機動戦艦ナデシコ 前日譚 プラネテス 最後のデブリ屋 ―木星蜥蜴になった人々―【ナデシコ30周年&佐藤竜雄監督追悼作品】 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
地球連合政府庁舎。
かつて宇宙開発の理念を掲げた国際機関を母体とするこの組織は、いま見る影もなく痩せ細っていた。
会議室の長机には空席が目立ち、居並ぶ官僚たちの顔には、隠しようのない疲弊の色が濃く滲んでいた。
かつて人類の未来を語ったこの場所には、いまや帳簿の数字と、責任の押し付け合いだけが漂っていた。
「木星圏の管理コストは、もはや我々の財政では負担しきれません」
財務担当が力なく報告する。
国家という枠組みは、宇宙という広大なフロンティアを維持する体力を、とうの昔に失っていた。
議長が重い口を開く。
「ネルガルの提案を受け入れるほかあるまい。木星圏の開発権益、および現地行政の実務を――同社に、全面委託する」
反対の声は、もう上がらなかった。
国家が退場し、企業が秩序を継承する。
それは血も流れず宣言もされない、静かなクーデターだった。
議場の後方で、その決定を静かに見守る1人の若き軍人がいた。
地球連合軍の提督、ミスマル・コウイチロウ。
「民間企業に、6億km彼方の人間の生殺与奪を委ねる――それは統治ではなく、放棄ではないのか」
彼は軍人だった。
だが、命令の背後にある「人間」を見失うことを、何よりも恐れる種類の軍人だった。
その頃、木星への連絡船の中で、クリスは端末に映し出されたニュース速報を見つめていた。
「木星圏、ネルガルへ全面委託」
ミスマル・コウイチロウの名が、反対意見を述べた唯1の軍人として、ほんの1行、報じられていた。
クリスの指が、その名前の上で止まる。
企業が秩序のすべてを飲み込もうとするこの時代に、まだ「人間」を見失っていない男が、地球の中枢に、たった1人でも残っている。
「……あんたが、鍵になるかもしれんな」
クリスは呟いた。
いつか、木星で目にするであろう「本当のこと」を、この目で確かめ、記録し、託すべき相手がいるとすれば――それは、この提督だ、と。
彼の中で、朧げだった思いが、少しずつ輪郭を持ち始めた。
コウイチロウは会議のあと、上官に意見を具申した。
だが返ってきたのは、冷ややかな1言だった。
「軍人が政治に口を出すな。それに――木星の連中は、自分の意志で契約書にサインしたんだ。誰も強制などしていない」
契約。
その言葉の裏に、どれだけの絶望が隠されているかを、上層部は考えようともしなかった。
「軍人が政治に口を出すな、か」
執務室に戻ったコウイチロウは、窓から遠い星々を見上げた。
彼には、まだ乳飲み子の1人娘がいた。
妻を早くに亡くし、軍務の合間に、不器用に育てている娘。
ユリカ。
無邪気に眠るその子の未来のためにも、この宇宙を、憎しみの連鎖する戦場になどしてはならない。
コウイチロウは、そう強く思った。
その予感を裏付けるように、数日後、彼の元へ1通の匿名の情報が届く。
木星へ向かった第1次移民船団の1隻で、渡航中に「原因不明の死亡事故」が複数発生したという、短い記録。
だが末尾には、こう添えられていた。
『本件、ネルガル重工の要請により、対外非公表。
提督、どうか、この数字を覚えておいてください。
いずれ、意味を持つ日が来ます』。
コウイチロウは、その1行を、静かに指でなぞった。
誰だ。
誰が、こんな情報を――。
彼にはわからなかった。
それが6億km彼方、木星へ向かう船団の中から、1人の老デブリ屋が放った、最初の1手であることを。
だが、その匿名通信の最後には、彼にしか意味のわからない、奇妙な数列が添えられていた。
それは、25年前に行方不明になった試験機の、遭難信号のコードだった。
コウイチロウは知らない。
その数列を送った男が、たった今、木星行きの船の中で、あの古い発信機を握りしめていることを。