【完結済】機動戦艦ナデシコ 前日譚 プラネテス 最後のデブリ屋 ―木星蜥蜴になった人々―【ナデシコ30周年&佐藤竜雄監督追悼作品】 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
赤く点滅する警報灯の中を、クリスは走った。
もう若くはない老いた身体に渾身の鞭を打ち、施設の迷路のように入り組んだ通路を駆け抜ける。
背後からは、感情の1切ない正確な足音――IFS処理を施されたネルガルの暗殺部隊。
だが、ここで、クリスの10年の仕込みが、最後の花を咲かせる。
彼は、走りながら、あの25年前の発信機で、コウイチロウへ最後の信号を送った。
「提督! いまです! 例の議事録を、いま、ばら撒いてください!」
同じ瞬間、地球連合本部。
コウイチロウは、10年間ずっと握りしめてきた切り札を、ついに切った。
ネルガル役員会の、あの「木星など存在しなかったことにしろ」という嗤いの記録。
そして、資源横領の全証拠。
それらが、地球圏の全報道網に、同時に、改竄不可能な形で、叩きつけられた。
ネルガルの重役たちが、優雅な会議室で、その速報を見て凍りつく。
「な……なぜ、これが……!」
10年前、彼らが油断しきって嗤ったその言葉が、いま、寸分違わず、彼ら自身の喉元に、突き立てられた。
それは、名もなき記録者と、1人の提督が、10年をかけて仕込んだ、最大の「断罪」だった。
暗殺部隊の追撃を受けながら、クリスは脇腹を撃たれた。
熱いものがじわりと広がっていく。
それでも彼は決して足を止めなかった。
カプセルを庇うように胸に抱え込み、よろめきながら射出ポートへと向かう。
朦朧と霞んでいく意識の中で、クリスの脳裏に、走馬灯のように記憶が蘇った。
あの写真――ヘルメットを小脇に抱え、下手くそなガッツポーズを決めた、志を抱く若者たち。
そして、木星の氷の底で、希望を語っていた頃の、レオの笑顔。
「レオ……ちゃんと、書いたぞ。お前たちが、かつて、ただの人間だったことを。誰が、お前たちを怪物にしたのかを。全部、ここに、ある」
よろめきながら、ついに射出ポートにたどり着いた。
クリスは震える血に濡れた手で、データカプセルを射出チューブにセットした。
そして、そのカプセルに、あの25年前の発信機を、最後に組み込んだ。
「これが、お前の、最後の仕事だ。25年、誰かを呼び続けたお前なら――今度は、ちゃんと、届けられるだろう」
彼は最後の力で、カプセルに音声メッセージを吹き込んだ。
「これは、木星蜥蜴の本当の正体と、ネルガルの陰謀の、すべての記録だ。宛先は、地球連合軍、ミスマル・コウイチロウ提督。木星の民は、怪物じゃない。かつての、俺たちだ。どうか――娘さんの代でもいい。この憎しみを、終わらせてやってくれ。対話の道を、開いてやってくれ」
最後の力を振り絞り、射出ボタンを押し込んだ。
データカプセルは、圧縮空気の音とともに、暗黒の宇宙空間へと放たれた。
それは、かつて彼が来る日も来る日も回収し続けた、無数の名もなきデブリと、まったく同じように、あてもなく宇宙を静かに漂い始めた。
小さく、そして途方もなく重い、真実の欠片。
「これで……いい……」
クリスは、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
だが、彼の顔には、なぜか憑き物が落ちたような、安らかな微笑みが浮かんでいた。
「ハチマキ……お前が、あんなに愛した宇宙は……こんなふうに、なっちまったよ……。すまん、な……。でも……最後に1つだけ……俺は、ちゃんと……いちばん大事なゴミを……拾えたぜ……」
最後のデブリ屋の、最後の回収作業は、こうして静かに完了した。
クリスの命と引き換えに放たれたデータカプセルは、あの発信機が発する超古代の周波数を灯台にして、まっすぐ地球へと向かった。
あてもなく漂うのではなく、10年間繋がり続けた2人の男の絆が、それを導いた。
そしてある日――それは1隻の地球連合軍の巡視船の観測網に捉えられた。
その巡視船の艦長の名は――ミスマル・コウイチロウ。
それを1行また1行と読み進める、その艦長の顔から、みるみる血の気が引き、そして――こらえきれぬ涙が、頬を伝った。
「……そうか。届いたのか。あんたは、最後まで、約束を守ったんだな」
彼の震える両の手の中で、クリスが命がけでこの宇宙に遺した真実が、静かに、しかし確かに光を放っていた。
「名も知らぬ、記録者よ。あんたの遺したものは、俺が、必ず活かす。この憎しみの連鎖は――俺の代で終わらなくとも、必ず、終わらせてみせる」
彼は、まだ知らない。
その決意を受け継ぐのが、いままさに就役しようとしている1隻の戦艦と、その艦長になる、彼自身の幼い娘であることを。