ―木星蜥蜴になった人々―【ナデシコ30周年&佐藤竜雄監督追悼作品】 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
西暦2100年。
地球低軌道。
かつて宇宙を埋め尽くしていたはずのスペースデブリは、いまや驚くほど数を減らしていた。
フォン・ブラウン号が木星への航路を切り拓いてから、4半世紀。
人類の宇宙開発は、あの熱に浮かされた「開拓の時代」を、静かに終えようとしていた。
デブリ回収船ヒルダ号の窓から、老作業員クリスは眼下の地球を眺めていた。
新素材シールドの普及と、初期型のタンデムミラー技術を転用した実験的な空間歪曲フィールド――技術者たちが「ディストーション・フィールドの素体」と呼ぶ代物――の実用化によって、微小デブリの衝突被害は、この10年でほとんど過去の統計になっていた。
かつて船体を貫き、人の命を奪ったはずの砂粒は、いまや目に見えぬ膜に受け止められ、静かに逸らされていく。
危険は、技術によって飼い慣らされたのだ。
「昔はよ、こいつ1粒で人が死んだんだ」
クリスは手のひらの上で、回収したボルト大の金属片を転がした。
誰もそれを信じなくなった時代。
危険がなくなれば、危険を拾う仕事もいらなくなる。
デブリ屋は、絶滅危惧種だった。
だが、クリスだけが、漠然とした不安を拭えずにいた。
この「安全で退屈な宇宙」が、そう遠くないうちに、どんな地獄へ変わり果てるのか。
長く宇宙にしがみついてきた男の勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。
彼には、誰にも語ったことのない確信があった。
人が宇宙へ夢を託した開拓の時代。
そして、その熱が冷め、企業だけが残っていく、いま。
歴史は繰り返す。
豊かさを求める者が、遠い場所の誰かを踏み台にする――地球でかつて幾度も起きたことが、こんどは宇宙という桁違いの舞台で、もっと残酷に繰り返されようとしている。
クリスには、その予感が、ほとんど確信に近い形で見えていた。
感じ取ってしまえば、もう気づかなかった頃には戻れない。
この先に何が待っているか。
木星で何が生まれ、地球が何を見捨て、その果てに、どれほど多くの血が流れることになるのか。
誰も見ようとしないその流れの行き着く先を、クリスは、誰よりも冷徹に見据えている、たった1人の人間だった。
「なあ、ヒルダ」
クリスは、老朽化した回収船に語りかけた。
「俺は、どこまでやれるかね」
船は、低い駆動音で応えるだけだった。
歴史という巨大な河の流れを、たかがデブリ屋1人が堰き止められるとは思わない。
だが――流れの中で溺れる誰かの手を、1本くらいは掴めるかもしれない。
彼はこの20数年、宇宙の底辺で人の生き死にを見つめながら、いつしかその1心を、胸の奥で育て続けてきた。
そのとき、船のセンサーが、規定外の反応を捉えた。
デブリではない。
金属の反応が、あまりに規則的で、あまりに――意図的だった。
クリスは目を細め、回収アームを伸ばした。
掴み上げたのは、古い自動遭難信号発信機。
25年前、フォン・ブラウン計画の初期に打ち上げられ、行方不明とされた試験機のものだった。
そして、その内部メモリには、ただ1行、暗号化された座標が刻まれていた。
木星圏。
ガニメデ。
「……なんで、こんなものが」
クリスの指が止まった。
まだ誰も、木星圏で「何か」が起きるなど知らない、この2100年に。
25年も前の遺失物が、まるで未来を指し示すように、彼の手のひらの上で、赤いランプを規則的に明滅させていた。
通信端末に、本社からのメッセージが届く。
差出人は、旧テクノーラ社の宇宙事業部門を吸収したばかりの新興コングロマリット――「ネルガル重工」。
件名にはこうあった。
『デブリ回収事業 完全終了のお知らせ』
そして、続く2通目。
人事部からの辞令。
赴任先の名を見て、クリスの指が凍りついた。
地球でも、月でも、火星でもない。
約6億km彼方――
『木星圏 開拓事業本部』
たった今、拾い上げた座標と、寸分違わず同じ場所。
クリスは、手のひらの発信機と、辞令とを、交互に見つめた。
偶然か。
それとも――誰かが、25年も前から、この日を、この老いぼれを、あの氷の底へ呼び寄せていたのか。
「行ってやる」クリスは、痩せた拳を握った。
「黙って見てるだけの観客が、1人くらい、舞台に上がってもいいだろう」
彼はまだ、この1本の発信機が、100年後の宇宙のすべてを揺るがす物語の、最初の伏線であることを、知らなかった。