機動戦艦ナデシコ 前日譚 プラネテス 最後のデブリ屋 ―木星蜥蜴になった人々―【ナデシコ30周年&佐藤竜雄監督追悼作品】 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
地球、ある大都市の下層区画。
天井の低いスラムの1角に設置された巨大な公共モニターに、まばゆい映像が流れ始めた。
青く輝く木星の衛星、豊かに実る植物ドーム、笑顔で握手を交わす作業員たち。
ナレーションが高らかに謳う。
「フロンティアは、ここにある。ネルガル重工――あなたの夢を、木星へ」
モニターを見上げる群衆の中に、17歳のレオがいた。
両親を軌道上の事故で失い、職もなく、日々の配給の列に並ぶだけの毎日。
彼の暮らすこの区画では、空を見上げても、分厚い工業スモッグの向こうに星は見えない。
だからこそ、モニターに映る木星の澄んだ星空は、彼の目に、痛いほど眩しい希望として焼きついた。
クリスは、赴任前の最後の休暇を使って、わざわざこの区画へ足を運んでいた。
華やかな宣伝の陰で踏みつけにされるのは、いつだって、名もなき人間たちなのだから。
人混みの中で、ひときわ純粋に、希望を信じきった顔で映像を見上げている1人の少年に、クリスの目はとまった。
飢えた目をした若者たちの中でも、その瞳の輝きは、なぜか際立っていた。
募集ブースの前には、長い行列ができていた。
担当官は絶やさぬ笑顔で契約書を差し出す。
「渡航費はネルガルが全額負担。現地での住居も保証します。ただし――」
その先の細かな条項を、誰も読もうとはしなかった。
夢の重さの前では、活字はあまりに軽い。
クリスは、行列の連中に、それとなく声をかけた。
「なあ、あんたら。契約書の末尾、『市民権の1時凍結』って1文、読んだか」
数人が怪訝な顔で振り返る。
「それがどうした。凍結ってのは、一時的なもんだろ」
「その『一時』が、いつ解けるとは書いてない。解除条件が、どこにも書いてないんだ」
クリスは静かに言った。
「読める者だけでも、読んどけ。それだけで、助かる命があるかもしれん」
何人かは鼻で笑い、しかし――ほんの数人だけが、契約書の末尾に目を落とした。
そして、その数人は、後日、ブースに戻ってこなかった。
彼らは契約を、取りやめたのだ。
クリスは知らない。
その数人のうちの1人が、10年後、地球連合軍の下士官となり、木星の真実を追う提督の、数少ない協力者になることを。
小石は、もう波紋を広げ始めていた。
レオはペンを握った。
手が震えていた。
契約書の末尾、彼はまだ意味を理解していない1文の上で、ペンを止めた。
『渡航後、乙は地球連合市民権を1時凍結し、ネルガル重工の管理下における労働義務を負うものとする』。
隣に立っていた見知らぬ老人が、ぽつりと言ったのだ。
「坊主。その1文だけは、覚えとけ。いつか、意味がわかる日が来る」
レオは顔を上げたが、老人はもう人混みに紛れて見えなくなっていた。
彼はサインを終えた。
「これで、俺も宇宙の男だ」
その顔は、希望に輝いていた。
その夜、レオは仲間たちと安酒を酌み交わした。
やがて誰かが、酔いにまかせて古いアニメの主題歌を口ずさむ。
「行け行け僕らの ゲキ・ガンガー」
20世紀の、時代遅れの熱血ソング。
「なんだよそれ、古すぎだろ」と笑いながらも、いつの間にか全員が、その節を口ずさんでいた。
正義が必ず勝つ物語。
努力すれば報われる物語。
このとき、誰も知らなかった。
その歌こそが、いつの日か木星の凍える闇で、数万の人間を狂気の信仰へと導く「聖典」になろうとは。
そして、その最初の1音を口ずさんだレオこそが、やがて「木星蜥蜴」の王となることを。
最も恐ろしい伏線が、いま、酔った若者たちの何気ない鼻歌の中で、静かに芽を出していた。
歌声は夜のスラムに響き、スモッグの天井に吸い込まれ――遥か頭上、軌道上を横切るネルガルの移民船の巨影が、その光を、そっと遮った。